草野芽生

 少女は光合成している。

 二酸化炭素を取り込み、酸素を放出している。

 少女はもちろん人間である。十六歳の、どこにでもいる少女である。

 頭に、子葉が生えているという一点を除けば。





 草野芽生にとって、進藤優成は不理解の対象であった。

 それと同時に、同情と尊敬の対象だった。

 不理解の理由は、その表情にある。

 彼はいつどんな時も表情を変えず、ただ暗い目をしていた。その奥にどんな感情があるのか、草野芽生にはまったく理解できなかったのだ。

 同情の理由は、彼の置かれた状況にある。

 彼は明らかにいじめられていた。常にからかわれ、いつも物を奪われ、ひどい時は水を頭からかけられたり、突き飛ばされて怪我していたりした。草野芽生には友だちが一人もおらず、彼女はそれで寂しい思いもしていたが、あんなふうにいじめられるよりマシだ、とも思っていた。

 尊敬の理由は、彼の態度にある。

 彼はどれだけいじめられようと、いっさい表情を変えず、いじめっ子が喜ぶような反応を絶対にしなかった。それは彼なりの意地だったのかもしれないが、少なくとも草野芽生にはできないことだった。彼女はいつでも、すぐに感情が爆発してしまうのだ。抑えつけようとすればするほど、感情があふれるのを抑えられなくなる。だからみな怖がって、友だちができなかった。

 そんな彼女にとって、いつも泰然とした態度を崩さない進藤優成は、尊敬の対象だった。いつか仲良くなりたいとも思っていた。しかし、草野芽生はほどなくして親の都合により転校を余儀なくされ、進藤優成とは離れてしまった。小学五年生の春だった。





 草野芽生の身体に異変が生じたのは、それから五年後の、これまた春のことだった。

 どれだけ努力してもできなかった感情の制御が、ある日から突然できるようになったのだ。思い通りに事が運ばなくても怒りを覚えることなどなくなり、彼女は穏やかになった。自分でも驚くほどの変化だった。

 それと同時に彼女は原因不明の頭痛を発症するようになった。ずっと、頭が鈍く痛むのだ。どんな病院に通い、どんな薬を飲もうとそれは治らなかった。

 頭痛を発症してから二か月ほどしたとある日に、彼女は鏡で自分の姿を見て驚愕した。

 自分の頭から淡い緑色の子葉が生えていたからである。

 初め彼女は誰かの冗談だと思ったが、触ってみるとどうも本物の子葉にしか思えなかった。それに、彼女に対してそんな冗談を仕掛ける人間なんて、一人も見当たらなかった。

 草野芽生は困惑したまま病院に向かった。頭を見せると、医者も困惑した。 

 とにかくレントゲンを撮ってみると、草野芽生の脳には、植物の根が広がっていたことがわかった。

 医者はこんなもの見たことがないと言い、とにかく検査のための入院を勧めた。草野芽生は、すぐに入院を決めた。

 入院してからの検査でわかったことは、原因が不明だということと、草野芽生が抱えていたアスペルガー症候群に似た症状は、すべて頭の植物のせいだということだった。植物が、感情の制御を司る物質を栄養として成長していたのだ。そして現在症状が治まった理由は植物が芽を出したことで、植物が求める栄養が変わったからだという。

 そして医者は、田舎の病院でわかることには限界があると言い、都会の病院への転院を勧めた。草野芽生の両親はすぐにその提案を受け入れ、一家はかつて暮らした街へと戻っていった。

 引っ越しは草野芽生にとって苦痛でも喜びでもなかった。中学時代を過ごした町にはいい思い出は特になかったし、小学校までのことも、もうすでにあまり覚えていなかった。引っ越しが決まった時に母親が語っていた小学校時代の思い出話を、草野芽生はほとんど覚えていなかった。中には割と最近の話もあったが、それもぼんやりとしか思い出せなかったくらいなのだ。

