第40話 抱擁

 それからあとは、大変だった。夜になってしまったためそのまま侯爵邸に泊まることになったが、初めての3人揃っての夕食でココが大興奮してしまい、収拾がつかなくなった。


 ケイの席とヴォルクの席を行ったり来たりして、ヴォルクの膝に座って甘えるわ、レダにジュースをおねだりするわでケイは何度制止したか分からない。

 ヴォルクは嬉しげで叱らず、レダも「あらあらまあまあ、お嬢様ったら」とさっそく甘々なばあや・・・ぶりを発揮してくれたりで、結局ケイが叱った。そしてココに「ママやだ!」と言われた。子育ては理不尽だ。


 そんなこんなで和やか……というより、もはや騒がしい夕食を終え、ケイがココと客間に下がったのが夜8時頃。

 その2時間後、ケイは書斎の隣にあるヴォルクの私室の前に立っていた。



「お邪魔します……」


「ずいぶん早かったな」


 ノックをしておずおずと室内に入ると、書物を読んでいたヴォルクが顔を上げた。湯を浴びたのか小ざっぱりとしたいでたちになっており、本を置くと立ち上がる。


「いや、ココが興奮して絶対寝ないと思ったんですけど、なんでかいつも以上に寝付きが良くて。なんだろ、牛乳も飲んでないのに」


 ケイが首を傾げると、ヴォルクが微妙な苦笑を浮かべる。ケイに近付き、ヴォルクは小さくため息を吐いた。


「夕食に、ローネ菜のスープが出ただろう」


「ローネ菜……ああ、あのレタスもどき。ココがごくごく飲んでましたけど」


「あの野菜には、入眠効果がある。夜にぐずる子供によく出す夕食の定番だ」


「えっ。……よ、用意周到……」


「私の指示ではない。……レダが、妙な気を回したな」


 ヴォルクがなんともいえない顔で笑う。まさか彼の仕業かと思ったら、ニコニコと穏やかに笑っていた老侍女頭の策略だったとは。

 そんなことを考えられていたとはいざ知らず、ケイの頬に血が上る。


「ソコルといい、よほど我々は応援されているらしい」


「はは……」


 ケイは乾いた笑みを浮かべ、緊張をほぐすように室内に目をやった。

 ヴォルクの私室は、質実剛健の家風の主らしく大貴族のわりには落ち着いた調度だった。王宮の客間の方がよほど豪奢できらびやかだ。

 だが紺を基調とした落ち着いた色合いはケイの目にも好ましく、初めて入る部屋だがヴォルクらしいと思った。


 客間に下がる前に、ココが寝付いたら自室に来てほしいとヴォルクに告げられた。

 ケイがもじもじと立ち尽くしていると、正面にヴォルクが立つ。手を伸ばされて頬に触れられ、ケイはぴくりと身じろいだ。

 キスされるか、抱きしめられるか――そう予感して目を閉じると、そのまま頬を撫でられてケイは薄目でヴォルクを見る。


「……ありがとう。この世界に残ってくれて」


「え……?」


 予想外の言葉にケイは目を瞬いた。ヴォルクはランプの灯りを背に、穏やかな目でケイを見下ろしている。

 早とちりしてキス待ちしてしまった恥ずかしさにケイは内心で悶絶しつつ、ゆっくりと首を振る。


「私が残りたいから残ったんですよ。私こそ……ありがとうございます。ココと、家族にしてくれて」


「私がそれを望んだのだ。そなたが伴侶となってくれるのか……。私には過ぎたほどの幸福だな」


「そんな大げさな。あとから気の迷いだったって言われても困りますからね、ヴォルクさん」


「それはないな。……ああ、それと――」


「……? んむ」


