第2-1話 『ルーティン通りの毎日』

「――とまあ、ターゲットと不慮の事故で出会ってしまって…」

 会社に戻り、今日の外回り営業について報告する。

 黒い革製の椅子に深く腰掛けた部長は視線を液晶モニターと手元の書類と此方の間で目まぐるしく動かしながら時折、軽く相槌を交えて聞いていた。

「以上。本日の動向についてになります」

「報告ご苦労さん。なるほど、なるほど…。それで上手くできそうか?」

 肩までかかる長めのブロンドヘアを揺らし、切れ長の目を此方に向けて言う。

「ええ、まあ。必ず」

「相変わらず君は実体の無い返事ばかりするなぁ」

 自信のない空返事を投げると、部長は息を零してぼやいた。

 目の前で物憂げな表情を浮かべた黛部長は渋谷区のエリアマネージャーとして『仕事』を取り仕切っている直属の上司である。

 弱冠十八歳にて幹部候補生に選ばれた彼女は、女性ながら破竹の昇進を続けて支部長に就任。その後いくつかの支部を渡り歩いてマネージャークラスまでキャリアを積んだ凄腕の殺し屋らしい。

 彼女が言うに、「人が多い所では依頼が多いし、トラブルも多い。おかげで毎日、残業続きで肌の調子はいつも悪いよ」との事らしく、ファンデーションでも隠しきれない目許の隈が日々の激務を物語っていた。

 配達で届いたドーナツを手に取った彼女は視線を此方から外す。

「それに君にしては珍しいミスじゃないか?まあ此方側も渋谷駅の混雑状況など把握すべきだったな。すまない」

「いえ、自分も事前に確認しておくべきでした。申し訳ございません。黛部長」

 そう言って頭を深々と下げると、頭を上げてくれ。と彼女は申し訳無さそうに言う。

「…それで今後は?」

「そうだな…。詳細についてはプランナーが練るとして、引き続きターゲットと接触して、タイミングがあれば始末するように動いてくれ」

 プランナーは仕事の計画を立案する別働隊であり、グループ内の別会社である。主に上層部にて顧客からヒアリングした依頼内容を元に、計画書を起こして我々実働部隊に発注するのが彼らの仕事だ。

 なんでも組織内でも特に優秀な人物が集められているようで、詳しい事は不明だが、作戦立案以外にも清掃業者の手配など様々な役目があるらしい。

「タイミングがあれば…ですか」

「まあ、無理にとは言わない。それに君には向いてない事だろう?」

「承知いたしました。とりあえず一旦は継続して接触を試みます」

「頼んだよ。君はウチのエースなんだから」

「最大限、頑張ります。それで黛部長…」

 と彼女の右手のドーナツに視線が注がれる。確か、この前ダイエット始めたと言っていたはずだが。果たして問題ないのだろうかと疑問が過る。

 注がれている視線の意味に気づいた彼女は目を細めて、

「君の言いたい事は分かるが口にしたら減給だからな」

 とパワハラまがいの事を言い出したので、口を噤んだ。


 久しぶりに初動でミスしたな。と思いながら帰路につく。夕闇にどっぷりと浸かった道路に蛍光灯から伸びる白い光が刺さり、足元に黒い影を作っていた。

 太陽が沈んでから時間が経ったというのに、まだアスファルトには真夏の温度がべったりと残っている。風が無い路上はとにかく蒸し暑く、歩く度じんわりと汗が滲み出てきてシャツが肌に貼り付く感触が不快であった。

 浅井怜、浅井怜、と何度か改めて舌の上で彼女の名前を転がす。基本的にターゲットの名前を覚えない事(そもそも覚える前に始末してしまっているため)にしているのだが、どうしてか彼女の名前はすっと脳に刻まれている。それが不思議だった。

 きっと久しぶりにミスしたのが大きいのだろう。考えれば実に七年ぶりの事だった。あの時はまだ若く現場経験も少なかった。

 苦い過去の記憶を奥に追いやり、怜の表情を思い返す。

 屈託の無い笑顔が印象的な彼女がターゲットとして、何故狙われているのだろうか?ふとそんな疑問が脳裏を掠めた。

 しかし『ターゲットの私情に深入りしてはならない。』就業規則にも記載されている一文を思い出して雑念を振り払う。

 そもそも我々が可能な限り、ターゲットと接触せずに始末する事を推奨されているのには、痕跡を残さずに仕事を終えるため。という理由以外にもう一つ大きな要因、殺し屋とターゲットの共謀による逃走を防ぐためでもあった。