 引っ越しよりも何よりも草野芽生の感情を動かしたのは、自身の置かれた状況だった。

 草野芽生は長い間自身を苦しめていた症状の根源を知り、ほっとすると同時に、やるせない気持ちが湧き出た。自分の気持ちを抑えられないことで苦労し、一人の友だちもできなかった人生だったのに、やっと症状が治った時には、今度は入院だという。

 一人ぐらい、友だちが欲しかったなあ。

 以前暮らした街へと向かう車の中で、少女はそう思った。





「なんでですか!」

 その日、草野芽生は診察室で声を荒げた。都会に戻り、総合病院での一週間の検査入院を終え、ひとまず退院となった日のことだった。

 医者は草野芽生に、高校に入るのはやめた方がいいと言ったのだ。

 それは草野芽生にとって、到底受け入れられる話ではなかった。

 彼女は普通の学校生活に強い憧れを抱いていた。彼女は頭に生えた植物のせいで、今までまともに人とコミュニケーションを取る事もできず、当然、友だちは一人もいなかった。しかし心の底では、友だちという存在に強い憧憬があった。そして今、彼女は感情の制御ができるようになり、やっと人とちゃんと話せるようになった。あとは学校に通いさえすれば、友だちはできるはずだった。

 草野芽生は入院中、自分に友だちができる未来を想像し、楽しんでいた。転入したい高校も山ほど探した。

 それなのに医者は、学校に通うのは駄目だと言った。ずっと求めていた未来がすぐそこにあるのに、手を伸ばすのはいけないのだという。そんなの、認められるわけがない。

 気づけば草野芽生は立ち上がって声を荒げていた。感情が抑えられなくなるのは、頭に子葉が生えてからは初めてだった。

 だがどれだけ草野芽生がいきり立とうと、医者はまるで動じなかった。丁寧に、聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるみたいに同じことを繰り返すだけだった。

「今はまだ、その頭の子葉が何をもたらすのかひとつもわかっていないんです。我々としては、そんな状況で学校に通わせるわけにはいかない。もし学校でなにか起こったとしたら、それはもう手遅れなんです。それに、ずっとその頭を隠していくのにも無理があるでしょう?」

 医者の言うことは正しかった。それが草野芽生をさらに苛立たせた。意味のないことだとわかっていながら反論する。

「頭は今みたいにキャップで隠します。絶対脱ぎません。それに子葉問題ありません。今は何も起きていないんです」

 医者は全く表情を変えない。

 わかっている。

 草野芽生にもわかっているのだ。これは結論で、覆すことができないのだと。だからこそ、歯痒くて仕方ない。

 気づけば、草野芽生は診察室を飛び出していた。同席していた母が呼び止めるのが聞こえたが、無視して歩き続けた。

 悔しくて、悲しかった。些細な願い一つ叶えられない人生を呪いたかった。不意に頭の子葉を引っこ抜きたくなったが、なんとか堪えた。絶対に抜こうとしたりしないでくれと、医者から厳命されていたのだ。

 やるせ無い気持ちを抱えながら、草野芽生は病院内を歩き続けた。爆発して叫びそうになるのを堪えながら、歩き続けた。

 そんな時だった。

 草野芽生が、俯いて読書をする進藤優成を見つけたのは。





 草野芽生は、そこに座っているのが進藤優成だと、すぐに気づいた。そして自分でも驚くことに、彼に話しかけた。

「進藤くん、だよね?」

 進藤優成が顔を上げてこちらを見た。その顔はとにかく驚いていて、目の前にいるのが小学校時代の同級生だと気づいていないようだった。

 進藤優成の顔を見て、変わらないな、と草野芽生は思った。もちろんあの頃から背は伸び、体つきも男らしくなっていたが、目がまるで昔と変わっていなかった。鬱屈とした不満をたたえた暗い目。

