冬 契約の終わり 時が止まってほしい

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 充実していた筈の学生生活も自身の受験失敗等諸々で全てはご破算に。

 新に同窓の浪人女子「ソウシ」と「互いをよく知ろう」という仲になる。

 クリスマスも過ぎ、季節は受験の本番間近。

 というより駿河にはそれより気になることが・・。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-


 クリスマスの後でも浪人生に冬休みなど無い。

 ソウシは冬期講習、僕は日比谷図書館での自習。そして神保町で昼食をとり、お堀端を歩き、東98系統に乗って等々力駅で分かれた後、また家で四十五分の逢瀬を大事にしていた。

 日課の電話をしないと気分が落ち着かない。不思議と毎日、ソウシに気持ちをつなげていることで気分的にも張りが出て、風邪もひかないような気がしていた。


 *     *     *


「空が高くなってきたねぇ」


 ソウシが大手門の所で天空を見上げ、指差した。


「そうだねぇ…。」


 吸い込まれそうなほど青い空、雲一つ無い空は、秋に見上げた頃よりもっと濃さを増していて、じっと見入っていると無限に広がっていることを意識させられた。

 それとは反対に、今年はもう、あと一週間も無かった。

 空が何処までも青く『無限』に広がっていることを身体中で堪能している彼女とは反対に、僕は心の中で、もう直ぐやってくる『期限』を否応なしに感じていた。


 ―年末まで手をつないで歩いてあげる―


 あのサラダ完食記念日にソウシが自ら約束した期限だ。僕は今日まで、一言も、期限のことは口にしないできた。それは、言い出した彼女に権限があると思っていたからだ。毎日が同じように流れていく、其の小さな幸せの大事さを痛感していた。そして、これまでの毎日を振り返って、自分自身がそうした幸せを大事にしてきたか、自問自答した。


 受験の準備には此処まで後悔はなかった。

 ソウシとの毎日に後悔は無かったか?

 浪人生には似合わない、そんな自問自答を繰り返す日も、一日、また一日と短くなり、もう『期限』は其処までになっていた。


 季節は真冬になり、つないだ手は、自然と僕のジャケットの左ポケットに其の儘入ることが多くなっていた。


「ギエンの手は温かいねぇ、カイロみたいで、ほんと助かるよ♪」

「そう、此方は氷のかけらを握っているようだよ。いつになったら溶けるのやらって。」

「大丈夫、もう直ぐ溶けるから。」


 彼女は、暗に『期限』のことを匂わせているのか、ただ手が温まることを言っているのか、其様な言葉が僕の心を揺さぶっていた。


 *     *     *


 十二月二十九日。

「ギエンはいつまで図書館?」

「もう終わったよ。」

「へ? じゃあ今何処で自習してるの?」

「予備校。」

「あぁ、そっか」

「ソウシはいつまで講習?」

「講習は明日までだけど、三十一日まで自習室に来る。」

「頑張るねえ。」

「ギエンは、勉強どうよ?」

「んー、夏休み以降は順調な方…、かな。」


 実際、ドイツ語で受験するため、英語の成績が平均程度の所為でクラスこそD組に落ちていたが、京大理学部B判定、農学部A判定が続いていた。


「ソウシは?」

「早大一文がA~B、慶應がAかな。」

「お互いまずまずか。よく頑張って来た方なのかな、俺等って。」

「それは、最後の結果の後に判断することだよ。」


 真っ直ぐ前を見据えて、真面目な声できっぱり言い切った。彼女は受験に対しては可成りシビアだった。


「ギエンも三十一日まで来るの?」

「そうだな、暮れも正月も、単なるカレンダーでしかないから、来る。」

「じゃ、明日も正午に、平常通りにね」

「そうだね」

「もう、今年も最後かぁ…。」


 彼女は含みの多い言い方をして其の日は去っていった。


 *     *     *


 十二月三十一日。

「ヤァ。」

「何処にする?」

「あめりかまる、かな」


 神保町のあめりかまるは、すっかり僕らにとって行きつけの店になっていた。歩き出して僕が左側のポケットに手を入れると、寄り添って手を入れてくる。


「カイロ、カイロ。」

「無料で何ヶ月使った?」

「んー、寒くなってからだから二か月、かな。」

「今時、無料のカイロなんて、ないぞ。」

「そうだねぇ、お世話になったねぇ。」

(来た…。)