 一昔前の話だ。

 とある一家全員を始末せよ。という命令が下った殺し屋達がいた。

 ターゲットは銀行勤めの父、専業主婦の母、そして二人の子どもという別になんて事のない一般家庭だった。ただ悲しい事に彼らには運が無かった。

 彼らは不幸にも長女の小学校卒業祝いで訪れたレストランで、若手政治家の不倫現場を目撃してしまったのだ。それもその若手政治家というのがただの政治家ではなく、総理大臣の息子で来期から内閣入りも決まった新進気鋭の政治家だった。

 親の七光りで入閣したとも言える彼に向けられる世間の視線は冷たい。このスキャンダルが発覚すれば彼おろか、総理大臣の立場すら危うい。

 そんな息子と自分の立場を溺愛していた当時の総理は少々突飛な人間で、すぐさま組織に莫大な金と共に店員から客から全て口封じしろ。という依頼が舞い込んだ。

 当然、組織は依頼を請け、レストラン内にいた三十名全てがターゲットとしてリストアップされた。件の一家も例に漏れずに。

 指示書の通り、家に忍び入った殺し屋達は寝室で眠る父母を始末。その後別室で眠る娘二人を始末しようと部屋に入ったところで誤算が生じた。

 トイレで起きていた長女と出くわしてしまったのだ。そして殺し屋には事故で亡くなった妹がいた。両者の視線が混じり合った時、殺し屋の男はあろう事か長女と自身の妹を重ねてしまった。

 何故こんな小さな女の子が狙われなければならないのだろうか。湧き上がった疑問と金のためなら何でもする組織への疑念。現場に火を放った彼は長女を連れ出し逃走。依頼は完遂せず、翌日警察によって次女は保護されたという。


 ――そして数日後。日本海沖にて身元不明の男性と行方不明だった長女が遺体となって発見された。事件は小児性愛者が異常性愛を元に、五十嵐家というごく一般的な家庭を襲った凶悪事件として締め括られ、世間では「後先が立たなくなり、心中を選んだ」という結末が付け加えられていた。


 殺し屋がターゲットに同情してしまい一緒に逃亡する。この業界だとよくある話だが、どの例も逃げおおせたという話は聞かない。

 何故なら就業規則違反者や離反者を処分する特別な部隊が存在するからだ。

 『イレイサー』そう呼ばれる組織上層部直下の殺し屋のための殺し屋部隊。 今回も彼らが動き、逃亡する二人を始末したのだった。

 海から引き上げた男の遺体は損傷が酷く、特に顔は腐敗が進んでおり、身元判定は困難を極めた。

 ただ右手の甲には一見すると擦り傷のように見えるが、我々殺し屋のみ分かるサインが刻まれていた。組織にいる人間ならば誰しもが恐れる三日月状の大きな傷、『イレイサー』の紋章であるその傷が刻まれていた。

 この一件で組織に離反する者の末路が周知され、就業規則違反や逃亡する者、情報を外部に売ろうとする者は格段に減ったらしい。


 閑話休題。


 道路を白く照らす街灯には蛾や小さな羽虫たちが集い踊っている。

 曲がり角に設置されたカーブミラーに視線がつい動き、夜道に佇む白く照らされた自分の姿を鏡越しに捉えた。

 ――殺し屋は常に背後に気を払わなければならない。鏡を見る度、あじさい園で口酸っぱくそう言われた事を思い出す。人の恨みを否が応でも買う仕事であるからいつ何時でも死角には注意する必要があるのだ。

