第40話
七緒の手によって養生テープは剥がされ、自由の身となった。体を起こして姉を見つめる。
「どうしてここに……?」
「変な子から連絡が着て、今すぐ来てほしいって言われたのよ」
馬場凛子に呼び出されたようだ。
ひなたはハッとした。
「つ、通報してる?」
「いえ、あの変な子――馬場さんと合流して、何もわからないまま、ここに来たから、そんな余裕はなかったわ。とにかくひなたが大変だ、の一点張りで何も説明してくれなかったし。馬場さんも警察は呼んでいないみたいよ」
「……警察嫌い、か……」
初めて会った時、凛子が「警察は大大大っ嫌い」と言っていたことを思い出す。
「太志くんは?」
「太志……?」
「あの大柄な人」
「ああ。それなら馬場さんが私を囮にして、隙をついて倒したわ」
「え、倒した……? どういうこと?」
「言葉通りの意味よ。たぶん今は、その後始末をしている」
「こ、殺したの……?」
血の気が引いていく。
七緒は眉を顰めた。
「そんなわけないでしょ。外通路で気絶させたから室内に運んでるんだと思う」
「そ、そっか」
ほっと胸を撫で下ろす。いろいろな意味で脱力した。
「それより、いったいこれはどういうことなの? ひなた、なんで拘束されていたの?」
「いろいろと事情があるんだ」
「とりあえず警察を……」
七緒がスマホを操作しようとしたので、慌てて止めた。
「大事にしなくて大丈夫だから」
「もう十分大事になっているじゃないの。警察を呼ばなきゃダメよ」
泣きそうな顔で言われる。よく見ると、いつもの清楚な服装は乱れていた。慌てて来たことが見て取れる。
「……お姉ちゃん、外に出れたんだね……」
ひなたが微笑んで言うと、七緒は眉を吊り上げた。
「当然よ。ひなたが危険だっていうんだから、外に出ないわけにはいかないわ」
「ありがとう」
抱きしめて背中を撫でた。こういうスキンシップを取るのは小学生以来かもしれない。七緒も強く抱きしめ返して「不安にさせないでよ」と囁いた。
「感動シーンを邪魔して悪いんだけど」
凛子が空気を読まず中に入ってくる。しらっとした視線をこちらに向け、唇を曲げて言った。
「ここでもたもたしているのはまずいんじゃない? たぶんあんた、灰崎廻の計画を見ちゃったんでしょ。それで灰崎廻は、前島ひなたに計画を邪魔される前に実行に移そうとしている。違う?」
そうだ、廻を止めなくては……。
床のスマホを拾い上げて連絡を取ろうとする。しかし、チャットや通話、そのほかすべてで、反応が返ってこなかった。電源を切っているのかもしれない。
「前島ひなた、灰崎廻の居場所は?」
「……先生の家に行くって言ってたね」
凛子は舌打ちした。
「手遅れになっているかもしれないわね」
「それはわからないよ。三時間拘束してほしいって言ってたから、前準備に時間が掛かる計画かもしれない」
「……何の話をしているの……?」
七緒が不安そうな顔で尋ねてくる。
「何か、まずいことがあるなら、やっぱり警察に通報すべきよ。こんなの異常だわ」
確かにその通りだ。異常としか言いようがない。
「警察はやめておきなさい」
凛子が強い口調で言う。
「あんたの妹もまずいことになるわよ」
「え……」
七緒が表情を硬くする。苦渋の色を浮かべていた。
凛子がこちらに顔を向け、ウィンクしてきた。話を合わせろ、ということだろう。
「……そうだね。お姉ちゃん、悪いけど通報はやめてほしいんだ」
「で、でも……」
「わたしを信じて――とはもう言えないね。こんなことに巻き込んじゃっているわけだから。だけど、今回の件が片付いたら、わたしはまた、いつもの前島ひなたに戻るって約束するよ。だから今回は見逃してほしい」
凛子がリビングを出ていく。空気を読んでくれたのかもしれないし、湿っぽい空気にうんざりしたのかもしれない。どちらにしろ、ありがたかった。
「まだ何かするつもりなの?」
