春 おケイさん (2)約束よ 絶対に

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 充実していた筈の彼女や親友との関係も、留学や自身の受験失敗で、全てはご破算に。

 再受験に向けた体をとりつつも、同窓の女子「ソウシ」に気も漫ろの駿河だが、実は昨年、まだ知られぬ火種らしきものがあった様子。

 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-



 其様なある日、僕は当の小泉から声を掛けられた。


「駿河ぁ、鳥渡ちょっと良いかな…。」

「おぅ良いぞ、突っ立ってないで、まぁ座りなよ。」


 僕は内心、彼女のことで釘でもさされるのかと少しばかり覚悟したが、直接的にそういうものではなかった。


「悪いけど、与謝野鉄幹の《人を恋ふる唄》を教えて呉れないか。」

「良いけれど…、急にどうしたんだい?」

「否、俺も浪漫を感じ度くなってな。秋だし。」


 照れ笑いをする小泉に、僕も笑い返しながら、よく唄う第四節までを紙に書き、何回か一緒に唄って教えると、彼は満足そうに戻っていった。それから彼の手には白樺派やアララギ派の文学作品が持たれることが多くなった。


 理由は薄々ながら分かっていた。僕がおケイさんと放課後の勉強をしていたとき、彼女から最初の一週間で即時下校するよう余儀なくされた小泉だったが、僕等と言えば、特に他意もなく途中の駅まで一緒に帰っていた。

 ガラガラと朴歯の足駄を鳴らしながら歩く僕の後ろを、おケイさんは気持ち良さそうに、髪を秋風に靡かせ、二人して勉強後の心地良い沈黙の風に吹かれていた。


 そういう時、僕にとっては至極常時の習慣で与謝野鉄幹を唸ったり、紅萌ゆる(旧制第三高等学校逍遙歌)を口誦んでいた。


「駿河クン?」


 おケイさんは、背後から(唄の邪魔をしてごめんなさいという感じで)声を掛けてきた。


「ん? 何?」

「前々から、聞こうと思っていたんだけど…。」

「なぁんですか?」

「此の、匂いっていうか、コロンとも違うし、んーっと、応援部の人に共通というか…。」

「ああぁ…!」

「あ、失礼なことだったらごめんなさい。私、いつか聞いてみようと思っていて…。」

「おケイさんのお家にもきっとある物の匂い。」

「え?」

「これのことでしょ?」


 僕は、学帽を脱いで、おケイさんに渡した。

 おケイさんは、なにか大事なものでも扱うように、学帽をそっと持ち、少し慎重に匂いを確かめていた。


「そう、これ、此の匂いだ。なぁに?」

「靴墨と紅茶。」

「えぇ? なんで? 其様な普段一緒にならないものが一緒になってるの?」

「帽子を古く見せるために、先輩たちがずっと靴墨を塗ってきたからだよ。」

「紅茶は?」

「其の、白線。もう白線じゃなくて茶色でしょ?」

「ええ、ボロボロ。」

「それは、一回漂白剤の原液に漬けてボロボロにしてから、紅茶で色を染めてあるんだ。」

「へぇ、そうなんだ。それで靴墨と紅茶かぁ。」

「紅茶は、一人一人銘柄が違うから、匂いも微妙に違うよ。」

「ちなみに駿河クンは?」

「アール・グレイ。」

「それが拘りなのね?」

「そ。」


 僕は、また紅萌ゆるの続きを歌いながら歩き始めた。其様な僕を、彼女は「お風呂にでも入ってるみたいに気持ち良さそうよ」と言いながらクスクスと笑い、後を連いて来ていた。


 三週間、四週間ともなると、おケイさんも国文学好きと浪漫好きからか、一緒に口誦むようになり、何時しか、駅までゆっくりと付かず離れず逍遙しながら帰るようになっていた。


 *     *     *


 勿論、僕には、おケイさんを小泉から奪い取ろうなどという考えは毛頭浮かびもしなかった。

 彼に匹敵するだけの才能なんぞ、自分には到底見出せなかったし、自分が反対の立場だったら迚も彼のように紳士的に振る舞うことなど出来やしない。

 だから、素直におケイさんの彼氏としては小泉が相応しいと思っていたのだ。微塵の疑いもなく。


 小泉も、普段の僕との接し方を見る限り、僕がおケイさんを奪うなんてことは考えてもいなかっただろう。ただ、おケイさんが自分の知らない世界に入り込んでいくのが怖かったのだと思う。そして自分も其の世界に入りたかったのだろう。