 同業他社の殺し屋から依頼され襲撃される事だって少なくない。警察に尾行されているかもしれない。

 外に出ている時はカーブミラーや車のサイドミラーといった、街中の至るところに設置されている鏡に視線を向けるのがルーティンの一つであった。

 歪んだ鏡越しでも自分の顔が疲れている事に気づいた。

 今日はなんだかとても疲れてしまったようだ。久しく感じる肉体の疲労感。夏の暑さもあって二重で体力を消耗した気すらした。


 夏バテをじくじくと感じながら帰宅すると、まずスーツを脱ぎ綺麗にハンガーに掛け、部屋着に着替え、手を洗い、冷蔵庫を開けた。

 仕事の話は一旦忘れて、今日のメニューは涼しく豚の冷しゃぶで済ませよう。そう思った自分はテキパキと準備に取り掛かる。

 小鍋でお湯を沸かしながら、レタスを手でちぎり氷水にさらし、茗荷と葱と大葉と生姜を千切りにして小皿に盛り付ける。冷しゃぶには薬味が良く合う。香りが強い大葉は左端、その右隣から順に生姜、茗荷、葱。

 最初から薬味を全て乗せるなんてナンセンスだ。と思う。徐々に薬味を追加して香りの変化を楽しんだ方が良いに決まっている。

 ボコボコと沸き立つ小鍋に豚肉をくぐらせ、十五秒。最適な時間で引き上げ氷水にくぐらせ十秒。すぐさま氷水からも引き上げてザルで水気を切る。

 こうする事で肉に火が入りすぎず、そして水っぽくもならなくて済む。研究の結果見つけた最適な秒数で淡々と豚肉を赤から白へと染めていく。

 お気に入りのゆずポン酢と胡麻ダレを食卓に並べ、作り置きのきんぴらごぼうと白菜の浅漬を小鉢に盛り、冷しゃぶの皿の隣に添える。

 ――料理をしている時だけ人間でいられる気がする。

 と出来上がった品を眺めながら、そう改めて思った。

 外に出れば殺し屋としての仮面を被り続け、社会の目を避けて生きていく必要がある。いつ自分が狙われるか分からない。何処で自分が捕まるか分からない。そんな生活にはもうすっかり慣れたものだが、それでもやはり息苦しいのには変わりない。安息の地は外の世界の何処にも無い。

 その点、キッチンに立っている間は衆人環視から逃れ、目の前の食材とだけ向き合えばいいのが心地よかった。殺しと違って決められた材料で、手順通りに手を動かせば、指示書通りに事が運ぶ。イレギュラーばかり発生する仕事よりも幾分も簡単で思考せずに済むのが楽だった。

 ちょうど炊きあがったご飯を茶碗によそい、味噌汁をお椀に注ぐ。

 帰宅から食卓に着くまでおおよそ一時間以内。きっちりとルーティン通りの生活を維持できている事が何よりも心を落ち着かせる。

 席に運び、誰もいないのに律儀に手を合わせていただきます。と小さく呟く。命への感謝を。なんて殺し屋からしたら鼻白んでしまうような事からではなく、食事の時間を明確に区別するためのルーティンだった。

 昆布と鰹節で一から出汁を取った味噌汁は淡いが旨味をしっかり感じる物に仕上がっている。どんなに蒸し暑い夜であっても必ずまず味噌汁から口をつけるようにしている。これもルーティンだった。

 続けて口に運んだ豚肉は程よく柔らかく仕上がっており、レタスのシャキシャキとした食感も小気味よく、ゆずの酸味と香りが夏の暑さを軽減してくれるようだった。そうして皿の中を空にし、最後に緑茶で口の中を洗い流す。メニューは日々変わるが最初に汁物、最後に緑茶で締めるのも、かけがえのないルーティンであった。

 ごちそうさまでした。とまた誰一人いない中呟いて片付けを始める。

 立ち上がると案外思っているよりも疲労が溜まっていたのだろう。薄ぼんやりとした眠気が幕を下ろし始めていた。

 さっさと皿を洗うと一日の締めに入った。

 いつものように四十度の熱いシャワーを浴び、髪から右足、左足、右腕、左腕、胴、背中、顔と泡を体に纏わせてそれらを一気に流す。風呂から上がり緑茶を一杯飲み、読みかけの小説を手に取り、読み進めていく。時計の針が天辺を指す頃には床に着き、目を閉じる。そうして一日を終える。

 人にとっては刺激の無い私生活と揶揄されてしまうだろう。けれど仕事での緊張の張り方を考慮すると、業務後くらいは刺激とは無縁でいたかった。

 淡々と流れるルーティン通りの毎日が続いてほしいと眠る前に思う。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る