祖父の軍歴

猪鹿珠

祖父の軍歴



 私が中学か高校のころ、母から小耳にはさんだことがある。

「家のアルバムにおじいちゃんが中国に行ってたころの写真があったよ。馬に乗ってた」

 昭和15、6年のころのものだと言っていた。祖父は終戦後大陸から復員船に乗って帰国した。母の言葉どおりなら、祖父は単純計算して四、五年は戦地に行っていたということになる。昭和15年は西暦なら1940年だ。祖父は大正6(1917)年12月生まれであるから、赤紙がきたのは23歳かそこらという計算になる。私には軍事の知識はほとんどない。しかし太平洋戦争時を扱ったドラマや、知っている有名人の軍歴などを思い出すに、大抵が昭和17年かその後ぐらいに赤紙がきて大陸なり南方なりに行かされている。だから子供心に「本家の農家の長男がそんなに早くから?」と思った。いや、本家だの分家だのはこの際関係ないのだろうが。祖父には弟が何人かいて、そんなに年は離れていなかった。その人たちはどうだったのかはあいにく知らない。日中戦争開戦は昭和12年だったから、祖父より早く赤紙をもらったのかもしれない。


 ぱっと思いつく人物の応召年を並べている。「人間の條件」の作者五味川純平は昭和18年、「レイテ戦記」の大岡昇平は昭和19年3月。まあこの二名は大卒のインテリでホワイトカラーだったから、うちのような庶民より遅かったのも分かる。


 こういったエリートとは違うが、水木しげるは昭和18年5月である。こちらは大卒でもなく健康体だった。ただ視力だけ悪かったからこういうタイミングになったのかもしれない。


 朝ドラだと「カーネーション」の勝さんのモデルとなった小篠武一は昭和18年12月10日。小篠綾子が夫の戦病死を知らせる戦死公報を受け取ったのは昭和20年2月16日である。ドラマの勝さんは昭和17年12月に赤紙が来たことになっている。「寅に翼」の優三さんのモデルとなった和田芳夫は昭和20年、終戦ぎりぎりだ。


 それにしても五年も大陸へ行って生きて帰ってきたなどというと結構な猛者を想像したくなるだろうが、祖父は小柄で手足も細く、食も細く、性格も武張ったところは一切ない人だった。ドラマだったら赤紙がきて早々に戦死して「いい人だったのに…」なんてまわりから泣かれるようなタイプである。


 祖父のことをとりとめもなく思い出してみる。とにかく怒らない人だった。母も私も彼がカリカリしているところを見たことがない。お酒はほとんど飲まず、法事の席でも付き合い程度。少食だが甘いものだけは別腹で、羊羹を一人で一本平気で食べた。昔下呂温泉に母方の祖父母と一緒に行った時、宿の喫茶店で母が食べていた抹茶のムースを一口くれと言い、その一口の後いい笑顔で「あとみんな食べてもええか」と言ってきたことを、母と私は何度も笑って思い出したものだ。


 トイレの使い方についての見識もなかなか印象的だった。

「大きいのは一回水を流してからした方が汚れがつかなくていい」

 そう言っていつも実践していたようである。これに限らず汚す、散らかすということをとにかくしない人で、身の回りはいつもきちんとさせていた。


 几帳面なだけではなく勉強もできる人だった。小学生だった母がつるかめが分からないと聞きにいけば教えられるぐらいの人だった。本当は高等小学校の先生から中学進学もすすめられたそうだが、農家の長男に学歴は不要という当時の風潮のせいで実現することはなかった。


 彼の日々の暮らしの中で軍人だったことをしのばせるものがあるとすれば、自分の繕いものは自分でやったということぐらいだろうか。軍隊生活で覚えたボタンつけは、私はやっているところを見たことはないが、母は子供のころ見たことがあるそうだ。


 そんな祖父は傷痍軍人でもあった。母曰く足に敵の弾を受けたとかで陸軍病院に入院していたそうである。病院生活は平穏だったようで、毎回食事も出て、入院仲間と卓球をしたりして「あのころが人生で一番太った」などと言っていた。しかしそんな呑気なことばかりでもなく、隣のベッドでずっと「痛い、痛い」と言っていた人の声が徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなったと思ったら死んでいた、ということもあったそうだ。


 とにかく恐かったのは戦争に負けたと分かって、復員船の出る港まで敗走していく時だったという。実際、一部の人たちはシベリア抑留の憂き目をみた。なんとか船に乗れても、日本海の船中で病気で命を落とした日本人も大勢いた。


