第11話 新婚夫婦の夜①
ハンナの対応は早かった。
午前に頼んで、午後にはもう、ローリエのための裁縫道具一式が準備されたのだ。
予定のない、長い一日を過ごすにはもってこいの代物で、ローリエは手始めに、ハンカチに小さな刺繍を施した。
庭園で見かけた、名前も知らない青い小花を縫ってみたが、悪くない出来だと思う。
モントレイ伯の屋敷でお祖母様に裁縫を教えてもらって以来、姉セリナのためにいくつもドレスを繕って鍛えられたので、腕には少しばかり自信がある。
もしかしたら裁縫は、ローリエにとって『好きなこと』だったのかもしれない。
次はオルトキア王国の紋を刺繍しようと夢中になっていると、あっという間に夕食の時間になり、食事が終わってからも部屋に籠って黙々と作業を続けた。
コンコン、とドアがノックされ、ハンナだと思ったローリエは、深いことを考えずに「どうぞ」と声をかける。
「ローリエ」
その声は、男性のものだった。
「クレイユ様!? 痛っ」
驚きのあまり、ローリエは針を指に刺した。
ぼんやりしている時にはよくやることで、大した痛みではなかったが、クレイユは慌てた様子でやって来て、ローリエの左手をとる。
次の瞬間、ぱっと明るい光が二人の手を包んだ。
「これで大丈夫だと思う」
「今のはもしかして治癒魔法ですか?」
ローリエは、ほんのり温かくなった手をまじまじと見つめる。
大きな穴が開いたわけでも、血が出たわけでもないので変化は分かりづらいが、なんとなくそんな気がした。
「そう。こればかりは僕も、ちょっとした怪我を治す魔法しか使えないんだけどね」
「それでもすごいです!」
治癒魔法は、幼少期から神に仕え、訓練を積んだ中央教会の聖女にしか使えないと聞いたことがある。
そんな魔法さえ使えてしまうとは、流石、天才魔法剣士だ。
「ありがとう。ローリエに褒めてもらえたら、それだけで意味があるよ」
クレイユは嬉しそうに微笑んだ。
相変わらず、眩いくらいの美しい容姿をしているが、どことなく疲労の色が浮かんで見える。
「お疲れですか?」
「そうかも」
彼は突然、ローリエの体に手を回し、肩口に顔を埋めた。
「少しだけ、こうさせて」
「は、はい」
驚きと緊張で、口から心臓が飛び出しそうになったローリエだが、恐る恐るクレイユの背中に手を回す。
血の繋がらない弟がまだ幼かった頃は、人目のないところで、こうして甘えてきたものだ。
幼子をあやしている気分になったローリエは、彼の背を優しくさすった。
触れ合うことにドキドキはするけれども、嫌悪感はなく、むしろ薄いシャツ越しに伝わってくる温もりが心地よい。
(ああ、人って温かいんだな……)
ローリエが人の温もりをゆっくりと感じるのは、久しぶりのことだった。
「お帰りなさいませ。遅くまでお疲れ様です。お出迎えできずに、申し訳ありませんでした」
挨拶をしていなかったことに気づいたローリエが声をかけると、クレイユは急に体を離して、食い気味に言う。
「今の、もう一回言って」
「お出迎えできず、申し訳ありません……?」
ローリエが首を傾げながら繰り返すと、彼はがくりと項垂れた。
「すみません、何かお気に障ったでしょうか……」
金の髪がぶんぶんと左右に振れる。
「出迎えなんてしなくていいよ。帰ってきたらここへ来るから、もし嫌じゃなかったら、お帰りと言って抱きしめて」
「そんなことでよろしければ……」
「僕にとっては、それが本当に幸せなことなんだよ」
彼の碧い目は、ローリエだけを映している。
彼の優しい言葉は、愛の告白に他ならない。
石ころのように凝り固まった心が、じわり、じわり、溶かされていく。
(だめよ、ローリエ。彼が愛しているのは、私ではなく、私によく似た初恋の人なのだから――)
「刺繍をしていたの?」
ぼんやりしていたローリエは、クレイユの一言にハッとする。
「はい。マリー……マリアンヌさんにお勧めいただいて。今日はお菓子も作りました」
「楽しめることが見つかったのは嬉しいけど、僕のいないうちにマリアンヌと仲良くなったなんて、少し嫉妬してしまうかも」
クレイユは拗ねた口調でそう言った後、「なんてね」と付け加えて苦笑する。
「クレイユ様から乗馬を習ってみては、とも言われたんです。もしよろしければ、そのうち教えてください」
「勿論だよ。面倒なことが片付いたら、君との時間をゆっくりとるからね」
彼は微笑んで、ぽんと頭を撫でてくれる。
どうやら当面は忙しいようだ。魔王討伐の勇者であり、この国の第三王子なのだから当然だろう。
「食事は済みましたか?」
「王城で食べてきた。後はもう眠るだけ」
「それなら良かったです。お疲れだと思うので、早くお休みになってください。私もそろそろベッドに入ろうと思います」
暗に「お互い、そろそろ休みましょう」と伝えたつもりだったが、クレイユはローリエを見つめたままにこにこしている。
「一応夫婦だし、もしよければ試しに、一緒に寝てみるのはどうだろう?」
「……」
ローリエは何を言われたのか理解できず、しばらく黙り込む。
(はい!?!?!?)
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