第5話
「ふぅ……お茶飲も」
テスト週間の放課後。望美は一人、音楽室で練習をしていた。星降高校では、テスト週間中の部活は、公式戦以外では原則認められていないが、自主練習は一応許可が出ている。コンクールまで、あと二ヶ月。いや、テスト期間で部活が無いことを考えれば、一ヶ月半程だろう。自分の演奏、まして、この曲の一番の見せ場で、皆の足を引っ張るわけにはいかない。天宮先輩に言われたことを直すためにも、焦燥感に駆られながら、望美は再び、アルトサックスを構えた。
「ひえぇっ!」
突然、望美の頰に冷たい感触がした。
「はははっ!」
慌てて振り返ると、叶人が大笑いした。左手に、冷たいペットボトルを持っている。
「わ、びっくりした……もぉ、驚かさないでよ」
「ははは!ごめんごめん」
そう言って、叶人は望美の隣の椅子に腰掛け、机の上に置いてあったユーフォニアムを抱えた。
「練習どう?」
「う〜ん……まぁまぁ、かな」
叶人の問いに、望美は言葉に詰まった。あの時の合奏以来、こうして自主練をしているが、一向に良くなっている自信が無い。
「あのさ、ちょっと二人で吹いてみようよ。ソロのとこ」
望美の不安を見透かすかのように、叶人が言った。
「う、うん」
恐る恐る、望美はアルトサックスを構える。好きなタイミングで入って、という叶人の言葉の後、一瞬の息の音と、アルトサックスの音色が、音楽室に響いた。そして、織姫に語りかける彦星の如く、温かなユーフォニアムの音色が、ロマンチックな響きを創った。何だかぎこちなく、少し物足りない感じのする望美の音に対し、叶人の音は、愛し合う織姫と彦星の心ように優しく、あたたかかった。
「……叶人、すごいね」
吹き終わったあと、望美はふと叶人にこぼした。
「私、叶人みたいに堂々と吹けない……そんな、楽しそうに吹けないし、どうしても緊張しちゃう……ねぇ、どうしたら、叶人みたいに上手くなれるの……?」
望美の声は、今にも泣き出しそうなほどに震えていた。望美は自分でも驚いた。自分がここまでこのソロへの思い入れがあるとは、望美自身も自覚していなかった。
叶人は、そんな望美を見て、一瞬目を丸くした後、言った。
「望美、緊張しとる?」
「そりゃするよ!だって一人で吹くんだよ?それに、今までソロなんてやったことないし……」
「うん、確かにソロって緊張するよな。コンクールだったら尚更。でもさ、僕、コンクールって、結局楽しんだヤツが一番上手いと思うんだよ。だからほら、肩の力抜いて、自信持っていいと思うよ。僕、望美の音、好きだからさ」
叶人は、白い、並びの揃った歯を見せて、少し照れくさそうに笑った。でも、その笑顔には、音楽への溢れる情熱が、確かにこもっていた。
「叶人っ」
望美は、叶人を真っ直ぐに見つめた。叶人は、そんな望美の表情に驚き、一瞬表情を硬くした。
「私、もっと上手くなりたい!だから、その……もう一回吹こうよ、あの場面!」
望美の瞳には、確かな熱がこもっていた。叶人は、そんな望美の熱ね応えるように、うん、と頷いた。
「よし、いったん休憩!」
疲れた〜と、叶人がペットボトルの水を呷った。まだ梅雨入りしたばかりなのに、もうかなり暑い。真剣に吹いていたのもあり、望美も叶人も汗だくだ。
「うわぁ、マジで暑い」
望美が、手に持っていたタオルで顔を仰ごうとすると、叶人がすかさずペットボトルを頰に当てようとしてきた。望美がそれをプロボクサーの如く素早く交わすと、どちらからともなく、どっと笑いがおきた。
「いやでも、望美のソロ、良くなったと思う。やっぱりいいね、望美の音はさ」
「ありがとう。う~ん、そうかな?」
「うん!いや、なんかこうさ、届け〜!っていう気持ちがこもってる気がする。だから、人の心にくるものがあるんだよ、きっと」
熱く語る叶人の言葉が、心からのものなのかはわからないが、あまりに目を輝かせながら言うので、望美はなんだか顔が熱くなった。
「うん、ありがとう」
「あのさ、望美」
照れ隠しに、ぶっきらぼうに感謝の言葉を述べた望美に、叶人が食い気味に言った。すっかり夕方になり、叶人の表情は、差し込む西日のせいでよく見えない。
「コンクールが終わったら、僕……望美に、伝えたいことがある……!」
叶人は、珍しくぎこちない口調で、望美に言った。
「え?何それ、教えてよ」
「いやっ。今は、ダメ」
不思議がる望美に、叶人はふっと顔をそむけた。顔が赤いのは、夕焼けのせいか、それとも。
「何それ、変な叶人」
なんだかいつもと違う様子を察知し、これ以上、望美は聞かないことにした。
「とっ、とにかく!もう一回吹かん?ソロのとこ」
叶人の問いに、望美は、うん、と、力強く頷いた。
先ほどよりも、二人の音が美しく重なりあう。アルトサックスは、切なく、しかし真っ直ぐに歌い、ユーフォニアムの優しい音色が、それを愛おしげに包みこむ。二人の奏でる旋律は、真夏の夜にひときわ美しく輝く一等星のように、煌めいていた。
二人きりの音楽室を、黄昏の空が、そっと見守っていた。
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