 ただ、祖父はそういう残酷なパチンコゲームをくぐりぬけ、おかげで私が生まれる時空ができた。


 ちなみに父方の祖父はと言えば、明治45年1月生まれの彼は十代のころに患った結核のために最後まで赤紙はこなかった。昭和20年の時点で彼はもう33歳。当時の33歳は今で言えば45歳ぐらい、完全な中年だから召集の可能性は薄かっただろうが、他に例がないわけではない。祖父は病歴に救われたと言えるだろう。


 父方、母方、どちらの要素が欠けても私は生まれていない。


 余談だが日本の港が見えてきた時、部下をいじめてばかりいたある上官は、部下たちに船から突き落とされたそうである。その上官が無事に泳いで陸に辿り着けたのか、そのまま溺れてしまったのか、結末は聞いていない。


 家に着いてしばらくは放心状態だったという祖父だが、家も家族も戦禍で失った復員兵が大勢いたことを思えば、先祖代々の家と田畑のある祖父は恵まれている方だっただろう。とにかく祖父は新しい日本に適応していった。もともと真面目で几帳面だった祖父はそのまま律義に代々からの田畑を守りとおし、一部は駐車場やマンションにしたりしながらお金を回し、それらの毎年の税の申告もかなり高齢になっても自分でやりとおしていた。


 そんな祖父が年間で唯一まったき元軍人に戻るのは、毎年8月15日の全国戦没者追悼式であった。傷痍軍人として恩給を受給していた祖父は、かつての国鉄およびJRに乗る分には無料である。家からの在来線の電車賃も新幹線代もただだった。式典に出た後は靖国に参拝しそのまま戦友会である。戦友同士の集まりはこの時以外にもあったようだが、祖父はとにかく戦友同士の集まりだけは、いかなることをおいても優先して予定をたてていた。祖父がどのような天皇観を持っていたのかは分からないが、少なくとも彼にとって戦友と靖国神社は何をおいても神聖な存在だったことは確かだ。


 とは言え、祖父のそういうところを尊敬したりかっこいいと思ったことはない。戦後民主主義と日本国憲法第九条をよきものとしてきた自分は、そういう世界とは相いれたくなかった。日本軍があの地で好もしからざることをしてきたという事実もある。それどころか、日本軍は外地の大半で、敗戦を知るや大陸・半島に移住していた多数の自国の民間人を置き去りにして自分たちだけ率先して敗走したのだ。


 彼らは持たされた武器を一切有意義なことに用いなかった。その結果が全てだ。


 しかし祖父はNHKなどの日本軍の蛮行についての番組などを見ると、こう言っていた。

「戦争だでしゃあない」

 彼はそういう人でもあった。

 開き直りなのだろうが、どうあがいても当事者でない者には分かるまい、という気持ちも含まれていたように察せられる。

 この会話は母とのものであったから、私は直接参加はしていない。祖父のことは好きだが、この部分については思い出すたびに猛烈な腹立たしさでいっぱいになる。祖父自身に対する罪の意識と当事者意識の欠落に対して、そして祖父のような元来善良な人にそのような残虐な奴隷性を植えつけた当時の教育に対して。


 そんな考えを抱きながらも、私は祖父と直接戦争の話をしたことは一度もない。これまで祖父のこととして書いてきたことはほぼすべて母から聞いたことだ。

 母から聞いたこと以外に知りたいこともあったが、わざわざ聞いたりはしなかった。なにしろ聞こうとすれば私の性格上、次第にそれは尋問のようになっていくに違いなかった。尋問が悪いとは思わない。日本が誤った道に進んだことについて祖父自身にも責任はあるのだ。参政権を持っていたのだし、早逝した自分の父から家と畑を受け継いでいた。少なくとも人一人の分だけ国の行く末に対して責任を負っていた。が、昭和15年の我が国は実質的に軍事独裁国家であった。一方で私は戦争も非民主的な体制もこの身に受けることなく育ってきた。そんな自分が祖父にどうこう問うのは均衡を欠いていると思った。そういう思いは小学生のころから持っていた。


 祖父が何か現地で残虐なこと、つまり戦闘員以外に対する何らかの加害行為をしでかしていた可能性については気にならないのかと問われれば、その見極めは私の中では優先順位は低いと答える。なぜなら何もなかったはずがないと確信しているからだ。


