第26話 軒先にかかる星空
あとどれほど、時間が残っているのだろう?
1分? 30秒?
いいやもう10分は超えていて、彼女の母としての精神力だけで、ゾンビ化に
10分とはあくまでも平均的な目安であって、ゾンビ化が10分よりも早い人もいれば、彼女のように必死に抗い遅い人もいると思う。
それは11分? 12分?
そんなことぼくには分からない。
それをどうこう考えている場合じゃない。
とにかく集中しろっ。
指を動かせっ。
ぼくは小さな女の子に使うはずだった、買い物カゴから星のオブジェを取り出し、爪のピンセットで気脈(魔力)をいじる。
星の御守りはヒノモトのような機械化された工業製品ではなくて、一つ一つハンドメイドだった。
製作者も一人ではなく複数いるようで、星の御守り内に描かれている「魔法陣」も、個々に個性が感じられた。
もしくはお値段により、効き目のグレードが違うのかもしれない。
平時だったなら、その違いに関心を持って楽しめるんだけれど、、今はそれがとっても
一つ一つ同じではないので、一々気脈の流れの「クセ」を確認しなきゃいけない。
「うっ……くっ……」
よりによって、その魔法陣は複雑だった。
書き込まれた神代文字が倍近くあり、達筆で字が読みずらい。
「出力先どこっ」
思ったよりも、時間がかかってしまった。
他の星の御守りよりも、十数秒多く使ったかもしれない。
いやもっとか? もう時間の感覚が分からない。
焦りと緊張、そして間に合わないかもしれない恐怖心で、ぼくの体内時間はぐにゃぐにゃだった。
何とか目当ての部分の気脈を、爪先で拾い出し引き伸ばす。
さあ次は塩の瓶だと視線を上げた時、彼女の震え方が、極端に小さくなっている事に気づいた。
ぼくの背筋がゾッとする。
ゾンビ化の、アディショナルタイムが切れかかっていた。
ぼくは呼吸を止めて、震える指先を強引に抑えながら、星から塩の瓶へと気脈を繋げていく。
彼女の体が弛緩していった。
あれほど抗おうと強張っていたのに、首がゆっくりと垂れていく。
「待って、待って、待って!」
塩の瓶から、一本目の包丁へ気脈を繋げる。
包丁は3本繋げなければ、駄目だった。
他の発症者で、時短しようとして2本でやったら効果が弱かった。
早くて浅い呼吸を繰り返していたのに、彼女の呼吸が弱く穏やかになっていく。
「くううううっ」
2本目の包丁に繋げ、それから3本目へと繋ぎ終わった。
彼女の震えが完全に止まって、もう呼吸音が聞こえない。
「だめだめだめだめだめっ、駄目だよ!!」
包丁の気脈を引き延ばして、やっと脳に繋げられると思ったとき、ぼくの手が止まってしまう。
妖狐の眼で見た彼女の脳は、完全にゾンビの赤い気脈で包まれて、赤いナイトキャップを被せられたようになっていた。
気脈を繋げようにも、隙間がない。
「あーっ、あーっ、あー!」
何もかもが手遅れだった。
彼女の体温が、石畳と変わらなくなる。
ぼくは買い物カゴを持って、もう叫ぶことしかできなかった。
「ああああああああああっ!」
ぼくの目の前で、彼女の意識がこと切れるその刹那。
無力なぼくの後方から白銀の閃光が走り、若いお母さんの眉間を撃ち抜いた。
それはレーザーのように細い光だった。
その瞬間、ぼくの妖狐の眼が劇的な変化を目撃する。
彼女の脳を覆っていた赤いネットが、炎で炙られたように縮こまり、ほろほろと崩れていった。
全身に回っていた赤い気脈が、苦しむようにうねって霧散していく。
一体何が起きたの!?
ぼくは閃光が飛んできた後方へ振り向く。
強張ってしまった首筋が、ぶちぶちと音を立てた。
「あああっ……」
そこに立っていたのは、3体のスケルトン。
修道院の僧服姿で、その上からチェインメイルを着込んでいた。
右手には金属製の
きゅぴん、きゅぴぴん♪
ぴぴん、きゅぴぴん♪
白い光が飛び交う度に、場に似つかわしくない軽妙な音が響き、閃光がゾンビを撃ち抜いていく。
撃ち抜かれたゾンビは、糸が切れたマリオネットのように、その場へ崩れ落ちていった。
ぼくは息をするのも忘れて、その光景をガン見してしまう。
旧市街区の城門で立ち往生していた「僧兵」が、城壁を越えここまでやってきてくれたのだった。
たった3体だけれど、その効果は劇的だった。
ゾンビを倒し、初期症状の人や嚙まれた人たちを、その聖属性のレーザーで治癒していく。
ぼくの獣耳がパタパタと動き、微かな呼吸音を捉えた。
ぼくはハッとして振り返り、慌てて植え込みにうずくまる女性の口元に耳を近づけた。
すー、すー、すー
まだ弱いけれど、止まったはずの肺が動きちゃんと呼吸をしている。
「い、生きてるっ」
ぼくは力が抜けて、後ろへ倒れそうになった。
片手を付いて支えようとしたけれど、その手もぐにゃりと曲がって、結局ばたりと背中から倒れちゃう。
「はあ、はあ、はあ、はあっ……」
ぼくはただ荒い息を吐くだけで、しばらく動けなかった。
頭が真っ白だった。
助かった喜びとか、そういったものは、多分後から湧いてくるんだろうな。
極度の緊張から解放されて、ぼくは
寝ころんで何も考えられない。
ぼくはただただ口をぽかんと開けながら、家の軒先にかかる星空を眺めた。
*
真夜中の街を、お師さまことアルスラが一人屋根伝いに走る。
通りからはまだ悲鳴が聞こえるが、アンデッド僧兵が出てきたのでもう大丈夫だろう。
もう自分が出しゃばらなくても大丈夫。
そうアルスラは思うけれど、どうしても気になる事があって、あの場はフーリーに任せ一人駆けていた。
「あの街へダイブした巨大魚は、一体何なの?」
やっぱり、この眼で確かめないと気が済まない。
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