2 思い出の樺太 (1)伏子の思い出【東宮殿下の行啓を拝す】

 大正十四年、私が小学校六年生の頃の夏である。今上殿下が東官殿下であった頃、樺太に行啓ぎょうけいになった。御召艦長門で大泊にお着きになり、大泊・豊原・真岡と樺太の主な町を御巡幸になり、親しく島民の生活を御覧になったのであった。私達の学校では殿下を奉迎するために大泊に出た。四年生以上の生徒と青年団員の人達が、先生に引率されて大泊に向かったのである。当時はまだ南樺鉄道が開通していなかったので、伏子の沖からポンポン蒸気に乗ったものだった。だんだん沖に出るに従って視野が開け、沿岸に並ぶ江の浦・浜地・川口・利良と隣接の村々が一望に見え、遥か能登呂半島の山々もかんすんで見えて、これまで井の中に居た蛙が急に大海に出たように、船の上ではしゃいだ事を思い出す。大泊では通り町にあったお寺に団体で泊めてもらって、食事などは青年団の人達が世話してくれた。始めて親許を離れた子供達だったので、随分先生や青年団の人達に世話をかけたようだった。


 大泊の港に碇泊している長門艦の実物を始めて見たのもこの時であった。これまで雑誌などで戦艦長門の写真などは何度も見た事はあったが、目のあたり見て、その特異な煙突といい、全体から受ける重厚で強靭そうな感じといい、子供心に如何にも力強さ頼もしさを感じたものだった。夜などはあかあかと提灯をともした小舟が、長門の周りを取りまいて奉迎したものだった。そして大泊の街は奉迎一色に賑わった。私達は大泊中学にお成りになった陛下を初音町の通りに並んで奉迎し遥拝ようはいした。校長先生の"最敬礼"という号令で深く頭を下げ、静かに頭を上げた頃、殿下の乗った車が静かに私達の前を通り過ぎた。車の窓越しに殿下の御姿を拝する事が出来たが、子供心にも厳粛な気持ちになったことを思い出す。


 私達が奉迎するために並んだ所は、初音町の大泊中学のある富士ケ丘のすぐ下の所だったので、大泊中学校の校舎やグラウンドなどがよく見えた。中学の生徒達が、黒の小倉服に編上靴・巻脚絆・背嚢ハイノウを背負い、教練の服装で、棒げ銃をしている姿を見て、何となく羨ましく思ったものだった。然し、この頃はまだ後になってこの学校に入学し、この初音町に下宿して、富士ヶ丘の校舎に五年間を過ごすことになろうとは、少しも考えても見なかったことだった。


 私達はそれから汽車で豊原に行き、豊原の主なところを見学して帰った。私はこの時はじめて汽車にも乗ったし、豊原にあった樺太庁博物館も始めて見学した。私達の学校ではこれまで日帰りの遠足程度のことは毎年行われていたが、この時のように三泊もしての修学旅行的なことは始めての経験だったので、視野を広めるにも役立ったし、共同生活の経験もしたし、特に私のように自我の強かった者にとっては、有意義なことだったと思っている。

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