 ケイの唇にヴォルクの親指が押し当てられた。見上げると、ヴォルクが目を細める。


「……ヴォルク、と」


「え……」


「敬称はいらぬ。……ヴォルクと。そなたは侯爵夫人になるのだぞ。使用人の前で威厳を見せてもらわねば困る」


「え。ええ~……」


 ふっと笑まれ、ケイは至近距離からの被弾にしどろもどろになる。ちらっと見上げると、ケイの発言を待つヴォルクの顔が。


「それ、どうしても直さないと駄目ですか……? 無理そうなんですけど……」


「少しずつで良い。まずは、二人のときから――」


「…………。ヴォ、ヴォルク……」


 頬を撫でているのと逆の手が、肩から腰へと滑り落ちた。引き寄せられながら顔を近付けられ、ケイはなかば強制的にもう一度口を開かされた。赤い顔で、かすれた声で。


「ヴォルク……」


「ああ。……来てくれたということは、期待しても良い……ということだな?」


「そっ――、……んっ……」


 ケイがうなずくよりも早く、顎を取られ、唇が重ねられた。








 深く甘い二度目の夜を過ごしたあと、汗の引いたケイはヴォルクに誘われて寝台から立ち上がった。

 ガウンを羽織ってヴォルクと共に続きの間のドアを開くと、目を見開く。そこに置かれていたものにケイは歓声を上げた。


「バスタブ……! えっ、すごい。この世界に来て初めて見ました……!」


「そうか。王宮にあって、陛下が疲労回復に良いと薦めるのでな……昨年、造ってみたのだ。まあ毎日使っているわけではないが」


「うわー……。懐かしい……」


 主の寝室の隣には、立派な猫足のバスタブがしつらえられていた。この国では非常に貴重なものらしく、それをさらりと取り入れられる侯爵家の財力に今さらながら感嘆する。

 蓋代わりの革をどかすと、湯気がふわっと立ち上る。湯の温度を確かめたヴォルクはさっさとガウンを脱ぐとそこにザブンと浸かった。ケイを見上げ、濡れた髪をかき上げる。


「入りなさい。湯が冷める」


「えっ。……あ、は、はい」


 当然のように促され、ケイはおずおずとガウンを脱ぐとなるべく体を晒さないようにして湯へと入った。湯は少しぬるくなっていたが、ほてった肌にはちょうどいい。

 久しぶりに足先から肩まで温かい湯に包み込まれ、思わず大きなため息が漏れる。


「うはぁあああ~。気持ちいい~……」


「くっ……。喜んでもらえたようで何よりだ。風呂は好きか?」


「はい。向こうでは毎日入っていたので」


「そうか。……地方の領地には温泉がある。落ち着いたら視察がてら、ココも連れて旅行に行こう」


「それいいですね……! ココも絶対喜びます」


 バスタブは広く、両端にいれば互いの体が触れ合うこともない。ハーブか何かが入れられているのか湯は濁っており、視覚的な恥ずかしさも意外と少ない。

 ケイはバスタブの縁に頭を預けるとうっとりと目を閉じた。


「最高です……。ココにも入らせてあげたい……」


「もちろん構わん。私が入っていないときに使うといい」


「ありがとうございます……!」

 

 ケイが目を開けると、ヴォルクは湯をすくって顔と髪を洗い流していた。

 ケイより上背があるため胸から上が見えており、落ちた前髪から水滴がしたたり、それを鬱陶しそうにかき上げる。濡れたたくましい腕と伏し目の競演に、ケイの心臓は跳ね上がった。


(かかか、カッコいい……! エロい……いや、違う。セクシー? いや、色気だ! 色っぽい……!)