 知っているころとなにひとつ変わらない瞳が嬉しくて悲しかった。

「誰、で、すか」

 生まれて初めて発せられたみたいな、ぎこちない声だった。同年代と話す機会など普段ないのだろう。瞳が不安そうに揺れている。

 それを見て、草野芽生はなぜだか緊張が解けていくのを感じた。彼女も同年代の人間と会話をするのは久しぶりだったが、進藤優成を見ていると、自分がしっかりしなくてはと思わせられる。

 草野芽生は進藤優成に笑いかけた。ぎこちない笑みになってやしないかと、内心不安に思いながら。

「忘れちゃった? 草野だよ。草野。 ほら、小学生の時同じクラスだった草野芽生」

 植物の影響下にない、素の状態で同年代と話すのは草野芽生にとって初めての経験だったが、なぜだかスラスラと言葉が出てきた。相手が良いのかもしれない、と草野芽生は心のうちで思った。進藤優成には、どこか人を落ち着かせる独特の雰囲気がある。

 名乗ると、進藤優成は草野芽生に気づいたようだった。覚えていてくれたことが嬉しかった。

「……気づかなかったよ。雰囲気、変わったね」

 進藤優成にそう言われて、草野芽生はちょっと驚いた。彼でもわかるぐらい、自分は変化したのだろうか。

「よく言われる。つきものがおちたみたいだって」

 自然と言葉が出てきたが、嘘だった。そんなことを言ってくれる友人はどこにもいなかった。

 すると進藤優成は曖昧に笑った。その顔が面白いぐらい強張っていて、笑いそうになるのを堪えなくてはならなかった。そしてその時、進藤優成に好感を抱いている自分がいることに、草野芽生は気づいた。言葉を重ねる。

「進藤くんは、なんでここに?」

 問い返された時のことは考えていなかった。医者には、絶対に自分の症状を他人に言うなと言われている。もし問い返されれば、適当に誤魔化してしまえばいいと思っていた。

 しかし進藤優成は答えをはぐらかし、質問を返してくることもなかった。

 進藤優成の寂しげな横顔を見て、もしかしたら彼は今もいじめられているのかもしれないと草野芽生は思った。

 同時に、思いついた。学校に通えないなら、進藤優成と友だちになれば良いのだと。

 これは素晴らしいアイデアだった。欲を言えば女の子の友だちが欲しかったが、まずは進藤優成と仲良くなってみるのもいいかもしれない。要は練習に使えると思った。そして、決意した時にはすでに声が出ていた。

「このあと、暇?」

 そのあとの進藤優成の面くらった表情を見て、草野芽生はまた笑いを堪えなくてはならなかった。





 公園を選んだ理由は特になかった。ただ適当に歩いているうちに、一番に目に入ったのが公園だったというだけだ。

 草野芽生は公園に入って、入り口のすぐそばにあったブランコに腰掛けた。

 ブランコを漕ぎながらも、これでいいのかと自問する。高校生が二人で遊ぶ場所が公園というのはおかしいのかもしれない。だが草野芽生には同年代の友人と遊んだ経験がない。だから正解がわからなかった。

 ブランコなんて、今まで一度も漕いだことはなかった。一緒に漕ぐ友だちがいなかったからだ。

 緊張しながら、ブランコの銀色のチェーンに手をかけ、慎重に漕ぎ始めた。なぜか緊張していると思われたくなくて、表情は余裕を繕った。しかし、いざ足が地面から離れると、浮き立つ気持ちを抑えられなかった。勢いがあるわけではない。ゆっくりと漕いでいるだけなのに、気持ちよくて仕方なかった。感じる風が心地よくて仕方なかった。

