1.他人の罪は背負えない

 宗方むなかたは、落ち着いた様子でそこに立っていた。かつりと音を立てて教室内に入ってきた彼は、蒼雪そうせつの方へ向かうのではなく、ホワイトボードの前へと向かって、立ち止まる。

 学校だと黒板の前は一段高くなっていたりするものだが、ここはそうではない。生徒の机の前、教卓があり、そこの高さは生徒の立つ床の高さと同じだ。

「……懐かしい、場所だ」

 宗方の指先がホワイトボードの表面を撫でていた。

「随分と、落ち着いていますね」

秋則あきのりが死んだ日から、こんな日が来ると、覚悟はしていた。そしてあの日、君が校舎に現れて、秋則の遺書があると聞いて、暴くのならば君だろうと、そう思ったよ」

 校舎に話を聞きに行ったときには篠目ささめ先生と呼んでいた篠目秋則のことを、宗方は今は秋則と名前で呼んだ。

 声を荒げるでもなく、言い訳をするでもなく。宗方は落ち着いた様子でホワイトボードの前に立っている。

 きっと彼は、かつてその場所にそうして立っていたのだろう。今は誰もいないこの教室の中に、何人もの生徒がいた頃に。

「やはり、篠目先生の自殺を、ご存知でしたか」

「やはり?」

「俺が遺書の話をした時に、先生は驚きませんでした。そんなものがあったのか、とは言っても、死んだのかとは聞きませんでした。もしかすると塾には連絡がいっていたのかもと思いましたが、それなら塾でアルバイトをしていた、しかも篠目先生の教え子である川辺かわべが知らないのも、同じく教師である金代かなしろ先生が知らないのもおかしい」

 兼翔けんしょうは未だ、うろうろと歩き回っている。

 彼が篠目秋則の自殺を聞いたときにどんな反応をしたかは分からないが、金代の反応は要も見た。彼女は取り乱して、口を押さえ、かかってきた電話でなんとか冷静になっていた。

「九月、二十一日」

 宗方が口にした日付は、篠目秋則がこのビルから落ちた日のものだった。

「久しぶりに秋則からメールが届いた。携帯のメールなんて普段は使わないし、送ってくるのはもう秋則だけだから、驚いた。疑いをかけられて、塾を辞めて、どうしているのかと思っていたが、俺も結婚の準備で忙しくて、連絡をしないままだった」

「そのメールには、何と?」

「『精神的に向上心のないものは、馬鹿だと、克郎かつろうに言いたい。ここはひどく懐かしくて、もうあの時の克郎がいないと思うと、もどかしい』」

 静かに紡がれたメールの内容は、算数教師らしからぬ、けれどある意味では、篠目秋則らしいものだった。

「ああ、なるほど。それなら調べたところで遺書のようにしか見えない。自殺をそこまで詳しくは調べませんし、話を聞かれたとしても『分からない』と言えば終わりでしょうね」

 遺書にも書かれていたその言葉を、突き付けたわけではない。ただ「言いたい」という曖昧あいまいな表現に落として、その刃の鋭さを鈍らせた。

 それは篠目秋則のやさしさか、それとも、逃げか。

「……通報者は、先生ですか」

「そうだ。俺がこのビルに着いた時、秋則がそこの窓から落ちていくのが見えた。自分の携帯から通報するのは憚られて、ビルの前にある公衆電話から通報したよ」

「そして、先生は、警察が来る前にここを立ち去ったわけですね」

 姿を消した、匿名の通報者。携帯電話からかけたのならば、その番号から誰が通報者であるのか警察も割り出すことはできただろう。

 この廃ビルの防犯カメラは、止まっている。電話ボックスに誰が入ったのかを映すものは、どこにもない。通報者は影も形もなくなり、そして、消えた。

「もし警察に何か聞かれた場合に、と知られると困る。そういうことですか」

「そうだ」

 どうしてここにいたのかと聞かれれば、宗方は説明ができないだろう。この近くに用事があったという言い訳も、周辺には何もなさすぎて、通らない。

 メールのことを素直に言えば、篠目秋則が宗方を呼び出したとも取れる。知らぬ存ぜぬを通すことはできるだろうが、疑われないとは限らない。

 そういう、思考だったのだろうか。自分が平成の透明人間であるからこそ、少しでも疑われることは避けたいと。

「川辺は口を滑らせましたよ。殴っただけだと、殴っただけで死ぬはずがないと。そうですね、殴られて死んではいませんから。被害者の致命傷はいずれも、胸の刺し傷です。つまり川辺は刺していない、だから本当の平成の透明人間は別にいるのだと、察しました」

