エピローグ
第46話
夏の幕開けを感じさせるセミの大合唱を耳にしながら、ひなたは窓の外を眺めた。グラウンドでは一年生達がサッカーの試合をしている。その頭上には入道雲がたゆたっていた。
夏休みまで残り四日となった。教室は浮き足だったムードに包まれている。
すでにクラスメイト数人から遊びに誘われていた。ちょうど予定のない日だったので了承すると、皆、喜んでくれた。彼女達はカヤとの関係性が薄いので、例の件はどうでもいいというスタンスを取っているらしい。とにかくひなたと遊びたい、仲良くなりたい。そう話してくれた。
結局、カヤとの関係は修復されなかった。未だに気持ちの整理がつけられていないのだろう。何度も声を掛けているが無視されている。
……いや、整理をつけた結果、無視しているのかもしれない。
どちらにしろ、積極的に声を掛けるのはやめにした。向こうからのアクションを気長に待つことにしたのだ。それがたぶん今の自分に取れる唯一の選択肢だと気づいたからだ。仮にこのまま関係がなくなったとしても、素直に受け入れようと考えている。片方が望んでいないのに、無理にくっつく必要はないからだ。
昔のままだったら、こういう割り切り方はできなかっただろう。
廻の影響を強く感じた。
「先生、残念だったよね」
「ほんと最悪。好きだったのに」
「ただの顔ファンでしょ」
「性格も好きだったよ」
「いや彼、既婚者だからね?」
女子達の会話が聞こえてくる。
天童は現在、大学時代の同期が経営している飲食店で馬車馬のごとく働いていると聞く。
廻は天童の過去を晒さなかった。今となってはどうでもいいことだからね、と本人は言っていたが、
「俺は教師を辞めるよ」
騒動後の天童の台詞に、何か感じ入るものがあったからではないかと、ひなたは密かに確信している。
あの騒動からすでに二週間が経過していた。時の流れは早いな、と思う。あっという間に感じられた。
腕を掴み、助けてくれたまみには感謝してもしきれない。彼女がいなければ、自分は間違いなく死んでいただろう。
「ああいう危ないことはもう二度としないでくださいね! まだ何も恩返しできてないんですから!」
目を三角にして怒られ、ひなたはしゅんとした。
まみは現在、例のいじめっ子達とは完全に距離を置いているという話だ。ひなたの「いじめをしていた彼らは悪いよ。でも、だからって、似たような方法で報復したら同レベルになっちゃう」という台詞が脳裏にこびりつき、仕返しする気力を完全に失ったという。今では極力、視界に入れないよう努力しているそうだ。
当然、許す気にはなれませんけどね――そう話していた。死にたいと思うほどの目に遭わされてきたのだ。当然だと思う。許せないことを責めるつもりは毛頭なかった。
ラットのメンバーとはすでに和解している。廻を救ったことで、「ひなた嬢」と呼ばれ、無駄に崇められるようになった。
ちなみに凛子とシャーロットの対決は、どうやら消化不良のまま終わったらしい。たまたま巡回していた警察官に声を掛けられ、蜘蛛の子を散らすように逃げたという。
「いずれあの女とは再戦して、ぎゃふんと言わせたいところよね。ま、やらずとも結果はわかってるけど。百パーセント私が勝つってね!」
そう語気を強めて言っていたのは凛子だ。
凛子は天童のストーカーを辞め、現在は女性アイドルの追っかけをしているという。弁護士経由でアイドルから接近禁止命令の書面を貰い、額縁に飾っているそうだ。相変わらずだな、とひなたは苦笑するしかなかった。
「次にやったら私が勝つに決まっているわ。そうでしょ、皆?」
そう言ったのはシャーロットだ。シャドウボクシングをしながらラットのメンバーに問いかけると、メンバーは「当然だ」「うちのリーダーが負けるわけねえ」と盛り上がった。そんな中、太志だけは深刻な顔で壁を見つめていた。
ひなたが話を振ると、太志は大真面目な顔で口を開いた。
「俺、忘れられねえんだよ。あの首でオトされる感覚がさ……」
「え、なんの話? あ、ごめん。やっぱり聞きたくないからいいや」
「あの空手美女の話だよ。なあ、連絡先教えてくれないか? 金なら出すぜ。また首を絞めてほしいんだ」
「……いや、普通に嫌なんだけど……」
ドン引きだった。
その場の全員が引き攣った表情をする。太志だけは不気味なニタニタ笑いを浮かべていた。
廻を取るか、凛子を取るか。太志は新たな恋の葛藤に頭を悩ませているらしい。シャーロットが「私には相談しないでよね。絶対に聞きたくないから」と釘を刺していた。
姉の七緒は未だに定職にはついていなかった。しかし外に出る頻度は上がっている。まだ母の目は気になるようだが、少しずつ前に進もうと努力していた。
熊のぬいぐるみはすでに返されている。袋に入れ、天井裏に隠していたみたいだ。
「ごめんね」
申し訳なさそうに言われ、ひなたは姉を許した。それから笑みを浮かべ、廻からのプレゼントをぎゅっと抱きしめた。
これまでのことを振り返りながら、廻の席に目を向ける。
空席だった。
あの騒動以来、廻は皆の前に姿を見せなくなった。連絡しても出てくれないので、先日シャーロットに頼み込み、住所を教えてもらい家に向かった。
二階建ての、変わったところのない普通の家だった。インターホンを鳴らすと、可愛らしい女性が出てきた。廻の姉かと思ったら母親で驚かされた。
「……わざわざ来てくれたのにごめんなさいね。廻ちゃん、部屋に引きこもってるのよ。食事だけは要求してくるから、大丈夫だとは思うんだけどね……」
とても辛そうな顔をしていた。在宅ワークをしていた父親も出てきて、娘のために来てくれてありがとね、と話してくれた。言い方はよくないかもしれないが、どちらも普通の大人に見えた。廻の親なのに普通というのが、不思議に思えて仕方なかった。
部屋の前まで行って説得しましょうか、と言ったら、「刺激したくないから」とやんわり断られた。廻には普段から苦労させられていることがうかがえる。廻からすると、両親が普通だということが、最大のストレスになっているに違いないとひなたは思った。
今日こそは両親に許可を得て、部屋の前まであげてもらおうか。そんなことを考えながら教室を出る。ふいに窓の外を見て、ひなたは唖然とした。廻が中庭のベンチに座っていたからだ。
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