 ふと横を見ると、進藤優成が不思議そうに草野芽生を見ていた。

 もったいない、と草野芽生は思った。この感動を、共有したい。

「進藤くん、やんないの」

 すると進藤優成はなお不思議そうな顔をしたまま言う。

「なんでブランコなの」

 そんなのわからないよ。

 心の中で草野芽生はこぼす。理由なんてない。今心地がいいのが優先なのだ。

「なんとなあく!」

 声を上げながら、顔が綻ぶのが自分でもわかった。

 すると、進藤優成がブランコに手をかけるのが見えた。それだけのことなのに、なぜか異様に嬉しかった。

「お、やる気だねえ」

 勇気を出して、からかうように言ってみた。普通の友達同士がする、憧れてやまなかった言い方。

 進藤優成はなにも返さなかったが、無視されたわけではないとわかった。彼はゆっくりと、ぎこちないやり方でブランコを漕ぎ始める。

 もしかしたら彼も今までブランコに乗ったことがなかったのかもしれないと思うと、それすら楽しく思えてきて、気づけば声を上げて笑っていた。そしてなぜかそうしたくなって、立ち漕ぎに切り替えた。初めてで恐怖もあったが、それ以上に気持ちがいい。

「意外と楽しいでしょ、ブランコ」

 わざとこなれた言い方をした。するとほんの少し間をおいて、進藤優成が話を広げた。

「なんでこっちに帰ってきたの」

 草野芽生は少し意外に思ったが、なんでもない風を装って言葉を返す。

「つい先週。お父さんの仕事の都合で。高校は入ったばっかだし、別に転校してもいっかーって思って帰ってきたの」

 全て嘘っぱちだったが、スラスラと言うことができた。少しだけ胸が痛んだが、見ないふりをした。だって医者にも事情は誰にも話すなと言われているんだから仕方ない、と言い訳もした。

「高校はどこに入ったの」

「S高。ほら、近くの女子校だよ。あんまり頭良くないけどね」

 これも嘘だった。S高は、入院中に探していた数多の高校の一つだった。息をするように嘘をつく自分のことを、草野芽生はどこか他人事のように恐怖に思った。

「進藤くんはどこに通ってるの」

 なんとなく、聞いてみた。進藤優成が答えに詰まったように、草野芽生には見えた。

 短い沈黙のあとに、彼は決意したように口を開いた。

「通信制なんだ。登校は一度もしてない。小五の春から、一度も学校に行けてなくて」

 ふーん、と草野芽生はあくまで興味なさげに返す。自分だったら、変に気を遣われるのも耐えられないと思ったからだ。

 どんな言葉をかけるのが良いのだろう。

 草野芽生はブランコを漕ぎながら考えた。

 進藤優成はきっと心を痛めている。学校に通えない自分に。いつまでも立ち止まったままの自分に。

 草野芽生にはそれがよく分かった。なぜなら、彼女も同じだったからだ。いつまでも周りに溶け込めず孤立していた。そのせいで心を病んでいた。

 あの時私は、どんな言葉をかけられれば救われたのだろう。

 草野芽生は考える。そしてすぐにぴったりの言葉を見つけた。

 ただ優しく、肯定してあげればいい。

 そう思った時には、ブランコから飛んでいた。自分でもびっくりするほどきれいに飛び、着地した。

 今なら何でもうまくいく。

 そう思って、振り返る。進藤優成の暗い瞳を見つめて、言う。

「じゃあ、いつでも遊べるね!」

 瞬間、進藤優成の瞳に、不安とはまた違う色が宿ったのが見えた。彼は震えているようにも見える。

 自然と、次の言葉が飛び出した。

「これからもよろしく!」

 そう言ったあと、進藤優成の瞳に明るさが灯っていくのを見て、草野芽生は、全てが覆る錯覚を覚えていた。





 草野芽生は、夢が多かった。しかしそのどれもが大げさなものではなく、むしろささやかな望みだった。

 友だちと遊園地に行きたいというのも、数ある夢の一つだった。

 だから、進藤優成と行くことにした。

 とはいえ、普通ならまだ関係を深めていない男女が二人で遊園地など気まずい。だが草野芽生には今まで友だちと呼べる存在が一人もおらず、対人関係における「普通」がまるでわからなかった。

