第3話
齢二十を迎えて、ぼくは毛塚の屋敷を出た。
父さんは学費を出してくれなかったけど、ぼくには十分な貯蓄があった。四年目まで、自力で大学に行ける公算があった。しかし、大学デビューがぼくの計画を狂わせたのだ。お酒に服にサークル代。学業と関係ないところでお金を擦り、気が付けば口座残高は家を出た時の半分以下。さりとて生活水準も下げられず、自力で稼いだ経験もない。
有り体に言えば、ぼくは世間知らずのボンボンだった。
バイト代だけでは満足できず、結局、霊媒師としての才に縋ったのだ。
◆◇◆
「なあに、髪占いって?」
やや呂律の怪しい調子で、筒状の図面ケースを背負った女性が話し掛けてきた。時間帯や身なりから察するに、この辺りに通う学生だろう。襟足全体を染めるピンクレッドのインナーカラーが目に鮮やかだ。
大宮駅の周辺では、日の入り辺りから露店をやっていると、こういう酔っ払いの若者が面白がって絡んでくれる。ぼくは緊張を押し殺して説明を始めた。
「ええと。その髪を……髪を切ってですね。ぼくの口に含むわけです」
「え、なに。どういうこと?」
「ですから、貴女の髪を食むんです。そうすれば、貴女の全てが分かります」
途端に女性は、呆れたような笑みを浮かべた。
こういう反応は、既に何百回と見ている。
「いわゆる髪フェチってやつ? 髪を食べるための方便でしょ、違う?」
「方便などではありません。そういう能力なのです。第一ぼくは、インナーカラーは好みじゃない。オーガニックな感じがしないから」
「やっぱり、フェチでしょ」
女性は人目もはばからずケラケラ笑った。
そしてひとしきり笑った後、彼女はおもむろに自分の髪を一本引き抜いて見せた。
「面白いから付き合ってあげるよ。ほら、何か占って見せて。外れたら『変質者だ』って交番に駆け込むかも知れないけど」
「望むところだ、と言わせてもらいましょう」
髪の毛とお代を受け取ると、ぼくはブリーフケースから書類を取り出した。
女性が怪訝な表情をしたので、まずそいつの説明から掛かることに決めた。
「これは秘密保持誓約書です。占う相手には必ず手渡しています」
「え、毎度これ渡してるわけ? なんで?」
「逆に訊きたいのですが、なぜ世の占い師たちは秘密保持契約を結ばないのでしょうか。今は情報保護がどうのと五月蠅い時代です。それなのに、なぜ然るべき対応を行なわないのか? 答えは明白です。彼らはみな、知りもしないことを口にしているからです。当てずっぽうを言うから責任を負う意識もない。それが行動に現れている」
「……きみ、友達少ないでしょ?」
あまり残酷な真実を口にしないでほしい。泣き喚くぞ。
ぼくは質問には答えず、受け取った髪のお清めを始めた。ラーメンの粉落としの要領で、サッと水に通すのがポイントだ。こうすると、香味が落ちなくて良い。
さて、まずは観察から入る。
「ふむ、ノンシリコンシャンプーですか。良いものを使っていますね。ラベンダーの匂いは好みですよ」
「うわ、当たってる――って、シャンプーソムリエじゃないんだからさ。はやく占いをやってよ、占いを」
「結構ウケるんですがね、これ。残念です。では、お望み通り本題に入りましょうか」
いざ実食、である。
ぽいっと髪を口に放り込むと、女性はゲッと小さな悲鳴を上げた。ぼくは瞼を閉じて、舌先に乗っかったか細い気配に集中する。周囲から音や匂いが消え失せて、ぼくの意識は深い闇へと落ちていく。
最初に見えるのは、いつも同じイメージだ。暗がりの中で七色の光を放つ、巨大な球状の浮遊体。ぼくら霊媒師は〈
思うに、これは人類の意識の集積だ。食べた毛髪は、そこへ至るアクセスキーだ。
気が付くと、ぼくは女性の意識に同期している。
彼女が求めているもの、聞きたがっている言葉がすぐに分かった。
口の中で髪の舌触りが消えて、ぼくの意識は現実へと引き戻される。
ぼくは、自分が毛塚クオンであることを思い出す。
「おーい、もしもし? 大丈夫?」
そんなに私の髪はマズいか、などと女性が間の抜けたことを言うので、ぼくは思わず吹き出してしまった。不味そうな髪は念入りに洗うから、心配など要らないのに。
「問題ありません。それより視えましたよ、
名前を言い当てられて、その女性は――葛城フジカはまた小さく声を上げる。
これが、生きた人間の憑依をやった時の醍醐味だ。ぼくは調子づいて、自分が目にしたことを話し始める。
「まず、貴女が探している人物についてお話しましょう。その人は二十一歳、男性で、髪は茶色のツイストパーマ。身長は貴女より二回りくらい大きくて、肩幅もかなりあるようだけど……かなりのなで肩のようですね。名前は
「驚いた。
ここで遮られても面白くない。ぼくは構わず、続きを口にする。
「芳賀さんが失踪したのは、今から二日前のことだ。学校にも、寮にも姿を見せず、実家にも戻っていない。だから貴女は、彼がよく出歩いていたこの街を探すことにした」
「そう、その通り」
