05
私は思わず一歩後ずさった。
あさみさんが半歩前に出ると、窓からのわずかな光がうっすらと顔を照らし、やっぱりその顔自体はえりかの母親だということを、厭でも再認識させられた。
さっき感じた怒りと、それと一緒に湧いてきた勇気みたいなものは、一瞬でさめてしまった。足元からぞわぞわと寒気が上ってくる。夢の中でクローゼットの中に隠れていたときと同じくらいの恐怖が、私をその場で金縛りにした。
「大丈夫」
あさみさんが、ゆらゆらと左右に揺れながらこちらに近づいてくる。どこか人間離れした動きで、私は目を反らしたくなったけれどできなかった。硬直している私の肩を、彼女の手が、励ますように叩いた。
「怖いことなんか何もないわよ」
「そうだよ。実咲だって今、悪いことばっかりなんでしょ。私に話してくれたじゃん」
隣に立っているえりかが、憐れむような目で私を見ている。
「実咲だってさ、いやなことをさぁ、誰かが代わりにやってくれたらいいのにって思うこと、あるでしょ」
何言ってるの、何の話、と言いたかったけれど、声が出なかった。えりかは私を見つめながら言葉を続けた。
「わたしはあったよ。それでこうなったんでしょ」
もしも緊張がピークに達したせいか、ふっと一瞬気が遠くなった。私は慌てて気を引き締めた。この状況がずっと続いたらどうなるだろう? いつまでこうしていたらいいんだろうか?
そのとき、行きがけにとっさに持ってきたスマートフォンが、ぶぅんとポケットの中で振動した。
それで硬直が溶けた。私はポケットに手を突っ込み、スマートフォンを取り出した。
画面を見ると『シロさん』とある。
出るしかない。
そう思った。私は迷わず応答アイコンをタップした。
『もしもし?』
声が聞こえた。やっぱりシロさんの声だ。
『電話を切らないで、そのまま回れ右してください』
「……はい」
足が動いた。私はシロさんに言われたとおり回れ右をして、
「しました」
と言った。
電話の向こうから『そのまま歩いて、部屋を出て行ってください』と声が続く。
「はい」
私は言われたとおりに足を踏み出した。
えりかが、驚いたような顔をしてこちらを見ている。でも、何も言わない。何も言えなくなって、半分笑顔で半分能面みたいな顔のまま、私が歩くところをじっと見つめている。
「またいらっしゃい」
後ろから声がした。あさみさんだ。
「またいつか来ることになるわよ。いくらでもいらっしゃい」
ふふ、ふふ、と笑い声がする。どんな表情で笑っているのか、私にはわからない。
『部屋を出ました?』
電話越しにシロさんが尋ねてくる。私は「出ました」と答える。
『じゃあ、階段を降りて』
「はい」
短く答えて、一歩ずつ段を踏みしめた。足の下でギシッという音がして、少しだけ床がへこんだ。あと三段。あと二段。一段。おしまい。
『階段降りました?』
シロさんはそう言って、一度盛大にあくびをした。夜中だからか、眠そうだ。
「はい……」
『じゃあ、そのまま外に出て』
シロさんの指示に従って、私は靴を履き、そして家の外に――敷地内から飛び出した。
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