 それでももし断られたら、という恐怖はあった。だから行く先を知らせることなく、集合時間と場所のみを指定した。

 卑怯だという思いもあったが、進藤優成から承諾の返事が来た時の嬉しさでそんな思いは吹き飛んだ。前日は楽しみで寝られず、夜の間中遊園地の情報を漁っていたぐらいだった。





 そして当日、草野芽生は集合の三十分前には集合場所の駅に着いていた。まったく寝られなかったため、早めに準備をしていたのだ。

 待ち時間はまるで苦痛ではなかった。脳内ではずっと、徹夜で調べた遊園地の情報が巡っており、そのたびに楽しみが増えていくようだった。

 進藤優成は、集合時間の朝七時ちょうどに来た。

 もしかしたら来ないかもしれないと思っていた草野芽生からしたら、それだけでうれしかった。思わず大げさに手を振ってしまう。

「やっほー。よく来たね!」

 ホントによく来てくれた、と胸中では言っていた。とにかく嬉しかった。

「当たり前でしょ」

 照れ隠しのように目をそらした進藤優成がなんだかかわいらしく見えて、思わず笑顔になる。

「そうかあ。当たり前かあ」

「こんな朝からどこに行くの」

 進藤優成はあくびをしながらそう聞かれた。草野芽生は不安を押し殺しながら、大げさな手振りで答える。

「遊園地です!」

 進藤優成は一瞬絶句したが、すぐに元に戻った。

「どこの?」

 そう言われて、草野芽生は思わず目を丸くした。そんなにすぐ受け入れられると思っていなかったのだ。思わず、思っていたことがそのまま口をついて飛び出す。

「なんだ。受け入れるの早いね。もしかしたら断られるかと思ってたのに」

 すると、進藤優成は意味が分からないというように首を傾げた。

「なんで? お金は持ってきたし、特に行けない理由もないけど。それに、ちょっと楽しみだし」

 草野芽生はまた驚いた。進藤優成がこんな素直な反応をする人だと思っていなかった。

「なに?」

 怪訝そうに聞かれて、草野芽生は首を振りながら、またもや素直に気持ちをこぼす。

「ううん、なんでもない。ただ、進藤くんって意外と率直な話し方なんだなあって思って」

 まあいいよ、行こ、と言って、草野芽生は歩き出した。歩きながら、進藤優成へのイメージを改めた。そうしながら、まだお互いのことをなにも知らないんだと、草野芽生は実感した。





 慣れない都会の電車にかなりの体力を奪われたが、草野芽生は平気な顔をしているよう心掛けた。進藤優成には学校に通っていると言っているから、電車にも慣れていると装いたかった。

 電車を三つ乗り換えて着いた遊園地はかなり空いていた。いくら人気の遊園地とはいえ、なんでもない平日の朝である。空いているのも当然だった。

 軽く会話しながら二人でチケットを買い、園内に足を踏み入れた。

 テレビの中の、いつかあこがれた非日常が目の前にある。

 それだけで嬉しくて、今にも飛び跳ねたいのをなんとかこらえた。

「ねえ、乗り物、何が苦手とかある?」

 慣れた風に訊いてみると、進藤優成は恥ずかしそうに肩をすくめた。

「わからない。友だちなんかいなかったから、遊園地に来たことがないんだ。だからジェットコースターとかお化け屋敷とかも、何が苦手かわからないんだ」

 そう聞いて、草野芽生はつい嬉しくなった。自分とまるで同じだったからだ。だから、自分がかけて欲しい言葉を彼にかける。

「じゃ、今日で全部試してみよう!」

 そう、試してみればいい。今日だって練習なのだ。いつか本当に友だちができた時のための。

 自分にそう言い聞かせながら、草野芽生は進藤優成を先導した。

 二人がまず乗ったのはジェットコースターだった。かなりのスリルと爽快感が楽しめると評判で、草野芽生がもっとも楽しみにしていた乗り物の一つでもあった。

 しかし、実際に乗ってみるとちっとも楽しくなんてなかった。なにしろ、風で被っているキャップが飛ばされそうになる。キャップを飛ばされるわけにはいかないから、乗っている間、ずっと下を向いてキャップを守らなくてはならなかった。進藤優成はそれを怖がっているととらえたようだが、そんなことはなかった。怖かったのは、頭に生えた双葉が露になることだった。