 仮にもし祖父が五年間完全シロだったとしても、そのことになんの意味があるだろう。あの地にいた以上、全ての日本軍人の手は一つにつながっている。誰々はやったが某々はそういうことはしなかった、などということを明らかにするなど、時間の無駄だ。戦地での残虐行為については、私は祖父もやったものと見なしている。


 私がどうにか知りたかったことがあるとしたら、いつ何歳のタイミングで応召があって、終戦後はいつに復員したのか、その正確な年月日だった。似たような体験は数あれど、時だけは祖父のものだ。大正6(1917)年12月生まれの祖父は平成28(2016)年2月に死んだ。98年と2か月あまりの人生のうち、実際何年戦地にいたのか。それぞれの折に外地のどこにいたか。


 だがどう調べればいいのか分からず、このことは長いこと脳内で放置されていた。


 しかしある時なぜかふと「祖父 軍歴」という単語でネットで検索してみた。本当に不意の思いつきである。するとなんともあっさりその方法は判明した。取り敢えず全国の都道府県庁にそういう照会をしてくれる課があるのだ。もう少し調べると、そうやって自分の親類の軍歴を調べた経験者の談がツイッターにあったりして、さらに理解が進んだ。


 調べ方は海軍と陸軍で異なっている。祖父の場合は陸軍である。まずネットで「祖父 軍歴」で検索すると、厚生労働省のホームページの中の「旧陸海軍から引き継がれた資料の写し等の申請について」というページにいきあたり、該当者の軍歴の照会を申請することができる。誰でも申請できるものではなく、本人か本人の直系親族三親等以内であることが条件だ。また申請の前に本人の本籍がある自治体の都道府県庁の該当課へメールを送り、まずは祖父の軍人としての記録である兵籍が残っているかどうかを確認してから、とのことである。


 愛知県の場合は愛知県福祉局福祉部地域福祉課の中にある恩給援護グループが取り扱っていて、メールアドレスや申請のためのエクセルのフォーマットも県庁のHPに用意されている。メールを送る時点で本人の氏名と申請者との関係、本人の生年月日と死亡年月日、住所、本籍地、知っている限りの出征関連の情報を伝える必要がある。ひとまず把握していることをいくつか書いた。ただこの時点で祖父の本籍地名は分からなかったので、代わりに母の実家の住所を書いた。母の実家は一帯の本家で祖父は長男だった。つまり昔からずっとそこにいたということだ。情報としてはこれで十分だろうと思った。


 冒頭に「愛知県福祉局福祉部地域福祉課 恩給援護グループ 御中」と書いてメールを送信したのは去年の12月19日のこと。それから「軍歴証明書の交付について」という件名の返信があったのは22日だった。


 祖父の兵籍は残っているとのことだった。それ自体は意外ではない。なぜなら先述のように祖父は戦闘で負傷した傷痍軍人で、その恩給をずっともらっていた。具体的な記録を軍が保管していればこそである。とは言え裁判所でも最近の重要な裁判記録を無造作に破棄してしまうようなご時世である。祖父の死後も残っていたことは、ありがたいと言うべきかもしれない。


 私の身分証明書のコピー、私の住民票(申請日前30日以内に作成されたもの)、私と祖父の関係がわかる戸籍謄本、祖父の死亡が載っている除籍謄本、さらに先方が軍歴証明書を返信するための送料分の切手。これらを同封して担当課へ郵送してくれれば軍歴を作成し送付するとのことであった。ただし、ここ最近こうした依頼が増えているとのことで、送付には二週間以上かかる、とあった。


 有給を一日とって最寄りの役所で自分の住民票や戸籍をとり、同じ足で電車に乗って母の在所がある某市の市役所へ行った。某市へ行くのはいとこが出産して里帰りをしていたところを会いにいって以来で、十年以上ぶりのことだった。しかしあの時は母の車で行ったので、駅前の変わりようをそれほど目にすることはなかった。しかし今回は違った。昔はなかった大きな駅ビル。ロータリーもかつてとは比べものにならないくらい巨大化している。駅ビルからは立体通路がのびていて、周辺の商業施設ともつながっていた。私が子供だったころはそんな商業施設自体がなかった。もう完全に別の町である。


 田植えやお盆のころ、稲刈りや秋祭りのころ。それ以外にも子供のころは両親あるいは母と一緒に母の在所へはしょっちゅう行ったものだった。お盆には泊まりがけで行き、いとこたちと一緒に浴衣姿で提灯を手に田んぼ道を歩いてお寺へ行き、お墓まいりもした。檀家となっているお寺の墓地にはてっぺんに星のマークがついた大きなお墓がたくさんあった。名古屋の自家の墓がある霊園では、私の見た限りそういった墓は覚えがない。