 それでも彼が、僕に対して紳士的な態度をとり続け得たのは、人の個性を尊重する芸術家としての天賦の才能があったからだと思う。そうでなければ、鳥渡した疑念が契機となって「《他人の彼女に》自分を仕込むような真似をするな」と胸ぐらを掴まれかねない。


 しかし、悲しいかな、彼の努力も空しく。おケイさんと小泉の恋は卒業まで続かなかった。小泉が得ようとした浪漫も日本文学に対する憧憬も、全て本心から発せられたものであって、決して嘘ではなかったし、純粋なものだった。

 しかし、元々おケイさんは、彼に自分と同じものを求めて恋をしたのではなかった。其処に小泉の日本画描きとしての輝きを認めていたからだった。彼女にしてみれば、自分の為に彼が彼ではなくなって了う方が苦痛だった。文芸部の発行する雑誌におケイさんが投稿した散文詩がそれをありありと、切なく物語っていた。


 *     *     *


 おケイさんは、すんなり文三に合格した。

 卒業後、運動部と応援部の有志で午餐会をした帰り、おケイさんと僕は同じ電車で途中まで一緒になった。


「あれぇ? 駿河クンて、此様こんなに背が低かったんだ。」

「普段足駄だったからね。十センチのハイヒールと一緒さ」

「学校帰りに一緒に歩く時は、頭一つ飛び出ていたのに、今日は此様なに近いわ。」

「あは、そうだね。それに、おケイさん、見事合格したからまた成長したんじゃない?」

「でも、駿河クン、…残念だったね。なんだか私が運を削いで了ったみたいで、…ごめんね。」

「いいや、実力さ。それに身体も小さく見えるってことは、まだまだ度量が足りないってことさ。」

其様そんなことないよ。来年も京都を受けるの?」

「そうだね、多分、東大は受けないと思う。」


「卒業式の後ね、私、一週間くらいかけて京都、奈良と一人で史跡を廻ってきたの。良いところだね。京大って。」

「山が近いし、文化も違うからねぇ、東京とは。」

「私、紅萌ゆるを唄いながら夕方の哲学の小道を逍遙して来たよ。」

「それぁ羨ましいなぁ。」

「本当はね、二人で行きたかった…。でも、来年、駿河クンが京大に合格したら、一緒にまた前みたいに逍遙しようか。」

「良いね、是非。」


 普段のような会話が続く中、もう直ぐ彼女の降りる駅が近づいてきた。電車は速度を徐々に落として、もう停まろうとしている。

 彼女はこれまで早朝に一緒に話していた時と同じ笑みを浮かべると、


「そうだ。絶対によく効くおまじないをしてあげる。」


 と言い、目を瞑らされた。次の瞬間、


「約束よ、絶対に…。」


 と囁くように、それでいてはっきりと透き通った声が僕の耳元に告げられ、頬に軽い感触があった。

 そして、開いた目が点になっている儘の僕を残し、まるで何でもないかのように手を振ると、電車を降りて行った。

 車内は静かで、扉の閉まった電車が動き始めた。

 ホームでは彼女が春らしい装いのまま、電車が起こす風に髪を靡かせて、普段の笑顔で手を振っていた。

 ふわりと触った彼女の髪の毛の感触とリンスの香り、そして何より、自分の頬に触れたものが指先ではなかったことをもう一度思い出し、僕はすっかり放心状態になっていた。


 *     *     *


 彼女のそれまでの言動や噂を聞いても、軽々しく其様なことをする人ではないと思った。であれば、それはこれから一年越しを覚悟した恋の告白だったのだろうか。

 悩みに悩んで、其の晩、イチに相談した。中学校以来親友の彼は口の堅さで何より信頼でき、男女の恋仲にも長けていた。また、既に大学に進学しているので、《浪人生特有》のコンプレックスや先入観で女性を見ないだろうということを信頼しての相談だった。