「しかし結果は、空振りだった。そのまま帰るのが癪だった貴女は、二ブロック先の居酒屋でコークハイを一杯飲み、ここへとやって来た。それは偶然じゃない。貴女はもともと、ぼくの評判を耳にしていた。占いに頼るなんて馬鹿馬鹿しいと思ったから、酔っ払いのフリをしていただけだ。そうですね?」
ぼくが訊ねると、葛城はお手上げのジェスチャーをして見せた。
「一昨日、友達が言ってたんだ。『若干アレだけど、優秀な占い師を見つけた』って。単なる不審者だったらシメてやろうと思ってたけど、どうやら意外とやるみたい」
「ああ、あの子ですか。覚えていますよ。実に美味しそうなおさげをしていた」
「……『かなりアレだけど優秀』に修正した方が良さそうかな。まあ、それは良いや。話を戻そう。次に私が何を頼むか、もう分かるでしょ?」
「芳賀さんの居場所、ですね」
葛城はぼくの問いに頷き、リュックからフリーザーパックを取り出した。中には、使い古されたヘアブラシが一つ納められている。曰くそれは、寮長に頼み込んで彼の私室から回収したものだということだった。なんと言って説明したのか気になるところだが、生憎とその辺りの記憶は視られなかった。
知らないことは口にしない。口にすべきではない。
ぼくは会話もそこそこに、ブラシに付いた髪の毛の観察を始めた。
「デッキブラシみたいな髪ですね。髪というよりヒゲのようだ…………ヒゲじゃないですよね?」
「ヒゲにブラシを掛けるとは思えない。ていうか、ヒゲだったらマズいの?」
「大いにマズいですね。髪以外では、意識にアクセスすることができない」
これを聞いて、葛城は怪訝な表情を浮かべた。大方、妙な拘りのせいだとでも思っていたのだろう。やむなくぼくは、誤解を解くことから始める。
「数ある体毛の中で、なぜ毛髪だけが特権的に成長を続けているのか。葛城さんはその理由を考えたことがありますか?」
「さあ、脳を刺激から守る為じゃないの。熱とか、衝撃とかからさ」
「まあ、そういった副次的な効果もあります。ですが、本来の役割はむしろ逆です。髪の毛は刺激を拾う為の器官。即ち、感覚器として備わったものです。もっとも、多くの人間はその能力を退化させてしまったようですが」
「トンデモ科学の世界だね。きみはつまり、私たちの頭にはゴキブリの触角が植わっているようなもんだと言いたいわけ?」
ゴキブリ怪人のように言われるのは癪だ。猫のヒゲとか、他の喩えがあったろうに。ぼくは何となく、このひとの人となりが分かってきた気がした。
彼女相手には、ツッコミを入れるだけ無駄らしい。
「まあ、触角というのは的を射た表現ですね。ぼくたちの界隈では、髪はまさに
「インディアン? 口に手を当ててアワワワーってやる、あの?」
イメージが貧しすぎる。
「……彼らは目に見えぬ罠を見破り、待ち受ける敵の気配を感じ取ることができた。ところが、軍隊に徴兵されると、途端に
「そんな与太話、普段なら笑って聞き流すところだけど、さっきの占いを見た後だとそうもいかないか。正直、ちょっぴり信じそうになってる」
「まあ、信じるか信じないかは貴女次第です。なんにせよ、ぼくには髪の毛が必要だ」
言いながらぼくは、フリーザーパックに手を突っ込んだ。ブラシに付いた体毛からは、ほんのりと意識の残滓が感じられた。どうやら、髪の毛で間違いないらしい。しかし、抜け落ちて何日も経過した髪というのは、ぼくといえど抵抗がある。
「好き嫌いは良くない。お母さんに教わらなかった?」
「子に髪を食わせながら、そんなことを抜かす母親がいますかね?」
父親ならいますけどね、という台詞はギリギリで飲み込むことにした。
ぼくは、いつもより念入りに洗ってから芳賀の毛髪を口に含んだ。
「ここからは別料金で頼みますよ」
再び瞑目すると、ぼくはまた虹天球のもとへと引き戻される。
芳賀ヒロキの意識に接続したとき、はじめに感じたのは寒気だった。
まだ八月も半ばだというのに、芳賀の身体は凍えたように震えている。ぼくは何だか嫌な予感がして、もっと古い記憶に遡ろうとしたが、芳賀の意識がそれを許さなかった。記憶がぼくを掴んで離さない。この感覚をぼくは知っていた。
「『助けてくれ』」
芳賀のかすれた声が、ぼくの口を介して発せられる。
ここは人里離れた山の中だ。助けは来ない。助けは来ないんだ。
「『やめろ、頼む』」
ぼくは懇願せずにはいられない。眼前には、振り上げられた血濡れのナイフ。
鼓動に合わせて、身体から血液が漏れ出ていく。もうやめてくれ。ぼくは泣きそうになる。
胸の肉がナイフを柄の手前まで飲み込んだところで、頬を衝撃が打った。その感覚は、先に負った刺し傷よりも強烈で、生々しくて。
再びぼくは、自分が大宮にいることを思い出す。毛塚クオンであることを思い出す。
「ちょっと、大丈夫? ねえ」
葛城が覗き込んでくる。ぼくはいつの間にか、地面に転がっていた。
どうやら、頬を張って引き戻してくれたのは彼女らしい。
ぼくは努めて冷静に、霊媒の結果を伝えた。
「――この人、もう亡くなっています」
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