八欠片目

 寝苦しかった夜を越え、俺たちは身支度を整えていた。


 朝餉を食し、いつの間にか洗濯してもらった服に着替え、玄関先で靴を履く。


「二人とも、いってらっしゃい」


「お世話になりました。また遊びに来ます」


「虫刺されに気を付けるんだよぉ」


 引き戸を締めるその時まで、見送りにおばあちゃんは手を振っていた。


「……じゃ、出発しよ」


 声をかけてきた実里は、純白の衣に身を包んでいた。


 子ども時代以来に見る、実里のワンピース姿。この近くを駆け回ってた頃を思い出す。

 しかしそこにいる女の子の表情に、あの頃の無邪気さはなかった。


「ああ、そうだな」


 実里は懐かしむために昔と同じ姿をしている訳じゃない。

 俺達の過去に向き合うための正装をしているのだと、伝えているように思えた。



 記憶を取り戻す旅路の終わりは、きっとすぐそこまで迫っている。


 ※


 家を出てから二時間。まだ俺たちは山の中を歩いていた。


 山を進むにつれて車道は狭くなって、アスファルトのひび割れも目立つようになった。ガードレールはツタが巻き付き、雑草が道の端を侵略する。

 やがて車で通れる道も終わって、気が付けば一人分の幅しかない道に。


 ――子どもの頃にやっていた、夏の冒険が再び始まった気がした。

 なのになぜだろう。胸の高鳴りが時折、ささくれた痛みになる瞬間があるのは。


 鼓動に合わせて手足を振る。宝島を探索するみたいに、景色を目に焼き付けながら、草木を掻き分ける。

 それを何度か繰り返し、しな垂れた竹をどけて進んだ瞬間、思わず声を漏らした。


「あ」


 目に映った光景を前に、指先が震える。


 ――パチッ、パチッと。失くした筈の欠片が、頭の中ではまるような音が木霊した。


「ヨルカズ、覚えてる? ここは――――」


「ヒコウキ山」


 それは道の横で盛り上がった小高いハゲ山。子供にとっては大きな山だった、ただの小さい丘。


 そのヒコウキ山は、俺が丘に付けた名前だった。


「よく紙飛行機を飛ばして、俺と実里でどこまで飛ばせるか、よく競ってた……」


 一つの記憶が目を覚ました。ある違和感と共に。


「でも、なんだ……? なにか、足りない」


 おかしい、そう感じるまでに時間はかからなかった。

 この記憶が正しければ、


 ――紙飛行機を飛ばした記憶はあるのに、から。


 競っていた。勝敗の数も数えてた。でも俺と実里は丘の上から動いていない。

 そして紙飛行機は見えないところまで飛んで行った記憶しかない。


 整合性の取れない不可解な映像が再生され続ける。記憶の不気味なスライドショーだ。

 当惑していると、実里は俺の手を引いて歩き始めた。


「行こう、ヨルカズ」


「――実里?」


 それ以上何も言わず、顔も見ないでスタスタと実里は進んでいく。


「……うん。分かった」


 彼女に任せて、忘れていた思い出を次へ進めた。



 雑草が伸び放題になった道の先には、乗り捨てられた古いトラクターがあった。


「さびさびカーだ……」


 雨ざらしで茶色に変色した車体は、昔よりも朽ち果てている。

 触れば今にも崩れてしまいそうな鉄くずの塊になっていた。


 かくれんぼの時、俺と実里で一緒に隠れてた。息を潜めて、運転席と助手席の下に体を入れたことを思い出す。


 そう、場所だ。



 更に進んだ先で、林の中をドーナツ型でくり抜いたようにポツンと、腐りかけの切り株が一つ残っていた。


「イスの木……」


 かごめかごめで使ったり、カブトムシ相撲させる台にして遊んでた。

 机にも、椅子にも、ステージにも、遊ぶたびに役割を与えた丸い切り株。雨水ですっかり表面はボロボロで、芯がスカスカな空洞になっている。


