第6話
テスト期間が明け、いよいよ部活が再開した。望美も、なんとか数学の赤点を回避し、晴れやかな気持ちで、楽器をケースから出した。
「こんにちは〜」
天宮先輩が、けだるげに挨拶をしながら、動物園のゾウの如き速度で、指揮台に向かった。
「え〜、お久しぶりの部活ですね。みんな体も鈍ってると思うけど、コンクールまであと少しです。気張っていきましょ!」
指揮台に立ち、皆の方を真っ直ぐ見て、天宮先輩は力強く言った。口調はいつもと変わらないが、そこには確かな決意がこもっていた。
「「はい!」」
そんな先輩の気持ちに応えるように、皆も力強くそれに返した。望美の緊張が、少し高まる。叶人の言葉を頭の中で反芻しながら、望美は指揮に合わせて息を吸った。
曲が終わり、天宮先輩が指揮棒を下ろした。
「皆さんよく練習してきましたね。テスト明けやけど、良くなってきてます。ただ、まだまだ甘いですね。まずオーボエ。Aのアーティキュレーションが甘い。特にスラーとスタッカート。曖昧にせんでくださいね。それからホルン。メロディーがかなり鳴ってきたので、もっと音量欲しいですね。今あまり聞こえんから、もっと息入れて」
コンクールまで、約一ヶ月半。自然と、合奏の緊張感も高まる。必死に楽譜にメモをとる皆の表情も、二ヶ月前とは真逆のものだった。
「……それから、アルトソロ」
天宮先輩の言葉に、思わず望美の肩が小刻みに震えた。心臓の音が、隣に座るみのりに聴こえそうになる。
「結構練習してきたやろ?」
突然の天宮先輩の問いかけに、望美はギクリとした。だが、練習してきたのは本当だ。先輩の言葉に、はい、と答えると、天宮先輩はにやりと笑った。
「前より良くなっとるね。ユーフォとの息も合ってきた。ただ、今のままやとちょっとフレーズが平坦やから、もっと歌いましょうか」
「はいっ……!」
努力が認められた気がして、望美の瞳には、先ほどまでには無かった煌めきが生まれた。自分の演奏を、努力を認められる喜び。出来ない自分とひたすら向き合う辛い練習は、この喜びのためにあるのかと、望美はそっと喜びを噛めしめた。
「天宮先輩、ちょっといいですか?」
活動時間が終わり、多くの部員が自主練をする中、望美は、グランドピアノの前の椅子に座り、スコアを読んでいる天宮先輩に声をかけた。
「おぉ、どうした?」
望美の声に、天宮先輩が顔を上げた。やや縁が太めの丸眼鏡の奥の瞳は、よく見ると少し垂れ気味で、おっとりとした印象を与える。合奏中のしかめっ面とは違うので、音楽のことになると人格変わるタイプか、と、望美は勝手に納得した。
「あの。フレーズを歌う、って、よくわかんなくて……」
前から叶人に、天宮先輩から直接アドバイスをもらったらどうか、と言われていた。望美は、緊張しながらも、勇気を出して聞いてみることにしたのだ。
「あ〜、じゃあちょっと吹いてみて」
「あ、はいっ」
天宮先輩に言われ、望美は緊張しながらも、いつも通りに吹いてみた。
天宮先輩は、望美が吹き終わると、うんうん、と頷き、続けた。
「そうだな、まず、最初のB♭。楽譜には書いてないけど、クレッシェンド気味でやってみて。それから、休符の前の音。ここはビブラートかけるとええかな。……ちょっとそれでもう一回吹いてみて」
天宮先輩のアドバイスは、具体的でわかりやすい。だが、言葉の内容は理解できても、それを実際に演奏するのは難しい。それでも、望美は息を大きく吸った。もっと上手くなりたい。今の望美には、それしかなかった。もっとも、それはこの音楽室にいる誰もが、同じことを思っているだろう。
「そうそう。で、もっと腹圧かけて。特に低い音」
「はいっ」
四十人それぞれの音と、窓の外の雨音に混ざって、真っ直ぐなアルトサックスの音が響く。それは、天宮先輩の指導によって少しずつ洗練されていく。
「思いっきり吹きすぎて
そう言って天宮先輩は、椅子の隣に置かれた黒い楽器ケースから、美しい花の彫刻がなされた、金色のアルトサックスを取り出した。
「いつもはテナー吹きなんやけどな〜」
そう言いながら、天宮先輩は楽しそうに音出しをした。何気なく発音された嬰ロ長調。しかし、その音は、望美の音とはまるで違った。発せられた、豊かで、力強さと繊細さを併せ持つアルトサックスの音色。望美は、その音の激流に溺れそうになった。
「じゃあ、一、二、三でいきましょう」
望美が天宮先輩の音に惚けていると、それに気づかないふりをして、天宮先輩が言った。
「あっ、はいっ!」
約四十人には狭い音楽室に、二本のアルトサックスの音が響き渡る。あまりに美しいその音色に、その場にいたほとんどの部員達が、練習の手を止めた。特に、一年生みのりは、他の一年生達と一緒に、
「望美先輩かっこいい〜!」
と、こっそりと盛り上がっているし、互いにアドバイスし合っていた夢と叶人は、いつの間にか聴き入ってしまい、ピタリと会話が止まった。二人は特に口にする訳でも無いが、その整った顔に満足げな表情を浮かべていた。
「まぁまぁ、今日はこんなもんかな。どう?コツ掴めた?」
吹き終わると、天宮先輩が望美に尋ねた。
「はいっ。なんとなくわかってきました」
「うん、なら良かった。ソロはビビったらその時点で負けやから、とにかくしっかり音鳴らしてな」
「はいっ。ありがとうございました!」
望美が小さく一礼すると、天宮先輩は満足そうに頷いた。望美が自分の席へ戻ると、今度はオーボエの女子生徒が、天宮先輩にアドバイスを求めた。心なしか、天宮先輩の表情が、とても活き活きとしてくる。天宮先輩の熱が、望美や、他の部員達に伝わったことが嬉しかったのだろう。そして、望美もまた、確かな情熱の
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