 ソウシは確実に今日のことを考えている、と思った。

 彼女に《流される》とか《なしくずし》という言葉が通用しないことは、此の数か月で僕が一番良く知っていた。


 あめりかまるでランチをとった後、再び、手をつなぎ、学士会館、一ツ橋、平川門、気象庁前と、普段のように歩いた。此の儘青い大空のように無限に時間が続いて呉れたら、と願った。

 ゆっくりと、彼女の手を感じながら歩く道、心なしか二人とも言葉が少なげだった。

 皇居前広場手前の和田倉門。石造りの小さな屋根付き休憩ベンチに座った。


「初めてお堀端を歩いた時も、此処で休んだね。」


 ソウシは手を離さない儘、少し寄り添って呟いた。


「うん。」

「今日まで当たり前のように過ぎていったけど、毎日が特別だった。」

「そうかい?」

「そうじゃなかったの?」

「そうだね。」


 少しだけ、沈黙の時が過ぎた。


「あのね、人はね、生まれて来るとき、拳を握って出て来るでしょう?」

「うん。」

「でも、いつの間にか、掌を開いちゃってる。」

「そうだね。」

「あれはね、自分の幸せを握って生まれて来て、それを放して了うんだって。」

「ふーん…。」

「だから、人は、其の放して了った幸せをもう一度掴むために、生きているんだよ。二度と放さないために。」

「もう一度、掴むためかぁ。」


 ポケットの中の彼女の手が、心なしか強く僕の手を握ったような気がした。


「じゃ、普段のとおり、バスに乗ろうか。」


 促されて、もう年末ダイヤになっている東98系統の定席に座った。


「今日はね、もう見る物も、話すことも無いんだ…。」


 彼女は、バスのエンジンがかかるとともに言った。


「ただ、こうして肩を貸して呉れるかな?」

「ん、分かった。」


 僕は覚悟を決めて、少しだけ右手を強く握った。其の手が少しだけ握り返されてきた。御用納めも済んでいる街を進むバスに、乗客は殆どいなかった。彼女は起きているのか寝ているのか、ずっと僕の右肩に頭をもたれた儘、右手を握っていた。


 時が止まってほしいと思えば思うほど、年末で渋滞のない目黒通りを、バスは軽快に走っていった。彼女は、小さな声で、初めてのバスでも唄っていたピーター・ポール&マリーの曲を口ずさんでいた。


 契約の延長を申し出たり、交際をはっきりと申し込んだりすることは簡単だった。しかし、ソウシの信念がそれを頑なに拒否することなど、わかりきっていた。


 バスは等々力駅についた。大晦日の駅は、まだ出かける人も少なく人影もまばらだった。切符を買い、また手をつなぎ、普段なら改札を通って直ぐに離せる手が、其の日は離せなかった。でも、離さなければいけなかった。


 踏切の鐘が鳴り始めた。もう直ぐ大井町方面の電車が来る。握った儘ポケットから出した手をとり、僕は其の甲にそっとキスをした。


「Vielen danke、 Meine Flaeulein!」

(本当にありがとう)

「Vous allez bien, monsieur !」

(どういたしまして)


 ソウシは、風と共に去りぬのヴィヴィアン・リーか、ローマの休日のオードリー・ヘプバーンのような抑揚で綺麗に答え、僕の頬に軽くキスをしてから、すらりと振り向いて電車に乗った。そして、少しだけ寂しげに微笑みながら手を振り、去っていった。

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