「キャップ」

 ジェットコースターを終えてからそう言われた時、草野芽生は焦った。何か気づかれたんじゃないかと、気が気でなかった。顔もずいぶん強張った。彼は笑って言う。

「外せばよかったのに。あんなに抑えるぐらいだったら」

「ああね、確かにそうだね。ミスったなあ」

 草野芽生は誤魔化すように笑いながら、安心すると同時に、進藤優成の屈託のない笑みを初めて見た気がした。

 それからも色々な乗り物に乗った。草野芽生にとって、全てが新しい発見だった。全てが貴重で、楽しかった。

 そうこうしているうちに午後三時を迎えた。ちょうどおやつ時だった。

 草野芽生は前日調べていたうちに食べたくなったパフェを食べようと園内にあるカフェに入った。

 園のキャラクターを象ったクッキーを食べていると、進藤優成が自分を見つめていることに気づいた。

「なに? 私、顔になんかついてる?」

「いや、別に。ただ、凄いなあって思って」

 本当に感嘆したように進藤優成は言う。草野芽生は何のことだかわからず困惑した。

「凄い? 私が?」

 なにか皮肉でも言われているのだろうか、という思いが草野芽生の中に立ち込める。彼女は今までの人生で、そういう「凄い」しか言われてこなかった。凄い人だよね、草野さんって、と影で皮肉と冷笑を混ぜて言われていたことは、なかなか忘れられない記憶だ。

 だが進藤優成が見せた笑顔は、冷笑や皮肉とはかけ離れた、純真に満ちたものだった。

「いや、ずっと案内してくれてさ。多分遊園地とか慣れてるんだろうなって。僕なんか行ったこともなかったから、こういう場所に慣れてるって凄いなあって思ってさ」

 あまりにまっすぐな言葉に、草野芽生は胸をえぐられるような気分になった。進藤優成を見つめられず、目を逸らして俯く。こういう時、キャップは便利だ。視界をうまい具合に遮ってくれる。

 違うんだよ、という言葉が喉元まで出てかかっていた。

 私は本当は友だちなんていなくて、学校にも行ってないんだ。ぜんぶ、嘘なの。

 言葉はいくつも浮かんでくるのに、口から漏れ出るのは、まあね、なんていう曖昧で小さな声だけだった。

 なんだかこの場に居たくなくなって、草野芽生は急いでパフェを食べた。

 外に出ると、もうすでに日は沈みかけていた。キャップのせいで、更に足元が暗い。

「もうほとんど乗り切っちゃったねえ」

 言いながら、響きが名残惜しくなっていることに自分でも驚いた。まだ帰りたくないと思っている自分が、驚きとともに嬉しかった。

 しばらく適当に歩き回った。その間に暗闇は勢力を増し、抵抗を示すようにあたりにはイルミネーションの光が灯り始めた。

 そういえば、夜の観覧車が良いって書いてあったな、とぼんやりと回る観覧車を見つめながら草野芽生は思った。乗りたい、とも思った。

 だが今から乗ってしまうと、帰りは恐らく確実に帰宅ラッシュに巻き込まれる。自分はまだしも、行きの電車でさえ自分より疲れていた進藤優成には厳しいかもしれない。

 諦めて帰ろうという気になった時、進藤優成が声をあげた。

「ねえ、あれ乗ろうよ」

 そう言って、彼は観覧車を指さしたのだ。この日一度もなにに乗りたいと言い出さなかった進藤優成が言ったことには驚いたが、本人が望むなら乗るべきだ、と草野芽生は思った。帰りのことは、またその時考えればいい。