 色気が大渋滞している近い将来の伴侶に、ケイは内心で喝采を送ると赤くなった顔を悟られないよう顎まで湯に浸かった。本当に、とんでもない人と夫婦になることになってしまった。

 ヴォルクはふと顔を上げると、沈んでいきそうなケイをぎょっとした目で見る。


「大丈夫か」


「は、はい」


「ココで思い出したが、そなたとココの部屋もそれぞれ準備せねばな……」


「え。お部屋を頂けるんですか?」


 ケイが驚いて返すと、ヴォルクは無言でうなずいた。適当な部屋に二人まとめて置いてもらえればそれで十分なのだが。


「当然だ。そなたは侯爵夫人だからな。あとは服と調度品と――」


「服……。ドレスですか……」


 さすがに毎日スカートを覚悟しなければいけないかとは思っていたが、上流階級ともなれば毎日ドレスを着なければいけないのだろうか。ケイがあからさまにげんなりすると、ヴォルクはなだめるように苦笑する。


「ふっ……。邸内では何を着ていても構わんが、対外的に必要なときもある。正装するのはせいぜい年に数度だ。別に毎日、一人では脱げないような豪奢なドレスを着る必要はない」


「……!」


 ふ、と色を含んだ視線を送られ、ケイは喉の奥が詰まった。そのまままたズルズルと湯に沈んでいくと、心を落ち着かせ、浮上する。


「あの……お願いがあるんですけど」


「なんだ?」


「ココの部屋はまだいいので、その……夜、ココと寝てもいいですか? 元の世界でも、こっちに来てからもいつも一緒に寝てたので……。私の国だと結構多いんですけど、ココが『もういい』って言うまでは一緒にいてやりたいんです。……駄目ですかね?」


 ケイがおずおずと切り出すと、ヴォルクは小さく目を瞬いた。

 ラスタに聞いても、こっちの国では親子は寝室を分けるものだと言われた。けれどヴォルクと再婚する予定になった今、部屋まで分けられてはココと触れ合う時間が減ってしまう。

 ケイのわがままに、ヴォルクはすんなりとうなずく。


「別に構わん。そなたが思うようにさせよう。……子供が子供らしくいられる時間は短い。そなたはそなたのやり方で、愛情を注いでやるといい。一人寝には慣れているしな」


「あ……ありがとうございます」


 意外なほどあっさりと許可が下り、ケイは逆に面食らった。そんなケイを見てヴォルクがふっと笑う。


「……なんだ? そなた、私が毎夜求めるとでも思ったか? 寝室から離さないとでも」


「なっ……! そっ――」


「残念ながらそんなに若くない。たまに来てもらえれば十分だ。……まあ、そなたが求めてくれるなら夜ごとでもやぶさかではないが」


「む、無理です。……からかってますね?」


「そなたの反応が愛らしくてな」


 上機嫌なヴォルクはバスタブの縁に頭を預けると、目を閉じた。首筋をマッサージしながら、ささやくように続ける。


「……本当は、今宵も朝まで離したくない」


「……っ。……すみません、お湯から出たら部屋に戻ります……」


「分かっている。言ってみただけだ。……数年後を楽しみにするとしよう」


 どこか寂しげに苦笑されて、ケイは申し訳ない気持ちになった。

 ヴォルクは、ケイの主張をほとんど聞き入れてくれる。それはありがたいが、自分も何か返せないだろうか。この関係になったからこそできる、自分だけのことを――


(……あ)


