1部4章 ストラクを目指して 1

 二頭の馬が軽快な調子で草原を駆けていく。その速さは、速いというほどではないが、辺りの眺望を楽しむことができるほど遅くもない。

 時間を惜しんでいるディパルさんからすれば、もっと速度を上げたいところだろう。しかしオレが、これ以上加速させると手綱を操れなくなりそうだから、合わせてくれているのだ。


「――お、お兄ちゃんっ」

 と、いきなりオレの前に座っているシルキアが、甲高い悲鳴を上げた。

 声が聞こえたようで、左斜め前を走っているディパルさんが、首だけで振り返る。

「お尻っ! お尻いたぁい!」

 妹の声は、本気だった。


 ……そうだよな。

 そのうち言ってくるだろう、とは思っていた。

 オレだって少し前からジクジク傷んできていたからだ。

 オレたち兄妹は、これほど長時間、乗馬したことがない。

 乗り方が下手なせいもあるだろうが、鞍に打ち付けられ続けた臀部は悲鳴を上げている。身体付きが薄い……臀部の肉付きがオレよりも薄い妹なら尚更だ。


 灰色の馬が足を止めた。

 オレも手綱を引く。栗毛がいなないた。なんだよぉ、と文句でも吐いたのかもしれない。


「今日はこの辺りで野営をしましょう」

「……すみません」

 謝ったのは、ディパルさんが急いでいることを、今はもう知っているから。

「休むことも重要です」

 灰馬から降りたディパルさんは、手綱を掴んで歩き出す。

 オレもすぐに降りて、手綱を握って後をついて行く。

 やって来たのは、点々と生えている木のうちの一本の傍。

 ディパルさんが枝の一本に手綱を縛り付けた。オレもそれに倣う。


「シルキア、お尻診せてください」

 ディパルさんが、シルキアの傍で片膝をつきながら言った。

 こくんと頷いた妹が、ディパルさんに臀部を向け、ズボンを躊躇いなく下ろす。さらに続けて木綿生地で織られた下着――モエねぇのおさがりである、本来であればマークベンチ家の財力では到底買えやしない高価な、肌に優しい柔らかなものだ――も脱いだ。

 オレも、妹の状態を把握しておきたくて、ディパルさんの隣にしゃがむ。

 お尻の、右側の肉に、痛々しい擦過傷ができていた。


「薬を塗りましょう。場所が場所なので包帯は巻けませんし、少し多めに」

 ディパルさんが、腰に提げている小さな革袋を取り、口紐を解く。

「多めにって、いいんですか? 薬、貴重なものなのに」

 どのような薬草、ハーブを材料に作っているものかわからないが、それがどんな種類のものであっても薬は貴重なものだ。薬草やハーブの店、診療所などがある街中とは違って、大自然の中にいる今、薬は簡単には手に入らない。