 観覧車はゆっくりと、しかし確かに上昇していく。窓の外をしっかりと見つめる。その目には、カラフルに光を放つアトラクションの数々がとらえられている。そのどの光も彼女にとっては新鮮で、すっかり興奮していた。

「うわあ! 凄いよこれ!」

 思わず声をあげたが、進藤優成はまるっきり無反応だった。

 気になって進藤優成に視線をやると、彼は縮こまり、外を見るどころか床をじっと見つめている。

「なにしてるの?」

 草野芽生が問うと、進藤優成は小さくなったまま、肩をすくめた。

「いや、実は高いところはあんまり得意じゃないんだ。ジェットコースターぐらい速いと高さに怖がってる暇もないから大丈夫だったんだけど、ゆっくり上がっていくのはちょっと」

 それならなぜ、観覧車に乗ろうなんて言い出したのか。

 その疑問を率直に進藤優成にぶつけると、進藤優成はさも当たり前のように、草野さんが乗りたそうにしてたから、と言った。

 草野芽生は驚いた。自分が観覧車に乗りたがっていたのが進藤優成に伝わっていたことに。そして彼が自分のために提案してくれたことに。

 嬉しかった。同時に胸が苦しかった。

 彼に嘘をついていることが、とんでもない重罪であるような気がした。こんなにも純粋な優しさを持つ人を騙している自分に嫌気がさす。

「そんなにかっこつけなくてもいいのに」

「酷いな、傷つくぞ」

 そう言った彼の笑顔は恐怖からかぎこちなく、だからこそひどく優しく見えた。そして進藤優成が優しい分、胸が締め付けられる。

 罪悪感を笑顔で隠しながら、力を込めて言う。

「ありがとね、進藤くん」

 ごめんなさい。

 嘘をついてごめんなさい。

 だからせめて、これだけは嘘じゃなく、約束します。

「私、今日のこの景色、絶対忘れない!」

 進藤優成がもう一度笑う。今度の笑顔にぎこちなさはない。

「大げさだよ」

 呆れたようなその声ですらどこまでも優しい響きを持って、草野芽生に届いた。

 いつの間にか、観覧車は高度を下げ始めていた。

 二人は観覧車を最後に、遊園地をあとにした。帰りもまた二時間かけて電車に乗ったころには、草野芽生の体力はすり減っていたが、あくまで元気があるように振る舞った。

 二人はすっかり暗くなった駅で別れた。

 またねという言葉の美しさを、草野芽生はその日に知った。





 草野芽生はその日、人生で初めて渋谷を訪れていた。

 今日の目的は渋谷で映画を観たあと、評判のスイーツ店に向かうことだったが、前回同様進藤優成にはなにも知らせず、ただついてきてと頼んだ。進藤優成は二つ返事で了承してくれた。

 とりあえず映画に行くというのは、電車の中で明かした。進藤優成はいいじゃん、とだけ言った。拒否されないことが、これ以上ないほど嬉しかった。

 二人の最寄駅から渋谷駅は一本であり、遊園地の時よりもずっと楽に向かうことができた。

 草野芽生は進藤優成を先導して、迷うことなく渋谷の街をすいすい歩く。内心では生まれて初めての都会に半ば興奮し、半ば戸惑っていたが、表情には出さないようにした。前日必死になって調べた甲斐があったと、草野芽生は思った。

 映画館に着くとまずチケットを買い、それからポップコーンの列に並んだ。上映時間はぎりぎりだったが、どうしても買いたかった。憧れていた友だちと映画を見るという行為に、ポップコーンとコーラは必須だった。

「ペアセットの方が安くなりますが」

 人の良さそうな店員がそう提案してきた時、草野芽生は束の間迷った。ペアセットは流石に馴れ馴れしいような気がする。だが、隣で進藤優成が迷った表情をしているのを見て、ペアセットを買うことに決めた。これぐらい普通のことだ、と進藤優成に示したくなったのだ。

