第32話

満潮が5時55分。海の満ち引きは毎日毎日繰り返し、その日も陸へ陸へと海の水が押し寄せた。地球からあまりにも離れた月の引力が引き起こす潮の満ち引き。単に夜空の主役を務めるだけの黄色い衛星ではなく、日々地球という星で暮らしている人々の生活にも深くかかわっている。


午前6時5分。あの日、外は灰色の厚い雲が覆っていたこともあり窓越しの眺めは深い青の広がりしか分からなかった。もしも雲一つない空模様であれば、そんな青さが明けていく色調の段階的な変化も垣間見えたのかもしれない。たしか下弦の月だったはずで、三日月ほどの姿であっただろう。


満潮から10分後。玲はこの世に産まれた。


特段変わったこともなく、出産が長引いたといったこともなく、一つの命が誕生したのが5年前。玲は、今日5歳の誕生日を迎えたのである。


誕生日というと、日付が変わった瞬間に「○○歳になりました」というケースをよく見るが、厳密に言えば産まれた時間を境に一つ年を重ねるという解釈が本来は正確である。もっとも、そんな厳密性を誰も求めていないからこそ日付を跨いだ瞬間に誕生日に声を上げる人がいるわけで、当の本人も出産時刻など知らないケースもあるだろう。


「玲、5歳になったんだね」


椅子に座って少し放心したような類であったが、その声に反応した。


「ま…真希?気づいたのか?」


類のその言葉に、真希が小さく頷いた。


「この瞬間、少なくともこの瞬間まで生きられて良かった。玲の誕生日だもん」

「そうだな。でも真希の人生は、まだまだ続いていくんだ。来年の誕生日も、再来年も。その次の年も…俺たちは、あの子たち2人の誕生日を祝っていくんだよ」


それにしても、玲の出産時刻に合わせて意識を取り戻した真希の母としての執念、いや愛の深さというべきか。意識を失ってもなお、真希の心にあるカレンダーに刻まれた子どもたちの誕生日が決して色あせることは無く、そしてそれは正確な時刻まで深く刻まれていたのだろう。


まるでアラームに目を覚ますかのように。


「あの子たちは…?」

「まだ寝ているはずだ。起こしに行くか?」

「ううん、いいわ。まだ寝かせてあげて。昨日は、きっと相当無理をさせちゃったと思うし…あの子たち優しいから、きっと心配していると思うわ。せめて今だけは、眠りについている間だけは、そんな負担から解放してあげたい…」


酸素マスク越しに、かすれたような声で答える真希の目から涙が流れていく。


「類…ごめんね…。わたし、こんなになっちゃって……。さっき、これからも子どもたちの誕生日を一緒に祝っていくって言ってくれたけど、多分もう無理なんだって…なんとなく分かるの」


真希が悟った死期。その言葉に類もつられて涙が出そうになったが、必死にこらえる。


「そんなことは無い。真希、君は生きなきゃならない人なんだ。真希がいて、この星井家という家族は初めて成り立つんだ。あの子たちの母親は真希しかいない。代わりは他にいない」


ぎゅっと真希の手を握りながら類は真希の言葉に答え、励まし続ける。


「類…わたし、ちゃんと母親として家族の一人でいられたのかしら……?」


とめどなく流れる真希の涙。これまでの自分が、家族を支えるだけでなく楽しいと思わせられる時間を作ってあげられたのか、特に子どもたちに今のうちに教えておくべきことは伝えられたのか…と。今日までの人生でやり残したことや、これから先にやりたかったことが果たせない未来まで見えてしまったような気がしてならず、やりきれない思いが涙という形で表現される。


一見後悔ばかりが浮かぶようにも見える思い出の海を泳ぐと、やがて数多ある他の思い出の数々が現れた。そこには玲や亜希が見せるあどけない笑顔、類との出会いや二人だけで過ごした時間。困難は確かにあった。それでも、振り返ると心から笑えた時間もたくさんあった。だからこその涙。


苦しさ辛さしか味わえなかった人生ならば早々にこの命を終わらせたいはずで、しかし真希の人生にはそれだけで結論付けが出来ることはなかった。


すると亜希が起きてきた。もともとこのぐらいの時間には、いつも目を覚まして真希と朝食などの準備をしていたので、体内時計が起床時間を認識しているのだろう。


「亜希、おはよう」

「うん、おはよう。お母さんは?」

「お母さんと、話してみるか?」

「話す…?」


その言葉に亜希は、すぐさま真希の傍へ走った。


「お母さん!気づいたの?」

「亜希…ごめんね。心配したでしょ…?」


亜希は安堵したのか、真希の胸元で大粒の涙を流し始める。


余程に辛い思いがあったはず。それでも玲がそばにいる手前、姉としての振る舞うべき姿勢は決して崩せなかった。それだけに、今だけは感情に身を委ねる亜希の姿があった。


程なくして玲が起き出した。


何か騒がしいような気もしたので、玲も何が起きたのかと歩いていくと目を覚ました母の姿が目に入る。


「お母さん!!」

「玲…起きたのね。お誕生日おめでとう…」

「ありがとう、5歳になったよ!!お母さんと一緒に迎えられて良かった…」


「お母さんと一緒に」という言葉が先ほどの類の「来年の誕生日も、再来年も。その次の年も…俺たちは、あの子たち2人の誕生日を祝っていく」という言葉とリンクした真希。


おそらく大抵の家族ならば、誕生日とはいえ深い意味はなく楽し気に祝うだけなのだろう。しかし次の誕生日を迎えられるのかさえ不透明な状況下においては、言い方を気にせずに言うならば呑気に祝うことなど非常に難しい。


「来年、わたしは祝えるのかな?」


---


時計の針が12時過ぎを指そうとした昼時。昨日言っていたように、類は一度百合の迎えに行くために病院から空港へ行くことにした。


「一旦おばあちゃんを迎えに行ってくる。昨日言ったように、何かあれば連絡してくれ」

「わかった」


病院から空港までは車で30分程度のところにあるため、万一のために時間に余裕をもって行く必要があった。


ただ、この街の大動脈ともいえる幹線道路は事故の影響で車線規制が掛かっており、日曜日ということも相まって渋滞の列を成していた。


「これ、間に合うのか?」


スマートフォンで渋滞の状況を確認したところ、数キロ程度の渋滞という情報との記載がある。早めに病院を出発したため予想よりも大幅に後ろ倒しでも間に合う可能性はあるものの、この渋滞に付き合うのは少々リスクがある。


そのため、類は回り道を選択することにした。通常通り幹線道路を使うよりも20分程度要してしまうものの、この道ならば予想できない事態を避けながら車を走らせることが出来る。やや急ぎ気味で車を飛ばした。


やがて空港前まで走らせたところで、スマートフォンが急に鳴り出した。類は、その音に強烈な胸騒ぎがした。そして、その予感通り発信先は亜希のスマートフォンであった。


「どうした!?」

「急変した…!すぐ戻れる?」

「もう空港に着くところだ。今からじゃ、時間的にもさすがに引き返せない」

「どうしよう…」

「医師や看護師の指示に従って。おばあちゃんを乗せてすぐに戻る」


焦燥と不安が蓄積する。

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