 ケイはそろそろとヴォルクに近付くと、彼の隣に座った。湯から手を出すと、そのこめかみに両手で触れる。


「ん……? どうした」


「いえ、また凝ってるかなと思いまして……。あの、目、閉じてください。温まったから楽になるはずです」


「…………」


 至近距離で目を合わせ、ヴォルクは瞬くとふっと笑って目を閉じた。ケイは少し身を乗り出すと、体はヴォルクに触れないようにしてぐっと指を押し込む。

 以前はプライベートな部分ゆえに、触れることができなかった。その顔面に今日ようやく手を伸ばせた。


「ん……」


「痛くないですか? 目の疲れといったらやっぱりまずは周りをほぐしたくなるので」


「大丈夫だ。……気持ちいいな」


 指先に力を込めて、こめかみを丸く揉みほぐす。そのまま眉毛をたどり、高い鼻梁の付け根を圧迫するとヴォルクは薄く息を吐いた。


「ヴォルクさ――、ヴォルク、いつも皺寄ってるから。駄目ですよ、目つきも視力も悪くなりますから」


「そうは言ってもな……。緩んだ顔で仕事をするわけにもいくまい」


「じゃあせめて、おうちにいる時ぐらいはリラックスしてください。えーと、心穏やかでいてください」


「言われずとも心穏やかだ。……そなたたちが屋敷にいた頃、顔が穏やかになったと陛下に言われた。これから先も、きっと続くだろう」


「そ、そうですか……」


 目を閉じたまま満足そうに笑うヴォルクは心からくつろいでいるように見えた。無自覚のカウンターパンチにケイだけが赤くなる。

 ケイは身を乗り出すと、今度はその濡れた銀髪に指を差し込んだ。指を開くと、ゆっくりと頭皮を揉みほぐしていく。


「ああ……。最高の気分だな……」


「そんな大げさな。髪、結構硬いんですね。ハゲなさそうでいいなあ……。うちのお父さん、ツルツルだから」


「そうなのか。……会ってみたかった」


「あんまりカッコ良すぎて『お前騙されてるんじゃないか!?』って私が言われますよ、きっと。……あ、後ろもほぐしますね」


「ああ。……こんなに心地良いなら、もっと早くやってもらえば良かった」


 ヴォルクが心底リラックスしているのが嬉しくなり、ケイのマッサージにも熱がこもる。目を閉じた端正な顔に、いつかの光景が重なった。


「……フィアルカ様も、髪を洗うと気持ちいいって言ってくださいました」


「そうか。……だがこういう場で、身内の名を出すべきではないな。後ろめたい気分になる」


「あはっ。たしかに」


 少し眉をしかめたヴォルクの発言にケイは苦笑した。ヴォルクの首筋をほぐしながら、ぽつりとつぶやく。


「フィアルカ様は、お怒りじゃないでしょうか……。大事な甥が、得体の知れない女にたぶらかされたって」


「くっ……。どちらかというと、たぶらかしたのは私の方だと思うが……。その心配はないだろうな」


「どうしてですか?」


 ケイが聞き返すと、ヴォルクは薄目を開けてケイを見上げた。そして再び瞳を閉じると続ける。


「私宛ての手紙に――いや、あれはもう遺言だな。……それに、『ケイを嫁にもらえ』と書いてあった」


「えっ!?」


 ケイは驚愕して思わず身を乗り出した。パシャンと湯が跳ねてヴォルクが顔をしかめる。


「ごめんなさい。いや、その……あの頃から好意はありましたけど、私そんな素振り見せてないはずですよ!?」


「私もだ。……まったく、今となってはどこまで気付かれていたか分からんな。本当に、死の間際まで心配をかけてしまった」


「はは……。まあ結果的に、フィアルカ様の望み通りになりそうなんでお喜びなんじゃないですかね……?」


「そうだといいが。……さて、ずいぶん長くやってもらったな。楽になった、ありがとう」


「あ、はい」


 ヴォルクが満足そうに告げ、ケイは彼から離れた。再び距離を取って見上げると、ヴォルクは「ん?」と見つめ返してくる。


 ――そろそろ、湯から出なければ。そろそろ、客間に戻らなければ。そろそろ――


「…………」


(もう少し……だけ。二人の時間を――)


 満たされて、それで十分なはずなのにもっと欲しがる欲張りな自分が顔を出した。ケイはおずおずとヴォルクに近付くと、ためらいと共に告げる。


「朝まではいられないですけど……もう少しだけ、一緒にいたいです。いいですよね……?」


 湯はとっくに冷めてしまった。それなのに、まだ肌が火照るのはなぜなのか。

 吐息で問いかけたケイに、同じくヴォルクが吐息で返した。


「……もちろんだ」



 新しい侯爵夫妻の甘い夜は、深夜まで続くようだった。



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