「バーッカ、お前はこれまで経験だけは数多いくせに、全っ然学習してないな。それは恋の始まりじゃなくて終わりだ。つまり心の《精算》だな」

「へ、【終わり】か?」

「だからお前はバカなんだ。よく後ろを振り返ってみろ。おケイさんが小泉と別れてからも、ずっと彼女はお前に愛想を尽かさずに、一緒だっただろう?」

「ああ、でもそれは実益あっての話だろ?」

「問題は其の後だ。二人でぶーらりぶらり仲良く時間をかけて楽しそうに帰っていたそうじゃないか。然も毎日。」

「そりゃ駅までは方向が同じだからな。」


「だからオメデタイんだよ、お前は。」

「?」

「大体、今時だな、弊衣破帽で、ただでさえ異形の姿に足駄履き、駅まで与謝野鉄幹だの嗚呼玉杯だの唸りながら、普通なら五、六分で済む道をわざわざ三十分もかかって歩く馬鹿の後を誰が嬉しそうに連いて歩く? 然も、小泉には《時間が勿体ない》と言って早く返していながらだぞ。」

「それは小泉を思う気持ちと、そういうのが好きな女子も居るもんだって。ほら、エリーだって外人なのにそうだったし。」

「それだけじゃない、お前が新米教師と自治の如何で論戦になったときや、紀年祭の打ち上げのとき、一番傍に誰が居た?」

「おケイさんだ…、でも出席番号が近い…。」

「バカ、んなもん関係あるか、其様なみんなごちゃごちゃの乱戦の時に。」

「…そうか…。」


「ま、とりあえず《サヨナラ、僕ちゃん》てとこだろうな。もし、気が付いて本当に私をモノにしたかったら、来年きちんと京大に入ってから迎えにお出で、ってとこだろ。」

「はぁ…。」

「然も、おケイさんはこれから楽しい大学生活だ、暗い浪人のお前なんかと‘天と地の差だ。其の一年間のブランクを超えて迎えに来られるものなら来てみなさい、ってやつだな。」

「ほぉ…。」


「これまで彼女の気持ちに気が付かなかったお前に此処で一と区切りをつけて、最後の蜘蛛の糸を残した上での挑戦状だよ。」

「蛛の糸の先にぶらさがった挑戦状かぁ…。」

「大体だな、其様なことばーーーーっかりしてっから、次から次へと逃げられるんだ。聞けば閑香ちゃんにもフラれたそうじゃないか。逃がした魚は大きいってのは、ホントお前のためにあるような諺だな。」

「何度も何度も痛ぇなぁ…。」


 以前から僕は、「その場での言動」を理解することには長けていても、中長期的に女性の心理というか、行動規範が全く理解出来なくなっていた。

 否、ただ単純に混乱していたと言った方が正しいかも知れない。それでも、女の子の言動に対しては深く読まなければ不可ないというか、慎重すぎたり、鈍感であっては不可ないというか、それくらいのことは漠然と感じてはいた。しかし、今は自分で出来る最大限の努力を受験という目標に向けなければならないのが実態だった。


「でも、ある意味、お前の其の能天気さというか、大雑把なところが羨ましいわ。」

「は? 何だ?」

「俺がお前の立場だったら、いかに浪人したとはいえ、もう東京に居ることなんぞ我慢できん。京都の予備校に行こうとかは考えなかったのか?」

「予備校の推薦があったからなあ…。」

「それだ。そういう、今、目の前にあることだけで、深く考えずに済んでいるお前が羨ましい。」


 イチは三年の夏には早々に東京から出ることを公言して、其の通り四月からは杜の都の大学で一人暮らしを始めていた。


「其様なに東京が厭だったか?」

「お前は大丈夫なのか? 一度恋に破れただけで逃げ出す俺が情けないだけなのかな。お前はよく平気だな。ベーデにエリー、それに閑香ちゃんのことがあっても、よく東京で生活していられるな。」


 イチは幼稚園以来の交際だったコーコと高校時代に別れていた。しかし、それはイチの一高進学、コーコのK女進学後、すぐの頃の話で、よもやそれを引きずっての東北大学進学とは思いもよらなかった。


「よく…て言われてもなぁ。それとこれは切り離して、ていうか連結して考えるようにはできていないらしい…。多分、俺が鈍感なんだろう。」

「鈍感でも何でも良い。そういうふうに感情と理屈を切り離していられるお前が羨ましいわ。まあ、其の調子なら来年は大丈夫だろう。春には引っ越し手伝いに京都に行ってやるから、それまで頑張れ。」

「ああ、今年は何も出来ずに済まなかったな。」

「なぁに。」


 そう言われて了うと、東京には感傷的な思い出がいっぱい詰まっている。京都を目指したことは、そんな感傷的なものではなかったものの、イチの目から見れば、あるいは他の友人達の目から見れば、『東京の思い出からの離別』に映っていたのだろうか。そう思うと、少し複雑な気持ちにならざるを得なかった。

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