06
幸二は眼鏡の位置を直し、ブルーシートのある辺りからそっと遠ざかった。「幽霊は見えるだけ、祓えない」という彼はさぞ帰りたかろうが、空手で帰るわけもいかないのだろう。
「だったら、『リテヌート』でいいかな?」
黒木は近くにある喫茶店の名前を挙げた。テーブルがあるし、モーニングサービスを展開しているから、朝九時前の現在すでに営業中だ。まりあも「いいですね。テーブル広いですよね」などと言う。土地勘のない幸二は二人に任せるというので、話は早々に決まった。
「まりあさん、疲れちゃった? 今日ちょっと暑いもんね」
幸二はなどと言って気を遣い、まりあにニコニコされている。一方で黒木は、まりあがどうして机と椅子のある場所を探していたのか、大方わかっている。
彼女は「よむ」つもりなのだ。そのためには、巻物を広げる場所が必要になってくる。
雑居ビルの一階にある喫茶店は、駅の利用者で賑わっている。調度品の趣味がよく落ち着いた雰囲気で、コーヒーや軽食も旨い。それにまりあが言ったとおり、テーブルが広いのだ。
窓際の席に座を占めるなり、まりあは「わたし、アイスカフェオレにします」と早々にオーダーを決めてしまい、持っていたショルダーバッグを開けて、
「ここ、よくピアノ流してるのもいいですよね。お店の人絶対ホロヴィッツ好き」
などと言いながら中を探り始め(まりあにはピアニストが誰か聞けばわかるらしいが、黒木にはさっぱりである)、すぐに巻物を取り出す。よみごは大体自分専用の巻物を持っているもので、まりあもちゃんと一本所持している。
「まりあさん、それ何?」
幸二はよみごのことをまだよく知らないらしい。母の春英から説明を受けたわけでもなさそうだ。まりあが幸二に説明している間に、黒木は三人分のオーダーを済ませてしまった。
「――へーっ、そういう感じなんだ。便利だねぇ」
「お師匠さんみたいにはまだ全然よめないですけど、まぁ一応です」
まりあはテーブルの上に白紙の巻物を広げる。通りがかった店員が不思議そうな顔をするが、そのまま黙って通り過ぎる。
「たぶんこれは、お師匠さんがわたしに出した宿題っていうか、練習問題なんですよね」
そう話しながら、まりあは白紙の上に手をかざす。
不思議なことに、彼女の「よむ」動きは志朗のそれによく似ている――と黒木は思う。まりあは志朗が「よむ」ところは見たことがないはずだ。それなのに似る、というのはなんだか面白い。
「『まりちゃんに実地をさせなきゃ』って、よく言ってますもん。わたしに行かせるくらいだから、そんなに危険なものじゃないはずなんですよね。わたしに行かせて、よませて、何だったか後で訊こうと思ってるんだと思います」
そう言うと、まりあは白紙の上に指を落とした。白紙の上を小さな手が、その指先にセンサーを持っているみたいに動きまわる。やっぱり興味はあるのか、幸二がその様子を興味深そうにのぞき込んでいる。
「……ふーっ」
まりあはやがて手を止め、大きなため息をついた。「あそこにいるのは、一旦ちょっとおいとくとして、今はとりあえず……えーと……あのぅ、黒木さん?」
「ああ、はい」
返事をすると、こちらを見ているまりあと目が合った――ような気がした。
「わたしちょっと、黒木さんのことをよみたいんですけど。いいですか?」
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