進藤優成と草野芽生

 進藤優成は混乱していた。目の前の状況が、理解の範疇を軽く超えていたからだ。

 草野芽生の頭に、芽が生えているのだ。イタズラや冗談の類ではないことは、彼女の真剣な目を見ればわかった。それにイタズラにしては、あまりに芽の生え方が自然だった。

「……なに、それ」

 どうにかひねり出した声は情けないほど小さかったが、草野芽生には聞こえたらしい。彼女はあくまで冷静に応える。

「見ての通り、植物。イタズラじゃないよ。ほんとに、生えてるの。脳に根を張ってね」

 一語一語があまりに簡単で、だからこそ進藤優成の頭は情報を上手く処理できなかった。草野芽生は静かに続ける。

「何が原因でこうなっているのかは、私にも分からない。というか、世界の誰にもまだ分からないの。私がこの街に帰ってきたのも、この頭の植物を調べるため。私はそのために病院に通ってた」

 情報が繋がりだしたことで、進藤優成は徐々に状況を飲み込んでいった。少しずつ、様々なことを理解していく。

「じゃあ、いっつもキャップを被ってたのは」

「うん。この芽を隠さないといけなかったから」

 草野芽生はそう答えると、意外そうな調子で続けた。

「受け入れるの、早いね。もっと疑われると思ってたのに」

 進藤優成は思わず笑った。

「なんで疑うんだよ。草野さんがこんなしょうもない嘘をつく人じゃないことぐらい、もうさすがにわかってるよ」





 進藤優成にそう言われた時、草野芽生の中で何かが音を立てて壊れた。それは感情の制御装置だったのかもしれないし、涙腺のブレーキだったのかもしれない。

 とにかく彼女は、溢れ出る涙を抑えきれなかった。

 進藤優成の信頼が嬉しくて、苦しかった。

 違うんだよ、進藤くん。

 本当は私、嘘ばっかなの。

 言葉にしようとしたのに、口から出るのは嗚咽ばかりだった。息が、できなかった。

 泣いた。とにかく泣いた。声を上げ、身体中の水分がなくなるんじゃないかと思うぐらい、泣いた。

 進藤優成はその間、なにも言わなかった。初めは狼狽えた顔をしていたが、やがて泣き止むのを待とうという気持ちになったのか、ただ黙っていた。

 涙が出尽くして、呼吸も落ち着いた時、草野芽生は言おう、と決めた。もうこれ以上、隠し事はしたくなかった。

「違うの、進藤くん。私本当は嘘ばっかりなの。学校にも通ってないし、友だちも、進藤くん以外にいないの」





 進藤優成は、草野芽生の独白を黙って聞いていた。ある日突然、頭に芽が生えてきたこと。その日から急に、感情が制御できるようになったこと。彼女が嘘をついていたこと。頭から生えた植物のことを、隠さなくてはいけなかったこと。詳しい研究を進めるために、アメリカの病院に行かなくてはならないこと。

 進藤優成はそれらを、ひどく冷静に聞いていた。嘘をついていたと言われて、裏切られた、とも思わなかった。

「本当に、ごめんなさい」

 草野芽生はそう言って深々と頭を下げた。頭頂部に生えた双葉が、髪と一緒に揺れる。

「謝る必要なんか、ないよ」

 本音でそう言った。むしろ仕方のなかったことのようにさえ思える。彼女は必要があって嘘ついていただけだ。本気でそう思ったし、そう伝えなくてはならないと思った。

「草野さんは別に、吐きたくて嘘をついていたわけじゃない。必要があってそうしていただけだろ? 悪いことじゃない。僕だってきっと、同じようにする。それに」

 一呼吸置いて、一番伝えたかったことを言う。自分が笑うのがわかる。

「草野さんが嘘をついていたって聞いて、安心したんだ。学校に行けてなかったのは僕だけじゃなかったんだって。友だちがいないのは僕だけじゃなかったんだって。だからむしろ、嬉しかったんだよ」

