07

「こわい」

 そう言って差し出された右手が、まっすぐ人差し指を伸ばしたまま空中でぴたりと止まった。

 その直後、幸二がばっと顔を上げた。

「うわっ、これか!」

 と声をあげる。そのとき、ちょうど彼を見下ろしていた黒木と、幸二の視線とがばっちりかち合った。

「こ、幸二さん大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫かも! ええと、今のうち、今のうちにあれ、あれだあれ」

 幸二は自分のポケットからスマートフォンを取り出し、猛然とタップし始める。

「幸二さん、ほんとに大丈夫かな……」

 驚いたらしくソファに座ったまま固まっているまりあに声をかけると、「た、たぶん」と微妙な返事である。

「たぶん?」

「だってすごい急に戻ってきたじゃないですか……名前呼んだのがそんなに役に立ったかなぁ? もっとかかるかなと思ったんですけど」

 嬉しいよりも先に困惑する二人の前で、幸二はぶつぶつ言いながら真剣な面持ちでスマートフォンを眺め、スクロールしている。

「なんだっけ住所……地下鉄境町駅……あれって何日だ?」

 かと思えばぱっと顔を上げて黒木たちの方を見る。

「二日前か、報道されてるよな。ニュース……これか! これですよこれ! 僕についてきた人、これです!」

 そう言いながらぱっと立ち上がり、スマートフォンの画面を突きつけてきた。まりあが「読み上げてもらっていいですか?」と、早くも落ち着いてきたらしい声音で言った。

「――市■■区、二十代女性死亡。投身自殺か……これ、まさにさっき見てきたところですね。境町駅前の、ブルーシート張ってたところ」

 ニュースサイトに挙がっていた写真を見て、黒木は言った。幸二は何度もうなずく。

「そう! これ! ちょ、ちょっと前進……てか臭っ!」

 幸二はようやく、自分が嘔吐したときのままの恰好だと気づいたらしい。急に正気に戻ったので、色々と処理が追いついていないところがある。

「幸二さん、着替えありますけど……」

「ありがとうございます! お借りします! ついでに塩ないですか!?」

 黒木はパントリーから持ち出した塩のストックと着替えを幸二に渡し、ついでに浴室に案内した。志朗には事後承諾になるが、まぁ許してくれるだろう。

 幸二が脱衣所の向こうに姿を消すと、まりあはほーっと大きなため息をついた。

「急に戻ってきましたね……よかったぁ」

「そうだね……」

 あんなハイテンションでもかまわないから、ずっと「幸二」のままでいてくれるといいのだが――そんなことを考えつつ、黒木はさっきから、苦虫を噛み潰したような表情をしている。

 さっきのあれは何だったのだろう? あとで幸二に聞いてみるか? どういう意味だったのか、彼に聞いてわかるだろうか? もしかしたら自分が無駄に気にしているだけで、本当はなんでもないことかもしれない。あれは自分には関係のないことだったのかもしれない。かもしれないが、気になってしまう。それとも――やっぱり知らない方がいいことなのだろうか。

 さっき、幸二が――幸二にとり憑いていたものが「こわい」と言いながら右手で指をさした。それがまっすぐ自分を指していたかのように、黒木には思えたのだ。

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