 手繰り寄せられる記憶は一つ、また一つとセピア色のフィルムに色彩を呼び覚まさせる。



 林の境界が曖昧になった道を出て、短い草の生やす開けた場所が顔を見せる。

 敷かれた緑の絨毯に、恐竜の足跡のような石が埋め込まれていた。


「ティラノの庭」


 動けなくなるまで走り回った箱庭の大草原。変な石しかそこにはないのに、飽きもせずいつまでも遊んでいられた遊び場だ。


 足を一歩踏み出すと、靴裏からの感触が十年前に俺を連れて行った。


 ――走り回る俺の前で揺れる背中があった。

 当時流行ってた女の子のアニメキャラが描かれたシャツだ。かけっこの時、俺はその背中に何度も触れた。


 その背中は実里じゃない。

 昔から実里は足が速かったし、俺より背も大きかった。それに服も泥だらけだったはず。


 奇妙な記憶のひずみが正されていく。思い出が戻っていくにつれて、なぜか恐怖が滲む。

 怖い、恐ろしい、理由は分からないけれど足が竦む。


「行こう、この先もうすぐ」


 暗闇の中でも歩くように、ぎゅっと握られた実里の手だけを頼りに足を出し続けた。

 目を伏して、世界から意識を遠ざけて、自問自答を繰り返す。その過程で、決定的な疑問を抱く。



 ――なんでこんな山奥で子供が遊んでいられたのか。それを考えた瞬間にモヤが僅かに晴れた。


「着いたよ」


 思考がクリアになったと同時。木々で遮られてた日の光が瞳を焼いてきた。


 一瞬眩んだ視界はゆっくりと、元の風景を塗り直す。


「っ……ここ、だ」


 山の奥には古い一軒家があった。家はすっかり荒れて廃屋と化して、森に飲まれている。

 瓦は落ちて、トタンはさびさびカーのようにボロボロ、戸は傾いている。苔や蔦が伸びて壁面は緑色。


 何度も訪れた家の変わり果てた姿を前に、動揺を隠せなかった。


「っぁ……」


 鼓動が速くなった。冒険の高鳴りじゃない。触れてはいけない、入ってはいけない所へ進んでいく怖さだ。


 踏み込むほど、足が重くなる。息苦しさが増していく。心臓が耳元まで上がってくる。

 ついには呼吸のやり方を忘れてしまいそうになって――――


「大丈夫、私がついてるから」


 手を包むように握り、崩れそうだった肩を実里は支えてくれた。


「ありがとう……連れてってくれ」


 肩を借りながら、覚束なくなった足を懸命に動かした。庭先を歩いてるだけなのに、綱の上にいるみたいだ。


 家の裏に回ると、山の終わりを目の当たりにした。


「ここ、って……」


 山の直線上には街の景色が広がっていた。


 そして家の土地を一段下った先は――――寂しい墓地があった。

 崖の上に作られた墓場は、街を眺めるように山の中でひっそりと佇んでいる。


 墓地の端には、崖下へ続く狭い道が続いていた。管理人がいるのか、墓は意外にどれも手入れが行き届いている。


 石の階段を慎重に降り、線香の漂う通路を渡って、墓地の奥へと参る。


 あるところまで進むと、実里は小さな墓の前につま先を向けた。


「ここだよ」


 冷ややかな汗の滴る首を恐る恐る、横に回す。

 欠けていたピースの最後が、そこにないことを祈りながら――



 墓石に掘られた名前を目にして、心臓が握り潰された。


「――――――つば、め」


 知っている。その名前を、俺は知っていた。知っていなければいけなかった。忘れてはいけない名前だった。


 俺たちの大切だった夏の象徴。あの夏に置いて来てしまった夏のすべて。


「ここは、つばめのお墓」


 虫食って空洞となっていた記憶のページに、飽和していた思い出が蘇る。


「私とカズのもう一人の幼馴染、金橋かなはしつばめの眠ってるお墓」

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