幕間 二日前

01

「マスター、あのお客さん何なんですかね」

 アルバイトの女子大生が、カウンターの内側に戻ってくるなり、彼にそう声をかけてきた。珍しく顔をしかめている。

「どうしたの?」

「六卓の女性の方です。お一人です」

 一番奥の、四人掛けのテーブルだ。

 彼は自らが仕切る喫茶店の店内を、カウンターの内側から目視で確認する。若い女性が一人、ソファ席ではなく椅子に座っている。テーブルの上にはグラスが二つ載っている。

 六卓の伝票を確認すると、「アイスコーヒー1、ホット紅茶1」のオーダーが入っている。別にお一人様がドリンクを二人分頼んだってかまわないのだが、気になることは確かだ。

「あの人、さっきから一人で喋ってるんですけど……」

 女子大生はいかにも「気味が悪い」という顔をして、告げ口をするかのように言った。

「こら、お客さんがいるときにそんな顔しない」

「でも、周りのお客さんも気にしてますし……」

 女子大生は唇を尖らせる。彼も少し困る。このアルバイト、普段ならこんなことでぐずぐず言うような子ではないのだが、今日は特別だ。あんなことがあればナーバスにもなるだろう、と彼は考える。何しろ、あれからまだ一時間も経っていないのだ。

 先程、この店のごく近くで飛び降り自殺があった。ビルの外階段から歩道に向かって身を投げた女性がいるという。すぐに警察が来て周囲を封鎖したが、不穏なざわめきはまだ残っている。

 ちょうど六卓の近くの席が空いた。

「僕が片付けてくるから、君はレジに行って」

 彼はアルバイトに指示し、ふきんとトレイを持って向かう。片付けはもちろんするが、六卓の様子も見たかった。周囲に迷惑をかけるようなら放置できない。

 トレイの上にグラスを回収し(半分方残っていた)、テーブルを拭く。

 こっそり観察した六卓の客は、彼の目にはごく普通の女性に見えた。清潔感があり、調和のとれた服装で、メイクも派手ではないがきちんとしている。二十代後半だろうか、タヌキ顔の美人だ。好印象を抱かれることが多そうな容姿をしている。

 だが気味が悪い、とも思った。

 彼女は空っぽのソファ席に向かって語りかけ、かと思ったら黙る。まるで本当にそこに誰かが座っていて、会話をしているかのようだ。

 厭だな、と彼は思った。「いかにも変わり者」という感じの客なら、むしろ安心したかもしれない。でも、見た限り彼女はそうではない。

(参ったなぁ。本当に幽霊が座ってるような気がしてくるじゃない)

 そんな気がしてきてしまう。

「ごめん、無理。急に頼み事とか言われても無理むり」

 女性はあまり楽しそうではない。それどころか相当イラついているように見える。彼は一旦トレイを持って、カウンターの内側に引き上げようとした。そのとき、

「無理むりむりむり! 大体鷹島さん、私にこれ以上頼み事とかできる筋合い?」

 女性が大きな声を出した。彼は危うく、回収したグラスをすべて落とすところだった。

「私、鷹島さんのせいで会社辞めることになったんだけど?」女性はマシンガンのように喋りだした。「わかってる? 鷹島さんが仕事中も休み時間もベタベタくっついてきて仕事は進まないし自分でも仕事しないし、総務で勝手に私の住所見て休日に訪ねて来るし、ノイローゼになりかけたんだけど? そういうの全部やめろって課長挟んで話し合いまでしたのに、鷹島さん全っ然話通じなくって私ほんっとうに困ったんだけど? ――とにかく無理なものは無理! 失礼します!」

 そう言うと彼女は一気にコーヒーをあおり、伝票を持って立ち上がった。女子大生バイトが固まっている。主婦パートが代わりにレジに入って会計を済ませ、女性は勢いよく店を出て行った。

(何だったんだ……)

 呆気にとられながらカウンターの内側に戻った彼に、「変でしたよね……?」と女子大生が話しかけてきた。

「まぁ、うん、びっくりしたね……」

「やだな、この店にお化けが残ってたりしたらどうしよう」

 女子大生は本気で怖がっているようだ。普段は仕事のできる子だけに、辞められると痛い。

「大丈夫。もしおかしなことが続いたら、拝み屋さんを呼ぶから」

「マスター、そんな人知ってるんですかぁ?」

「うん」

 時々お店にも来てるよ、と言いかけて止めた。シロさんは、自分の職業を明かしたがる人ではない。


 この二日後、店の近くで嘔吐した加賀美幸二を介抱し、掃除も引き受けることになるマスターだが、そんなことになるとは、今は知る由もない。

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