 母の在所へは車で行ったり電車で行ったり、半々であったが好きだったのは電車で行く方だった。駅の売店で大抵ハイソフトかミルクキャラメルを母が買って、母と私と弟妹で分け合って舐め、田んぼや大きな鉄塔を眺めている間に国鉄東海道線の某駅に着く。駅のロータリーに行くと祖父か祖母が白い軽ワゴンの中で待っている。私たちは笑って手を振りながら小走りでワゴンに乗りこみ、独特の硬いシートに座り、バーンという音をたてながらドアを閉め、ハンドルをぐるぐる回して窓を開けて、外の風景を眺めながら在所の町へ向かう。


 自分が子供だった30年以上前のことと今とのギャップにしんみりしつつ、30年どころじゃない大昔のことを調べにいった某市役所での手続きは、すんなり終わった。


 ちょっと話がそれたが、必要書類を年末にレターパックライトで送った後、はたして1月19日に地域福祉課から祖父の軍歴証明書が郵送されてきた。証明書はA4サイズ二枚だった。エクセルで作ったと思わしき表に年代順に祖父の軍歴が載っていた。


 祖父の応召は臨時召集によるもので、昭和15年9月1日付でなされていた。昔の母の言葉は大方合っていた。驚いたのは連隊のある愛知県を出発したのが11月24日、私の誕生日だったことだ。そして祖父らは愛知を出た翌日に大阪港を出帆(なぜか出港ではなく出帆という表記だった。意味は同じだが)。その後12月1日に南京へ上陸した。


 豫南作戦、確山作戦、第二次長沙作戦、大別山作戦、江南作戦といった日中戦争おなじみの作戦名プラス「に参加」という三文字が加わったものがずらずらと続く。もちろん具体的にどうだったかまでは書かれていない。


 気になっていた負傷日は昭和19年7月7日だった。

 7日の受傷の記述の直後が9日のこの記述だ。

「右太腿***投下爆弾破片創のため第3師団第4野戦病院に入院」


 入院日がそのまま受診日ではないかもしれないが、入院するような負傷で二日もあくものなのか。記録上のエラーなのだろうか。ハンス・ペーター・リヒターは「若い兵士のとき」の中で、前線で腕に怪我をしたのに、腕に止血の包帯をされただけでそのまま線路沿いに放置され(一応そこから野戦病院行きの列車に拾ってもらう手はずであるらしい)、やっと病院に着いて手術室に運ばれたころにはもう腕を切断するしかなくなっていた。そんな状況よりはましだったと言うべきか。


 その次の記録は昭和20年5月11日までとぶ。間はない。

「漢口第158兵站病院退院」

 途中どこかに転院したという記述もなく、いきなりこれであった。退院と同時に**連隊残留隊に復帰、ともある。残留隊という記述に悲愴なものを覚える。


 そして先述の日付から察せられることだが、この先の記録は短い。


 5月24日 馬受領のため武昌出発

 6月20日 伍長に昇進

 6月27日 右大腿部湿疹のため新郷第168兵站病院に入院

 8月24日 北京第152兵站病院退院 同日機動砲兵第三連隊に転属

 11月24日 長辛店出発

 11月27日 塘沽港出帆

 12月1日 佐世保港上陸

 同日    復員


 敗戦の後にそれまでと別の連隊に転属というよく分からない事態が生じている。よくあることなのだろうか。そしてこれが祖父の最後の所属であった。


 そしてなんとも奇妙な一致だが、長辛店を出発した日は、五年前祖父が愛知の連隊を発った日なのであった。最後はただ復員とだけある。本当にそれだけだ。


 記録を見る限り五年間で祖父は三度も病院の世話になっていた。一度目は公病ということで昭和17年3月4日から23日まで、20日間。次が先述の砲弾での怪我でこれは10か月と数日。最後の湿疹では2か月弱。推測だが、これは一種のクールダウンになっていて、祖父の社会復帰の一助となっているのかもしれない。そうでないとしても前線から遠ざかることでその期間分は命拾いをしていることは確かだろう。


 あれから何日もこのエクセル表をプリントアウトした二枚の紙を繰り返し読んでいる。分かったことはこれだけか、と自分の中で繰り返している。ただ日付が分かったことには心から満足している。



