第9話

 メアリがいそいそと帰り支度をし始めた同じ時刻、セドリックはルフナ教会にある自室で頬づえをついたまま、居眠りをしていた。

 眠りながら、彼はこれは夢だと思った。


「──邪魔です」


 話の途中でふいに背後から女性に声をかけられて、セドリックは慌てて道をあけた。

 その瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきて彼の鼻をくすぐる。


(バニラと……この妙に甘ったるい匂いはなんだ?)


 この街へ来てから、たびたび嗅ぐようになった匂いだ。

 大聖堂で暮らしていた時には縁がなかったこの匂いは──、


(機械油の匂いか)


 この街には似合いの匂いだ。


 霧の街、ロディム。

 もともと霧が発生しやすい地域だったが、産業革命によってスモッグが空を覆うようになってからはますます視界が悪くなったという。


 女性からほのかに香るのは、機械油が熱せられてモワァと拡散するような、そんな匂いだ。

 五味でいえば、甘に属する。


 決して良い匂いとはいえないはずなのに、彼女から漂う香りはバニラと混じり合って心地よい甘さを醸している。

 セドリックは癖になる匂いだ、と思った。


 もっと近くで確かめたい。

 無自覚に、セドリックは女性に向かって一歩前に足を出した──と、その時である。


「邪魔なのはあなたの方でしょう!」


 甲高い声に、意識が引き戻される。

 驚いたセドリックは、反射的に身を引いた。


 一人の少女が、女性からセドリックを守るように立ちふさがる。

 キャンキャンとよく吠える、小型犬のような少女だ。前髪を上げて額を出す髪形は、どことなくマルチーズという種類の犬を思い起こさせる。


(そうだ、この子と話をしていたのだった)


 忘れるような時間はたっていないのに、セドリックはすっかり少女の存在を忘れていたことに気がついた。


(伝えたいことがあると言って呼び止められて……なかなか話さないものだからどうしたものかと思案していたところだったな)


 そこへ、女性が声をかけてきたのだ。

 少女からしてみれば、大事な話を邪魔だてされたのである。怒るのも仕方がないと思わなくもないが、ただの一般人が貴族に言い返すのはあまり得策とはいえない。


(そもそも、私が道をふさいで邪魔をしていたのは事実だ)


 ここは墓地で、セドリックはその管理者に世話になっている身。

 墓地に用がある女性からしてみれば、退くべきはセドリックの方だろう。


「邪魔?」


 少女の声に、立ち去ろうとしていた女性が足を止める。

 ふわりと癖のある茶色の髪ブルネットがなびき、女性が振り返った。


 小首をかしげた女性が、少女を見る。

 アーモンド型の明るい茶ヘーゼルの目に、セドリックは凛とした印象を受けた。

 ただ流されるだけの人ではない、なにか一本筋が通っているような、確固たる自分を持っている人の目だ。


 女性の優雅な立ち居振る舞いに、少女はやや怯みながらも言い返した。


「ええ、邪魔です」


 少女の言葉に、女性はフゥとため息を吐く。

 まるで、わがままな子どもの言い分を聞いたあとみたいに、やれやれと。


「そう……」


 女性は、思案するように持っていた日傘をクルリと回す。

 その時、セドリックは彼女の日傘がただの傘ではないことに気がついた。

 彼女の日傘は、まるで仕込み杖のような妙な違和感がある。


 セドリックの視線に気がついたのだろう。

 女性はニッコリと嬉しそうに微笑んで日傘をクルリと回してみせた。


 ひ、み、つ。

 セドリックにだけわかるように、女性は唇を動かした。

 スッと細めた目はいたずらを目論もくろむ猫のようで、愛らしささえ感じる。


「あなたがどこの誰で、何をしようと私に関わりはありませんが……。ここは墓地で、英霊たちが眠るところ。いかなる理由であろうとも、彼らの眠りを脅かすことは許されません」


 おいたをすると、ゴーストにお仕置きされてしまいますよ?

 母親が聞き分けのない子どもへ言い聞かせるように、女性はやさしく言った。


 正論だ。

 ここは墓地であり、少女のように大声を出したり、声を荒らげたりしてはいけない場所である。

 少女は悔しそうに唇を噛んだ。


「くっ!」


「告白するのなら、向かいのカフェでなさった方が良いのでは? その方が墓地よりも勝率は上がると思うのですが……」


「うっ」


 さらに余計なアドバイスまでされて、少女の顔が真っ赤に染まる。

 もちろん、怒りで。


「お、覚えていなさいよ! 奇婦人メアリ!」


 宣戦布告するように、少女は人差し指を突き立て、女性を指差す。

 メアリと呼ばれた女性は少しだけ驚いたように目を瞬かせたあと、


「あらまぁ。人を指差すのはお行儀が悪いですよ?」


 と言った。


 うわぁぁん! と情緒が爆発してしまったように大声を上げて、少女が走り去る。

 残されたセドリックは、ただ呆然ぼうぜんと見送ることしかしなかった。


「助かった、と顔に書いてありますよ」


 クスクスと女性は笑う。

 その通りだった。


「助かりました。どう断ろうかと、思っていたので」


「それは良かった」


 女性が笑う。

 いたずらっぽい笑みはやはり猫のようで愛らしい。

 ぼーっと見入っていたら、「それでは」と軽く会釈して彼女は歩いて行ってしまった。


「機械油とバニラの香りの貴婦人、メアリ……」


 それが、セドリックと奇婦人メアリの出会い。

 霧深いロディム街の、英霊たちが眠る墓地でのことだった──。


 頬づえをついた右手の支えを失い、セドリックは崩れるように目を覚ました。

 ぼんやりとした思考を揺り起こすように頭を振る。

 ふと目に入った窓の外はもうすっかり暗くなっていて、セドリックは慌てて立ち上がった。


「行かなくては」


 セドリックの仕事は、昼だけでなく夜もある。

 むしろ、彼の仕事は夜が本番といっても過言ではない。

 頭の奥にわずかばかり残っていた眠気を追い出すように欠伸を一つ噛み殺し、セドリックは部屋を後にした。

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