 平成の透明人間の被害者は、頭部を殴られて倒れた。そしてその上で、胸を刺されて死んでいる。直接的に命を奪った傷は、背後から胸を刺された傷だ。

 だから兼翔の「殴っただけで死ぬはずがない」という言葉は、間違っているわけではないのだ。被害者たちは、その傷では死んでいないのだから。

「秋則の遺書で、俺を疑ったのか」

「いいえ。あの遺書だけでは、宗方先生を疑うには至りません。あれだけでは到底、材料が足りませんから」

 蒼雪は事件発生の日付には条件があると言っていた。兼翔のアルバイトが休みの日、平日、それだけではない条件が。

「二〇一八年四月十六日、七月十三日、十月九日。二〇一九年二月五日、四月五日。これらの日付はいずれも、新月の日です。月明りがなく暗い日に犯行を行いたいのならば、新月の日が一番確実でしょう。何せ絶対に、夜の空に月が昇ることはないのですから。こんなことは宗方先生、貴方も良くご存知のはずですね。小学校の頃に、俺たちに月のことを教えたのは、貴方ですから」

 平成の透明人間の犯行がある夜は、暗い。月明りはなく、街灯がない場所はともすれば真っ暗になってもおかしくはない。

「それに、平成の透明人間。どうしてそこまでで犯行を終えたのか、考えたんです。考えてみれば単純な話で、そこから犯人がいなくなれば、犯行は終わります。二〇一九年の春期講習は四月七日まで。その翌週から貴方は、この長山ながやま校に異動しています」

 平成が終わりになったから、令和になったから、だから犯行が終わったわけではない。ただそれは単純に、宗方が皐ヶ丘さつきがおか校から異動になったからだ。

「川辺は皐ヶ丘校にアルバイトとして残っていましたが、平成の透明人間の犯行は、川辺一人ではできませんから。宗方先生が日付や、相手を、川辺に指示していましたね? そして場所は、川辺がかつての記憶を頼りに考えた。昔俺たちは、皐ヶ丘校から皐ヶ丘駅と八巻やまき駅までの道にどれだけの防犯カメラがあるのか、面白半分に調査しましたから。川辺は記憶力が良いですからね、覚えているでしょう」

 それはかつて、蒼雪たちが、同じクラスにいた彼らが、やったこと。当然ながらそこには兼翔もいて、彼はそれを覚えていた。

「ただ、八年前より防犯カメラが増えている。一件だけ被害者が路地裏に入っていく映像があったのは、その増えた防犯カメラによるものでしょう。川辺は今の防犯カメラの状況を念入りに調べるなんてことは、しないでしょうし。自分が入る方向はともかく、被害者が入ってくる方向は」

 自分の姿を映してはならない。防犯カメラの映像に姿が映ってしまえば、当然疑われることになる。ともかく自分の姿を透明にしなければならないのだから、自分が映らないようには気を遣ったはずだ。

 けれど、相手はそうではなかった。だから一件だけ、被害者が路地裏に入っていく映像が残っていた。

 路地裏というのは、行き止まりの場合と、通り抜けられる場合とがある。通り抜けられる場所であれば、反対側から出入りすれば当然、被害者と同じ防犯カメラには映らない。

「被害者を路地裏に呼び、そこで待ち伏せしていた川辺が被害者を殴る。そして川辺がいなくなった後で、先生が被害者を刺して殺す。川辺には刺すことを、伝えないまま」

 だから兼翔は「殴った」とだけ言い、刺したとは言わなかった。

「ああ、でも。貴方は驚いたでしょうね。四月三十日に、七人目の犠牲者が出て」

「あれは、俺ではない」

「そうですね。そして、川辺でもない。七人目だけは、です。これについては彼に説明する話ですから、今は特にしませんよ。先生と川辺には関係のない話で、疑いをかけられないために透明人間に便乗した人間がいたと、それだけのことですから」

