第7話

 コンクールまで、あと約一ヶ月。コンクールが近づくにつれ、だんだんと過酷になっていく練習に、皆はなんとか喰らいついていた。

「あぁ〜、づがれだ〜」

練習終わりの挨拶が終わると、望美は萎れた植物のように、椅子に座り込んだ。

「今日なんてそこまで吹いてないじゃない」

なんとも情けない声を上げた望美に、夢がつっこんだ。確かに、今日は主に金管楽器が天宮先輩に捕まっていた。

「夢は気疲れしないの?合奏」

「疲れたけど、そんなおじさんみたいな声だすほどじゃないわ」

夢は、楽器用のストラップを外しながら、望美をからかうように笑った。

「誰がおじさんだよ、ははっ」

望美は、そんな夢の二の腕を力なく叩いた。

「望美ちゃん夢ちゃん、ちょっといい?」

わちゃわちゃと話す二人に声をかけたのは、二人と同じ二年生で、テナーサックスを担当している黄瀬未空きのせみくだ。声をかけられ振り返った二人に、彼女は続けた。

「二人とも、来週の日曜って開いてる?もし良かったらさ、サックスパートのみんなでお祭り行かない?」

望美達の暮らす宇橋うばし市では毎年、宇橋神社で小さな七夕祭りが催される。小規模だが、老若男女問わず、地元の人々が多く訪れる。望美や夢も、幼い頃からよく行っていたし、中学時代は二人で行ったこともある。

「え、いいね!私行きたい!」

望美は目を輝かせて言った。

「まぁ、良い息抜きになるかもね。あたしも行きたいわ」

口調はいつも通りだが、少しだけ頰を紅潮させながら、夢が言った。


 望美達は、来週の日曜、夕方六時に、宇橋神社の鳥居の前に集合することになった。


 楽しみに浮かれていたのも束の間。練習は、さらに細かく、厳しくなっていく。

「ストップ。クラリネットそこピアノやろ。もっと繊細に。それからトロンボーン。高い音ちゃんと当てに行ってな。ビビっとったらいかんよ。全員でそこもう一回」

「「はい!」」

疲労も日に日に積み重なっていくうえに、指示されることもどんどん高度になっていく。演奏は、思うより体力も集中力も使う。体力的にも精神的にも、皆段々と限界に近づいてきていた。

「ストップ。そこの木底、特にバリトン。連符指転んどる。誤魔化さんでな、そこ」

「はい……」 

「それから打楽器。Cの裏拍ズレとる。指揮見んとそんなとこ合うわけないやろ。ちゃんと指揮見て」

「はいっ」

「よし。じゃあ今日の合奏はここまでにします。本番まであと少しやから、各自細かいところまでつめて練習してってください」

「「はいっ!」」


 「望美、」

椅子に、手足を投げ出して座っている望美に、片付けを終えた夢が声をかけた。望美は、くたくたになった身体を起こして、夢の方を見た。

「ソロのとこ、音の長さがちょっと雑じゃない?もっと丁寧にやらないと、あそこはダメだと思う」

「あ、うん、そうするよ」

表情はいつもと変わらないが、夢の言葉に、望美はどこか棘を感じた。そのせいで、望美もなんだか、素直に頷くことができなかった。

「夢も連符、頑張ってね」

望美は、これ以上何を返していいかわからず、咄嗟に、そう言った。

「何よそれ。言われなくても頑張るわ?」

先ほどよりも、明らかに棘のある言い方だ。望美に向けられた夢の視線が、痛い。望美は、何だか釈然としなかった。

「ちょっと、そんな言い方しなくても……!」

「何よ。そっちだってそうじゃない!」

暫く、二人の間には、沈黙が流れた。二人の間だけに流れる、刺すような空気が、望美の心に、苛立ちとなって突き刺さる。

「……もういい。あたし、今日は一人で帰るから」

望美に背を向け、音楽室を後にする夢の背中が、望美には、ずっと遠く感じた。


 望美と夢の関係が修復されないまま、ついに、七夕祭りの日を迎えてしまった。


 母親に嫌々着せられた浴衣で、望美は鳥居の前に着いた。姉のお下がりの下駄を履く足取りが重い。

「あ!望美ちゃん!」

階段から、未空と、みのり達一年生がやって来た。天真爛漫な笑顔で手を振る未空に、望美が精一杯の笑顔で手を振り返した。おしゃれだが普段着で来た皆の中だと、少し浮いているような気がして、望美は心の中で母を呪った。

「望美ちゃん、浴衣可愛いね!」

「先輩良く似合ってます!」

「お姉ちゃんのお下がりだけどね。二人ともありがと!」

目を輝かせて言う未空とみのりに、少し引きつった笑みで、望美は言った。

「あ!夢ちゃんも来た!おーい!」

未空が階段に向かって手を振ると、やって来た夢が、未空に小さく手を振った。

「あれ?望美先輩と夢先輩の浴衣、色違いじゃありませんか?」

よく見ると、みのりの言う通りだった。望美の浴衣は、檸檬色れもんいろにピンク色のアサガオの柄の浴衣で、夢のものは、菖蒲色あやめいろに青いアサガオの浴衣だ。どちらも白色の帯で、デザインも全く同じだ。しかし、夢の方が美人なせいか、夢の方がよく似合っている気がする、と、望美は思った。


