27

 すりガラス越しにゆらゆら揺れる影は、まるで人間じゃない何かが、そこで無邪気に遊んでいるみたいに見えた。

「はーこなの? 本当に?」

 木田ちゃんが思い切った様子で、廊下の外に向かって声をかけた。いつもは落ち着いていて、大人っぽく見えるのに、今にも泣きそうなくらい声が震えている。

 外の笑い声がぴたりと止まった。

「……本当にはーこだよぉ。大久保華子。そうじゃなかったら何なのぉ? ふっ、ふふ」

 こらえきれないようなくすくす笑いのあと、きゃーっという高い笑い声がして、引き戸がガタガタと揺れた。

「でもあんた、私の知ってるはーこと全然違うよ」

 木田ちゃんが続ける。はーこはまた笑った。すりガラス越しにも、大きな口を開けているのがわかった。

「ねぇーっ、木田ちゃんの知ってるはーこって何ぃ? 木田ちゃんはぁ、はーこちゃんのことを何でも知ってるのぉ?」

「それは……」木田ちゃんが口をつぐむ。でも思い切ったように続けた。

「……それは意地悪だよ。いくら友達でも、何でもは無理。でも友達だからわかることもある。あなた、はーこじゃないよ」

「はーこだよぉ」

「違うよ。はーこじゃない」

 木田ちゃんは自分を励ますように拳をぎゅっと握り、合唱のときみたいに足を肩幅に開いてまっすぐに立つ。そうすると、声に芯が通った。

「はーこじゃないし、あさみさんでもない」

 そう言い放った次の瞬間、引き戸がバン! と叩かれた。

「いいから開けてよっ!」

 はーこが怒鳴る声を、わたしは初めて聞いた。

「友達でしょお!? 開けてよっ!」 

 木田ちゃんが後ずさる。すりガラスの向こうから、掌がふたつ、べったりと押しつけられている。ぼんやりとはーこの顔が見える。さっきよりも近づいたその顔に、満面の笑みが浮かんでいる。

「開けて中に入れるって、大切なことだよぉ。男の子から告白されて、いいよって答えるのと同じくらい。わかる?」

 うって変わって、猫なで声が聞こえてきた。木田ちゃんがちらりと後ろを見た。はーこは喋り続けている。

「こういうドアを開けてさぁ、入ってもいいよって示すのはぁ、それだけ仲よしだってことなんだよねぇ。あたしは開けたからねぇ」

 そのとき、はーこの声にチャイムが被さった。 

「あぁ、授業出なきゃだねぇ……」

 まるで何事もなかったみたいに、はーこがそう言った。「じゃあ、あたし行くねぇ。二人も急ご」

 すりガラスの前から人影が消え、上履きの足音がぱたぱたと遠ざかっていく。

 わたしと木田ちゃんは顔を見合わせ、ほとんど同時に大きなため息をついた。

「……ベランダから逃げられるの、忘れてたね」

 木田ちゃんが少し笑いながら言った。わたしも少し笑った。そんな簡単なことを思いつかないくらい、緊張していたのだと思う。喉がカラカラに渇いていた。


 二限の世界史の先生は、いつもちょっと遅れてくる。おかげでわたしたちは授業に間に合ったけれど、もう勉強するどころじゃなかった。先生の話が、全然頭に入ってこない。

(はーこ、本当に別人みたい……何かに取り憑かれてるみたい)

 あさみさんと重なった。わたしたちが今まであさみさんにお願いして、そうやってきたみたいに、今のはーこには誰かが乗り移っている――そんな気がして仕方がない。

 でも、あれは知らない人だ、と思う。少なくともあさみさんは、あんな感じの人じゃなかった。

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