 彼、と急に蒼雪に水を向けられて、要は慌ててひとつ頷いた。

 要の姉は、塾には関わりがない。平成の透明人間最後の犠牲者は、本当は平成の透明人間ではない誰かによって殺されていた。

 その事実はどこか、要の心をざわつかせる。平成の透明人間が犯人だと思っていて、それを知りたくて、けれど犯人は透明人間ですらない。見えない透明人間の影に隠れた、ただ模倣をしただけの誰かだ。

「……さて、宗方先生。どうでしょう、俺の考えは」

 宗方はただ、そこに立っている。うろうろと歩いていた兼翔はようやく足を止めて、宗方をじっと見ていた。

「何も、言うことはないよ。すべて君の、言う通りだ」

「なるほど」

 つまり彼が、平成の透明人間ということか。塾に関係する人間を狩り、殺し、これまでずっと光の当たらない影の中にいた。

「先生は、道を踏み外した。俺もそう思いますよ。俺はね、宗方先生。小学校六年生の夏までの先生は、嫌いではありませんでした。でも今の先生は、好きではないです」

 精神的に向上心のないものは、馬鹿だ。

 宗方は道を踏み外し、篠目秋則はそのことに気付いた。けれど篠目秋則は直接それを突き付けることはなく、秘密を抱えて沈んでいった。

「川辺」

「なんだよ」

「君は、宗方先生に日付を指示され、その日にはバイトを入れなかった。新月の日は急に決まるものではないし、前々から分かるものだから」

「そうだよ。二ヶ月前くらいには指示があった。シフト出さないといけないし」

 何日もある休みの日の、たった一日。それも毎月ではなく、数ヶ月置いている。そもそも誰も、月の形がどうだとか、そんなことは気にしない。

 いつが新月か、それは調べてみれば分かること。ただし普通は、その日が暗いから犯行の日にしようなどとは思わない。それこそ日常的に、そういうものに触れる機会がないのなら。

「君は、宗方先生に、防犯カメラのない路地裏を、教えた」

「そうだよ。だから何だよ」

「そして君は、そこで待って、やってきた相手を殴った」

「そうだよ! いちいち確かめんじゃねぇよ! レジ袋に入れた石持って待ち構えて、背中向けた相手の頭、殴ったよ!」

「なるほど」

 背後から殴られて倒れれば、当然うつ伏せになる。後ろからの衝撃なのだから、体は前に倒れていく。

「レジ袋二枚用意しとけば、血の付いたレジ袋ごと石をもう一枚に入れて、鞄に入れたら誰も気付かねぇからな。それがどうかしたのか」

「被害者の人たちは、何か言っていなかったか?」

 疑問があるとすれば、どうして彼らは兼翔に背中を向けたのか、ということだ。すれ違って歩いて行ったにしても、殴るのならば動いている相手よりも止まっている相手の方が殴りやすい。

 けれど、見ず知らずの相手が背中を向けて路地裏で止まる。それは、そうそうあることではないように、要は思うのだ。

「それは」

「川辺君、言わなくて良い」

「……分かった」

 蒼雪に答えようとした兼翔を、宗方が制した。兼翔はその言葉に逆らうようなことはなく、そのまま机に手をついて、崩れるようにして椅子に座った。

 ホワイトボードの前に、宗方はいる。かつて蒼雪や兼翔に授業をしていたときと、立っている位置はきっと同じだ。

「なぜですか、宗方先生」

「姫烏頭君こそ、どうしてそんなことを川辺君に聞く? 俺が平成の透明人間だ、そう言っているのに、何を確認したいんだ?」

 宗方克郎が平成の透明人間である。

 本人もそれを、認めている。

 けれども蒼雪は、宗方本人ではなく、兼翔に問いを投げている。

タレみ初めて戀の道。チマタに人のマヨらん」

 恋。

 夏目漱石の『こころ』を読み終えて、蒼雪にお嬢さんが悪女だったらというたとえ話をした。実際にそうではないけれど、お嬢さんに惚れ込んでいたら、お嬢さんのために何でもしたかもしれないと。