 皆それぞれで、屋台を回ることになった。夢は、未空と一緒に、反対方向へ向かってしまった。望美は、夢と二人で話す機会を伺いながらも、なかなかタイミングがないまま、とぼとぼと屋台を回った。チョコバナナも綿菓子もリンゴ飴も、今日は食べる気になれない。

「望美先輩っ」

突然声をかけられ、振り返ると、みのりの姿があった。

「うわあぁっ!びっくりした〜!みのりちゃん、どうしたの?」

「先輩、夢先輩のとこ、行かないんですか?」

首をかしげるみのりに、望美ははっと目を丸くした。

「先輩すみません。ウチ、望美先輩と夢先輩が言い合ってるの、聞いちゃったんです……」

少し申し訳なさそうにうつむくみのりを見て、望美の胸が、チクリと痛んだ。

「そうだったんだ……私も謝らなきゃとは思ってるんだけど、なかなか……」

「言い出しにくいですよね」

夢と向き合うことから逃げている自分を見透かされたみたいで、望美は嫌な汗をかいた。きちんと言わなくては。わかっているのに。

「言うなら、今だと思いますよ?」

いつになく真剣な眼差しで、みのりは真っ直ぐ望美を見つめた。そして、いつも通りの無邪気な笑顔で、言った。

「ウチ、仲良しの望美先輩と夢先輩が好きですから!」

「みのりちゃん、ありがとう……そうだよね、ちゃんと言わなきゃだよね……!」

おはしょりを直して、望美は夢を探しに向かった。望美が歩きだす背中を見て、みのりが、

「望美先輩かっこいい〜!」

と、呟いた。


 「はぁっ、はぁっ……夢、どこ?」

すっかり日が傾いてきた。境内のどこを探しても、夢は見当たらない。ここには流石にいないだろうと思いつつ、望美は神社の裏の公園に入った。正面に東屋が見える。一旦座って休もうと思ったとき、東屋に人影があった。

「夢……!」

「望美……?」

望美の声に、夢がはっと振り返った。望美が、恐る恐る東屋のベンチへ歩く。

「隣、いい?」

望美が言うと、夢はこくりと頷いた。二人の間に、重い沈黙が流れる。うまく互いの顔を見ることが出来ない。でも、言わなければ。

「あのさ」

「この前はごめん!!」

望美の言葉に、夢の声が重なった。望美は、驚いて一瞬石像のように固まった。

「あたし、全然余裕なくて!上手くなれなくて、悔しくて、望美に当たっちゃった……ほんまにごめん!! 」

夢はそう言ってうつむき、浴衣の裾をきゅっと握りしめた。夢が、こんなにも泣きそうな声で何かを言うのを、望美は聞いたことがなかった。

「私も、なんかムッとしちゃって、あんなこと言っちゃった。ごめんなさい!」

望美が頭を下げると、さっきよりも強く、夢が浴衣の裾を掴むのが見えた。顔を上げると、夢も、さっきの望美のような顔をしていた。目を丸くした夢が、望美にはなんだか滑稽で、思わず少しだけ笑ってしまった。

「……なんか私達、変な顔してる。ふふふっ」

「何笑ってんのよ……ふふふっ」

望美につられて、夢も笑った。その笑顔は、今までの、いや、それ以上に絆の深まった二人の、真夏の夜空に輝く一等星のような笑顔だった。

「夢、なんでこんなとこにいたの?」

「人混みが凄くなってきて疲れたのよ。ちゃんと未空ちゃん達には言ってきたわ。あ、食べる?」

「うん。ありがと」

夢が、望美にベビーカステラの袋をさしだした。中からは、食欲をそそられる匂いがする。一つ口に含むと、香ばしい、優しい甘さが、口いっぱいに広がった。

「お祭りといえばやっぱこれよね」

「同感!」

二人でベビーカステラをつまんでいると、二人のスマホに未空からのメッセージ通知があった。

「あ。みんな神社の笹の前ですって。望美、行きましょ」

食べかけだったベビーカステラを急いで飲み込み、望美はうん、と返事をした。ニ、三個しかベビーカステラを食べていないのに、二人の心の中には、不思議な満足感と、安心感があった。


 「あ!二人とも!おーい!」

未空が、望美と夢に向かって手を振った。二人も、それに振り返す。皆の元に着くと、皆の手には、色とりどりの短冊があった。未空から短冊とペンを受け取り、二人は願い事を短冊に書き、笹の葉に飾った。


 「ねぇ、夢は何を書いたの?」

祭りからの帰り道、皆と別れた後、望美が聞いた。

「内緒〜」

「え〜、なんで!教えてよぉ」

「うふふふ」

織姫と彦星が無事巡り会えたであろう夜空の下、二人の下駄の音が、楽しそうにこだましていた。


 そして、二人の短冊には、同じことが書かれていた。



『県大会にいけますように!』



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