 使い切ってしまえば、またどこかで入手するまで、なくなってしまう。当たり前のことだけれど、人間、意外とそれを理解していない者が多い。

 一度得たものは、またすぐにでも手に入ると、なぜか信じてしまいがちなのだ。


「構いません。ストラクが私にとっての終着ですから。貴重品もただの消費物です」

「そう、ですか」

 確かに、その通りかもしれない。

 先がないと自覚している者にとって、貴重なものなど時間以外にはないだろう。

 財産も何もかも、生きていてこそ価値のあるものだ。まあ、死後、それらを受け継がせる者がいるのであれば、話は変わってくるが。


 この人にはそういった財産を継承させる相手が……例えば血族……子どもとかは、いないのだろうか。

 ……フィニセントさんは、やっぱり、子どもじゃないのか。

 姉妹にも見えないし、友人にも見えない。

 ここまで一緒にいて、二人は……親しくしているようにも見えなかった。

 一体、どういった関係性なのだろうか。

 と、気にするだけで、本人に尋ねるようなことはしないけれど。

 触れてはいけないことだったら、それはとても、無礼なことだろうから。

 恩人に失礼なことはしたくない。


 ディパルさんは、袋の中に右手を差し込むと、すぐに抜き出した。その人差し指には、薄緑色と乳白色の混ざった粘着質なものがくっ付いている。薬だ。

 カノジョはそれをシルキアの傷に近付けていく。

 指先が触れた瞬間、「ひゃあ!」と声を上げて妹が身体を大きく震わせた。

「いたぁい! 痛いよぉ!」

「ごめんなさい。沁みますよね」

 謝りながらも、ディパルさんの指先は妹の震えるお尻の上を動く。

「シルキア、我慢だぞ我慢。薬塗ってくれてるんだから」

「うぅぅぅぅぅ、お兄ちゃ~ん」

 涙目で見詰めてくる妹。

「大丈夫、大丈夫。すぅぐ終わるから」

「もう終わりましたよ。下着もズボンも穿いてください」


 シルキアが、呻きながらの膨れっ面のまま、下着とズボンを上げた。ヒリヒリするのか、薬を塗られた違和感があるのか、妹はお尻を手で押さえたり撫でたりする。

「気になるのはわかりますが、触ってはダメですよ。擦れて、悪化してしまうので」

「そうだぞ。触っちゃダメ」

「だってぇ~」

「だ~め」

 不満顔の妹をオレは抱き締めてやる。

 シルキアは呻きながらオレの腹に頭をぐりぐりと擦り付けてきた。

 兄妹のじゃれ合い。傍から見れば無意味な振る舞いに思えるだろうが、当人たちにだけわかるものというのがある。

 そういうことが大事なのだ。

 お互いの不安を取り除くためにも。安心感を得るためにも。


「アクセル。キミは大丈夫ですか?」

「え?」

「お尻」

「あ……あ~、ちょっとは痛い、です」

 悩んだ結果、隠すことはしないことにした。

 旅なんて初めてだが、旅の心得のようなものは多少学んでいるつもりだ。

 仲間に、同行者に、自らの体調についてできるだけ嘘は吐かないほうがいい。

 嘘を吐いてその場をやり過ごしたとして、もしも体調が悪化してしまったら、更なる災難を生むことになるからだ。自分だけでなく、仲間たちにも。

 相手が怪しい……例えば悪人かもしれない場合は、嘘の利点もあるけれど。

「念のため診せてください」

「……はい。お願いします」


 羞恥心は芽生えた。

 オレも、もうそういう年頃だと、自覚している。

 母でもない女性に臀部を見られるだなんて。

 しかし、そんなことを恥ずかしがっている状況ではない。

 擦り傷でも、旅の中では甘くみてはダメだ。

 オレはズボンと下着――シルキアの穿いているものとは違って、かなり粗雑な作りのものだ。荒く編まれた糸は草でできていて、ごわごわと硬い――を脱いで臀部を見せる。


「少し、荒れてますから。薬は塗っておきましょう」

「ありがとうございます、本当に」

 ひりっとした痛み。痺れと熱。薬を塗られたのだ。

 オレは下着とズボンを引っ張り上げる。

 立ち上がったディパルさんは、少し離れたところにいるフィニセントさんへ顔を向けた。


「ファム、あなたは大丈夫ですか?」

 フィニセントさんは答えず、空を眺めたまま。

「ファム」

 ようやく、カノジョはこちらに顔を向けた。

 変わらず無感動というか、子どもに思えない静かな目だ。

「大丈夫。痛いのは、慣れているから」


 痛いのは。

 慣れている?


 頭の中で反芻したのは、意味がわからなかっただろう。

 だって、どういう意味だ。

 痛みに慣れるだなんて、そんなことあるのだろうか。

 痛いものは、いつだって、痛いはずだ。

 何か……何かの喩え?みたいなものだろうか。


「慣れているとしても、痛いものは痛いでしょう? 痛いのなら、診せてください」

「いらない。みられたくない」

 みられたくない。

 それは……。

 傷を診られたくない?

 身体を見られたくない?


 フィニセントさんは、この問答はおしまいとばかりに、そっぽを向いてしまった。

 ほんの少しの間を置いて小さく溜息を吐いたディパルさん。

 本当にこの二人、どういう関係なのだろう。


「……野営の準備をしましょうか。アクセル、手伝ってくれますか?」

「も、もちろんですっ。やれること、何でもやらせてもらいますっ!」

「シルキアもっ! シルキアもお手伝いできるよっ!」

 オレに同調して、妹も元気に主張した。お尻の傷など、どこかへ行ったように。

 それができたのも、幼いながら使命感を抱いているからだろう。

 オレたち兄妹は、恩を少しでも返すため、旅についてきたのだ。

 手伝えることであれば、なんだってやってやるつもり。


「ありがとうございます」

 ディパルさんが笑った。

 それは、微笑と言うにしたってとても薄い笑みだったけれど。

 多分、出会ってから初めて見る笑みだったからか、温かいものを感じられた。

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