第36話


 凛子が公園を出ていった数分後、シャーロットが茶色い袋を持って戻ってきた。


「よかった。まだ帰ってなかったのね」


 微笑みを浮かべながら声を掛けてくる。

 一人残っていたのは、考えをまとめる時間を必要としていたからだ。


 シャーロットは袋から小さなクロワッサンを掴み取ると、こちらに差し出してきた。

 ありがとうございます、と受け取って口に入れる。バターの香りが口いっぱいに広がった。とても美味しく感じられる。


「廻のことなんだけど」


 シャーロットが真剣な目をして言った。


「そろそろ距離を置いた方がいいと思うの。それがひなたのためになると思うから」

「……またですか……」

「え、また?」

「学校の子達にも言われました」


 ひなたは嘆息して告げた。


「悪いですけど、廻から離れるつもりはないです」

「……そうよね……」


 遠い目をして口を動かす。


「廻はひなたを買っているわ。どうしてだかわからなかったけど、会ってみてわかった。ひなた、あなたは廻を怖がっていない。そうでしょ?」

「それはそうですけど……シャーロットさん達も同じですよね」


 シャーロットは首を横に振った。


「皆、表には出してないけど廻のことを恐れているわ。畏敬の念っていうのかな。廻の機嫌を損ねないように皆必死なの。かくいう私も廻を恐れているわ。廻から見捨てられたくないと強く思っている。見捨てられたら生きていけないとさえ思っているの。それは、とても対等な立場とは言えないでしょ? 太志もそうね。以前彼は別の不良グループのリーダーだったけど、廻と揉めて散々な目にあわされた。最終的には廻に屈服して、惚れるようになったのよ」

「……廻はそんなに怖い子じゃないと思いますけどね……」


 シャーロットは微笑んだ。


「長い間一緒にいてそう思えることが凄いのよ。最後に過ごす相手をひなたに選んだのも納得だわ」

「最後……?」


 聞き捨てならない台詞に反応する。

 シャーロットは表情を硬くして続けた。


「廻のことが知りたいなら私についてきて。ひなたには知らせておくべきだと思うから」


 ▼


 公園を離れて住宅街の中を歩く。やがて二階建てのアパートに辿り着いた。塗装が剥がれていて、お世辞にも立派な建物とは言えなかった。階段を上り通路の真ん中の部屋の前で立ち止まる。


「ここは以前ラットと揉めた大人に借りさせた部屋よ。廻が個人で使っているの」


 シャーロットはカギを取り出しながら言った。


「もしものことがあったら部屋の中のまずいものを処理してほしいと頼まれてるの」

「中に何があるんですか?」


 見てもらえればわかる。そう口にしてから扉を解錠した。靴を脱いで中に入り、短い廊下を進んで扉を開ける。ひなたはリビングの中を覗き込んで、ぎょっとした。


 三つの大きなホワイトボードがあり、そこには天童の写真、天童の妻の写真、女子生徒の写真、カヤの写真が貼られていた。相関図が描かれている。


「こ、これは……」


 シャーロットは見慣れているのか、冷めた顔をしていた。


「廻は天童に復讐しようとしているの。唯一の友達を傷つけられたから」

「やっぱり……友達はいたんですね……」

「この子がそうよ」


 写真を指差す

 大人しそうな女子高生、というのが第一印象だった。セミロングの髪に黄色いカチューシャをつけている。顔にはそばかすがあった。


「うちの高校の制服を着てますね……」

「廻が中二の時に知り合ったみたいよ。二つ上の先輩みたい」


 そういうことだったのか……。

 中学時代に飛び降りたという廻の友達は高校生だったのだ。想像していた構図がガラリと変わった。


「廻はこの子が天童に弄ばれて捨てられたと考えているみたいね。でも、確証はない」

「そうなんですか?」

「確証があれば、とっくに復讐しているでしょ」


 それはそうだ。


「ただ、廻は痺れを切らしているみたいよ。ここのところ身辺の整理を始めているわ。たぶん、何かをしようとしている。その何かは、これまでとは根本的に違う、破滅的なものになるような気がするの」


 ひなたはカヤの写真を見つめた。


「この子、友達なんですけど……。どうして貼られているんでしょうか……」

「計画に必要なピースか、次の天童のターゲットだと思っているのか。ボードを見ただけでは判断がつかないわね」


 ふう、とひなたは息をついた。

 覚悟を決め、顔を上げる。


「……わたし、廻を止めます。シャーロットさんも協力してください」

「ごめんなさい。悪いけど、それはできないわ」

「どうしてですか?」

「さっきも言ったけど、怖いのよ。ここにひなたを連れてきている時点で、信用を失うんじゃないかって怖くて仕方ないの。どうしようもないくらいにね。これ以上のことはできないわ」

「このままだと、廻がいなくなっちゃうかもしれないんですよ」

「わかってるわ」


 シャーロットは自分の体を抱いた。


「それが嫌だから、ひなたをここに連れてきたのよ。でも、これ以上は無理よ。私にこれ以上のことはできない。パパからの束縛から救い出してもらってから、私は廻に絶対服従を誓った。廻は私にとって生きる希望なの。今、私はその希望を裏切ってしまっている。これ以上の裏切りはできない。ごめんなさい」


 顔を青くして言う。ここに連れてくるだけでも相当の覚悟を要したのだろう。

 これ以上の無理はさせられないか。

 ひなたは拳を握った。


「わかりました。もう言いません」


 シャーロットを真っすぐ見つめながら告げる。


「廻のことは、わたしに任せておいてください」 



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