「では、宗方先生に確認しましょうか」

「分かった。俺はもう隠したりしない、全部認めて正直に話す。それで良いんだな」

「……そうですね」

 窓の外、丸から少しだけ欠けているはずの月。けれどそれは、要の目には真ん丸に見えて、満月との違いは分からない。

 まだ地面の果てに近いところにある月は、すべてを呑み込むかのように大きかった。

「殺す相手を、どのように選びましたか」

「適当だよ。このあたりに勤めているとか、このあたりに住んでいるとか、そういう中から適当に選んだ。卒塾生でも保護者でも生徒でも、別に誰でも良かった」

 通っていた校舎はバラバラで、年齢も様々だ。卒塾生に卒塾生の保護者、そして現在通っている生徒の保護者。その中には、生徒だけがいない。

「でも、現在通っている生徒はいませんね」

「今教えている生徒を殺したら、疑われるだろう? 警察にも事細かに話をすることになるから、子供たちは避けた」

 塾に通っている生徒が殺されれば、何か塾が関係あるのではという勘繰りは受ける。卒塾生や保護者であれば、なかなか塾にまでは繋がらない。

 そうだとするのならば、無作為ながらも自分に疑いがかかることだけは徹底的に避けたと言えるのだろうか。

「どうやって勤め先のことなんて知ったんです? 生徒保護者はともかく、卒塾生の勤め先なんて、塾には伝えないでしょう」

「伝えている人も、いる」

 どうでしょうねと蒼雪は落として、けれどそれ以上の追求はしなかった。

 小学生の頃に通っていた塾に大学の合格を報告しに行く。それすらも要にはよく分からない感覚だが、それからさらに遠い、就職まで伝えるようなものなのか。

 とはいえ伝えていたからこそ宗方の記憶にあり、被害者となったのだろうけれど。

「どのようにして、被害者を路地裏に誘導したんですか?」

「……それ、は。塾に来るはずの、教え子が来ないから、探してくれと」

 蒼雪が宗方の顔を、見透かすようにして見ている。冷たい刃物のような視線は、その顔の皮一枚を剥ぎ取って、隠していることを暴き立てようとする。

「何で、どのように、被害者を殺しましたか?」

「包丁で普通に、左胸を」

「普通に?」

「普通にだ。こうやって、包丁を持って」

「刃が、被害者の足の方へ向くように」

「そうだ」

 宗方がしてみせた動作は、普通の包丁の持ち方だった。刃になっている方が下、食材を切るときと変わらない。

染井そめいのときも?」

「そうだと言っている!」

「他もすべて、包丁?」

「そうだ!」

「ところで、先生」

 ぱん、と蒼雪が手を叩いた。

「宗方先生からの連絡はいつもメールだと、川辺が言っていたんですが」

「それが、何か」

「先生は、ご自分で先ほどおっしゃったではありませんか。携帯にメールを送ってくるのは篠目先生だけ、と。もうそこで矛盾が生じている。まさか川辺のことを隠そうと思っただとか、そんな後付けの理由は要りませんよ」

 それは先ほどの、篠目秋則が自殺した日の話だ。

 宗方に篠目秋則がメールを送った。メールを送ってくるのは篠目秋則だけ。

 ならば、兼翔へのメールはどうなるのだろう。自分が日頃からメールを使っているのならば、篠目秋則だけという言葉は明らかにおかしなことになる。

「メールというのは、偽装するのは簡単ですよね。このアドレスが自分だと言われて送られてきたのなら、信じてもおかしくはない。迷惑メールもあるので警戒するかもしれませんが、例えば」

 思えば要も、メールというものはほとんど使わない。今はメッセージアプリで連絡はどうとでもなるし、一言でいいのだから楽なものだ。

 それこそ樹生との連絡も、メッセージアプリだ。姉との連絡だって、そうだった。

「『宗方です。履歴書を見て連絡しました。アルバイト、がんばろうな』」

 蒼雪がたとえばで告げた文章は、名前が明確に入っている。履歴書、アルバイト、自分が送っていたのならば、当然それを信じてしまう。

 それを宗方以外の誰かが送ってきているかもしれないなんて、考えもしないで。

「実際どう書いてあったかは分かりませんが、俺ならこういうことを書くと思います。そうすれば小学校六年生、川辺にとってもっとも輝かしい時期に、一番自分を見ていてくれた先生なのだと、川辺は信じ込む」

「そうだ、俺が川辺を利用した! 誰もメールの偽装なんてしていない!」

 ホワイトボードの前で、宗方が初めて声を荒げた。蒼雪は篠目秋則が落ちていった窓の前で、いいえ、と首を横に振る。

「他人の罪は背負えませんよ、宗方先生」

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