 草野芽生はまだ、頭を下げている。しかし自分の言葉をしっかりと聞いてくれていることは、進藤優成にもわかった。

「ほら、顔あげてよ、草野さん。僕、本当に気にしてないんだ」





 ああこの人はどれだけ優しいんだろう、と草野芽生は思った。でも今は、その優しさが辛かった。優しければ優しいほど好きになるのに、私はもう、二度と彼には会えないのだ。

 そう思うと、また涙が抑えきれなくなった。この身体のどこにそんな水分があるんだというほど、涙が迫り上がってくる。

 情緒が不安定になっていると思ったのか、進藤優成は草野芽生に近づいて、その小さな肩に手を置いた。

「どうしたの」

 嗚咽混じりに、なんとか返答する。

「もう会えないのが、辛くて仕方ないの」

 進藤優成は草野芽生を勇気付けるように笑った。

「問題ないよ。アメリカだってどこだって、また会いに行くよ」

 ああこの人は優しすぎる。だからこんなにも、私はこの人を愛している。それが今は、これ以上ないほど悲しい。

「違うの」

 なんとか、言う。これだけは、はっきり伝えなくてはならない。

「私の記憶は、なくなってしまうの」





 記憶がなくなってしまう、という言葉を、進藤優成はうまく飲み込めなかった。どういう意味なのかはわかっている。だからこそ、受け入れられなかった。

 草野芽生がなにやら説明していたが、進藤優成は聞いていなかった。記憶がなくなる、という事実だけで十分だった。それだけで十分、胸が張り裂けそうだった。

 目の前の少女は小さな肩をさらに小さくしながら、ごめんなさい、と何度も謝っている。

 彼女はなにも悪くない。誰もなにも悪くない。

「ねえ進藤くん」

 小声で、草野芽生が言う。二人は見つめ合う。手を伸ばせば、抱きしめることもできる距離。

「私、進藤くんが大好きなの。だからさっき、進藤くんが私のことを好きだって言ってくれて、飛びあがっちゃうぐらい嬉しかったの。この気持ちもぜんぶ、忘れちゃうのかな」

 泣きそうな声が、進藤優成を刺激した。どうすれば良いのか、自然にわかった。

 進藤優成は草野芽生の小さな身体を抱き寄せる。そして勢いのまま、口付けする。

 草野芽生の目が開かれる。人のまつ毛の長さを、進藤優成は初めて知った。





 初め、なにが起きたのか草野芽生にはわからなかった。急に抱き寄せられ、進藤優成の顔がすぐそばまで来たと思ったら、唇を奪われた。

 息苦しくて、心地よかった。気持ちを確かめ合うように、永遠を刻むように、キスをした。

 どれぐらい時間が経ったのだろう。数秒にも、何時間にも思える時間のあと、ゆっくりと二人は離れた。

「ファーストキス?」

 こくん、と草野芽生は頷く。恥ずかしそうに、進藤優成も肩を揺らした。

「僕も」

「なんで」

 キスしたの、という語尾は、尻すぼみに消えていった。それでも、進藤優成には伝わった。はにかみながら、少年は言う。

「正解の、ご褒美。ほらさっきの問題の」

 なんと言えばいいのかわからなくて、草野芽生は黙っていた。何度もまばたきが出た。

 それを見て進藤優成は、恥ずかしそうに頭を搔いた。

「とにかく、したかったからしただけ。文句ある?」

 そのふざけた言い方が面白くて、草野芽生は思わず笑ってしまう。さっきまでの涙など、嘘みたいに笑う。

「やっと笑った」

 進藤優成は、息を吐くような言い方で言った。

「草野さんは笑ってたほうがいいよ。そっちの方がずっとかわいい」

 からかわれているばかりの気がして悔しくて、草野芽生は反撃する。

「今日はやけに素直だね。そんなに私のこと好きだった?」

 だが、進藤優成には効かなかった。

「どうせ草野さん、忘れちゃうんでしょ? なら、今のうちにいろいろ言っておこうと思ってさ」

「なにそれ」

 くだらないやりとりが楽しくて仕方なかった。その分別れが惜しくて、忘れてしまうのが惜しくて仕方ないのに、今なら別れも忘却も全部、簡単に乗り越えられる気がした。

「約束するよ、草野さん」

 進藤優成が、やけに真剣な口調で言う。

「この先草野さんが僕を忘れて、ぜんぶを忘れたとしても、また、草野さんの最初の友だちになってみせる」

 ああ、と草野芽生は思う。

 私は幸せだ。

 本気でそう思う。

 最初の友だちが、初恋の人が、進藤優成で良かった。

「……約束ね」

 確かめるように言うと、進藤優成が頷く。

「もちろん」

「……じゃあ、指切りして」

「いくらでも」

 冗談っぽく笑いながら、進藤優成が一歩前に出た。

 草野芽生は思いきり背伸びした。そして次の瞬間には、唇と唇が触れ合っていた。

 指切りぐらいで我慢できるわけがなかった。だって、今日が最後になってしまうから。

 一度目のキスよりは短く終わったキスのあと、進藤優成が顔を赤らめていたのが、一矢報いたみたいで嬉しかった。

 月明かりは教室を照らし、二人を照らす。その光がさっきよりも弱くなっていて、夜が浅くなっていくのがわかる。

 永遠はきっと手に入らない。

 でも、こんな夜も悪くないと、草野芽生は思った。

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