「友達が大変なことをしようとしているんだ。それを止めるつもり」
「それ、ひなたじゃなくていいでしょ……」
「わたしじゃないとダメなんだよ。あの子にはもう、わたししかいないから」
七緒がまた涙を浮かべる。子供のように首を横に振った。
「ダメよ。もうこれ以上、私を心配させないで。お願いだから不安にさせないで頂戴」
「ごめん、お姉ちゃん」
「……全部、私のせいよね」
え、と固まってしまう。
七緒は顔を歪めて言った。
「ひなた、あなたは昔から誰よりも正しいことをしてきた。いじめられている子を見たら、その子を庇って自分がいじめられた。足の不自由なおばあさんを見かけたら、その人の手を引いて、横断歩道を渡ったりした」
「お姉ちゃんもそれくらいするでしょ」
「しないわ」
俯いて自嘲する。
「私は人目のあるところでしかしないの。褒められるタイミングでしか善行をしないのよ。いじめられている子を見て、気づかないふりをしたこともある。私は空っぽで弱い人間なの。人の目を気にして、母の目を気にして、妹の目を気にして……なんとか自分を繕って、認められようと必死にもがいてきた。それが私、前島七緒って人間なの」
七緒は顔を上げた。酷く疲れた顔をしている。
「ずっとひなたが羨ましかったわ。お母さんの期待に応えようとせず、常に自分の道をひた走っているひなたのことが……。とても眩しくて、とても羨ましくて――とても憎らしかった」
ひなたは呼吸を止めた。これまで見たことのない姉の必死な形相に唖然とする。
「私が会社で失敗して地元に戻ってきた時、ひなたに見下されるんじゃないかってずっと怖かった。だから、ひなたに酷いことをしていたのよ」
「……された覚えないけど……」
「そのチョーカーを常につけるように言った。お母さんの期待に応えるように言った。交友関係に口を出した。……そうすることで、ひなたの上に立とうとしていたの。実際は、立ててなかったんだけどね……。ひなたは大人だから、私の話なんて聞き流せてたと思う。哀れに思ってたと思う。でも、それでもひなたを傷つけようとした事実は消えない。私のしたとは姉失格のよ。いいえ、人間失格だわ」
「そんなことない」
強い口調で言う。
七緒は苦笑した。
「気を遣わなくていいのよ。……私、ほんとダメね。ここまで自分がダメな奴だなんて思ってなかった。今回のことも、私がしつこく廻って子とは距離を置きなさいと言ったせいで、事態が悪くなっている気がするもの。私は結局、何をやらせてもダメな人間なのよ。お母さんに認められないのも当然ね。だから私は」
お姉ちゃん、と声を張る。七緒は我に返り、こちらを見た。
「お姉ちゃんは勘違いしてるよ」
「勘違い……?」
「わたしはこのチョーカーをもらえて嬉しかった。それと、昔の私みたいに頑張ってほしい、って言葉も凄く嬉しかったんだ。わかってると思うけど、わたしは他の家族からはちっとも期待されてなかったからね。だから、お姉ちゃんに認めらているようで、とても晴れやかな気持ちになった。お姉ちゃんは自分を下だと思ってるみたいだけど、それは全然違う。見当外れもいいところだよ。お姉ちゃんに救われてきた人達はいっぱいいる。そうじゃなきゃ、評判にならないでしょ」
ひなたは満面の笑みで続けた。
「わたしからしたら、ずっとお姉ちゃんは雲の上の存在だった。何とか追いつこうと頑張ってみたけど、まだ背中すら見えていない状態だよ。全然追いつける気がしない。でもいつか、お姉ちゃんみたいな女性になりたいと思ってる」
「ひなた……」
「今日はありがとね。それと、ごめんなさい。わたしは廻を助けに行きます」
七緒は顔を伏せて嗚咽を漏らした。
肩を摩りながら、ごめんね、と繰り返す。
長年のわだかまりが少しだけ解けた気がした。
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