 もう一つはほとんどおまけのような話だ。


 母方の祖父について調べられる範囲で調べたことで少し欲が出てきた私は、それからしばらくして職業軍人だった父方の曾祖父の軍歴も調べてもらいたくなった。日露戦争に行ったという話は聞いていたので実際にそういう記録があるのなら見たかった。


 曾祖父は私の父が子供のころに死んだので、私はもちろん面識はない。曾祖父には第一子で長男である私の祖父も含めて五男四女がいたが、人となりについてはその一番下の子である大叔母から聞いた「いつ、何で怒るか分からない、恐い人だった」という言葉でぐらいしか知らない。他の親戚からもそういうエピソードしか聞かないので、本当にそういう人だったのだろう。「ゴールデンカムイ」に登場する狂った日本兵たちは、そんなに漫画的なキャラではないのだろう。


 曾祖父ゆかりの品はいくつか見たことがある。勲章らしきものを祖父母の箪笥から見せられた。それと曾祖父が「日露戦争の後ロシア人から買った」という手巻きの懐中時計。時計は黒の漆に蒔絵のついた、観光地なんかで売ってそうなオルゴールの中に入っていて、子供のころそれを取り出しては頭の中で宝探しごっこをしていた。ちなみに二つの懐中時計は鎖などがどこかへいってしまったりしたが、今は私が持っている。


 それぐらいである。仕方がないことだが、曾祖父については母方の祖父よりはるかに知っていることが少ない。


 会社の夏休みを利用して区役所へ行き、父の戸籍謄本をとり、そこから祖父と曾祖父の除籍謄本をそれぞれとった。父はともかく祖父や曾祖父のはなかなか興味深かった。たくさんいた大叔父や大叔母たちそれぞれの生年月日を見るのは面白かった。


 8月20日に例の宛先に問い合わせのメールを送ったところ、返信は8月23日にきた。先に言うと、曾祖父の記録はなかった。担当課から来たメールにはこうあった。


*******************


 愛知県に保管されている資料は、終戦まで軍人として所属していた方の戦時名簿(兵籍)等が保管されておりますが、愛知県の場合、終戦時焼却命令の通達が早く七割の方の戦時名簿(兵籍)が焼却されてしまっております。


 また、明治、大正の軍歴につきましては、ほとんど保管されておりません。


 よろしくお願いいたします。


*******************


 なんとまあ、である。


 末端の兵士たちには散々、敵に降るなどもってのほか、死ぬまで戦えと吹きこんでおきながら、その兵士たちの戦ったあかしはあっさりと燃やしたというわけだ。


 兵籍というのは軍人にとっての戸籍だから、それがなければその兵士はもうはじめから存在しなかったようなものである。在郷軍人会の名簿でもあれば、どこかに曾祖父のことが載っている可能性もあるだろうが。


 除籍謄本によれば曾祖父は昭和29(1954)年1月13日に死んでいる。彼は自身の大きな部分を占めていたであろう組織が、自分も含めた多くの同僚の存在をこの世から消し去ったことを知っていたのだろうか。


 軍主導による兵籍の焼却処分については、2016年3月に出された立命館平和研究第17号掲載の近藤貴明氏による論文「終戦前後における陸軍兵籍簿滅失の原因とその類型化-連隊区司令部における陸軍兵籍薄の大量焼却のケースを中心に-」で経緯をある程度摑むことができる。

https://rwp-museum.jp/wp/wp-content/uploads/2019/03/17_3%E7%B5%82%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%85%B5%E7%B1%8D%E7%B0%BF%E6%BB%85%E5%A4%B1%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E9%A1%9E%E5%9E%8B%E5%8C%96.pdf



 愛知県では昭和20年1月、都市部への空襲が激しくなったことで名古屋連隊司令部は南山中学を庁舎とすることに決め、保管書類も含めてそこへ移転した。やがて終戦。司令部は中央からの命令に従って8月16日と17日で大量の保管書類を焼却した。

「愛知県の陸軍兵籍簿の損耗率が総兵員数の70パーセントにもおよぶ」

 とのことである。70パーセントというのは先に私が県庁の担当者からもらった七割の兵籍がすでにないという文面とも一致する。


 そんな焼却命令は18日になって一転、中止が出される。理由としては復員兵士の事務処理が不可能になってしまうからとのことだ。コントみたいな話であるが、たった二日かそこらの間に実行された兵籍の焼却処分によって、その後傷痍軍人の恩給の受給申請が困難になってしまった人が実際にいたことを思うと、まったく笑えない話である。


 私は祖父が幸運児のように思えてしまった。

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