 じゃあペアセットで、と言った時、進藤優成がかすかに目を開いたのを見て、少し嬉しかった。

 ポップコーンとドリンクは進藤優成が持ってくれた。観覧車の時にも思ったが、彼は人に慣れていない割にスマートさがある。そこに言葉では言い表せない好感を、草野芽生は抱いていた。

「楽しみだなあ」

 席につくと、自然とそんな声が漏れた。本当に楽しみだった。中学生の時、同級生が一緒に映画を観る約束をしているのが羨ましくて仕方なかった。そして同時に、感情をコントロールできず、友だちが一人もできない自分を恨んだ。友だちと映画なんて、自分には縁のないことだろうと思ったりもした。

 だが今、こうして映画館に友だちと来ている。学校でできた友だちではないし、憧れた同性の友だちではないけれど、十分に幸せなことだと、草野芽生は思う。

 人より何周も遅れてようやく掴み取った憧れを噛み締めていると、館内は暗転し、映画が始まった。




 ずっと行きたかった店だった。東京に戻ると決まった時に見つけてから、いつか友だちと行くことを夢見ていた。何度も妄想を繰り返して、頭の中だけなら百回は食べたかもしれないプリンアラモードが、草野芽生の目の前にあった。

 感動を押し殺しながら、一口食べる。甘くて、少しだけ酸っぱくて、とても美味しい。

 こんな場所にいるのが、夢みたいだった。あの日、病院で進藤優成に話しかけた自分を褒めてあげたかった。全ては、あの日から始まったのだ。

 顔を上げると、そこには気まずそうに目を伏せている進藤優成がいた。女の子ばかりの店内に気後れしているのかもしれない。

 申し訳ない気持ちはあった。本来こういう場所は、女友だちと来るべきところだとはわかっている。でも、女友だちなどいない。これからすぐにできるとも思えない。そうなると、彼と来るしかないのだ。

「一口、いる?」

 気を遣って言ってみたが、進藤優成は断った。もしかしたら甘いものが好きじゃないのかもしれないと草野芽生は思った。また少し、申し訳なくなる。

「なに、もしかして間接キスだからって気にしてる? かわいいなあもう」

 その気持ちを誤魔化すように、わざと笑って茶化した。

 すると進藤優成は、信じられないものでも見るように草野芽生を見つめた。その意味深な視線に、草野芽生は思わず言葉をかける。

「どうしたの? もしかして図星だった?」

 苦笑しながら「そんなことないよ」とか言われるのだろうと思っていたが、進藤優成は軽く首を振って、真剣な口調になった。

「いや、なんか信じられなくてさ。僕に友だちがいるなんて」

 予想外の言葉に一瞬驚いたが、すぐに笑顔を作って対応する。

「なにそれ。深刻すぎでしょ」

「だってこういうところだってほんとは女子と行った方がいいんじゃない?」

「なにそれ、私と遊ぶのが嫌だってこと?」

 冗談っぽく眉を吊り上げて見せたが、内心は怯えていた。もしかしたら、私に違和感を覚えているのかもしれない。学校に通っていないと、友だちなんていないと、見抜かれているのかもしれない。

 だが、そうではなかった。進藤優成は慌てながら、優しく、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「違うよ。そんなんじゃない。むしろ、楽しいよ。だってぜんぶ初体験なんだ。今までできなかったことが急にできるようになって驚いてるだけなんだ。ほんとに、ぜんぶ楽しいよ。遊園地に行くのも、映画を見るのも、こうやってご飯を食べるのも。ぜんぶ初めてで、ぜんぶ楽しいんだよ」

 あまりに正直な物言いに、草野芽生は進藤優成の目を見つめられなくなってしまった。

 目を伏せながら、ああ、と彼女は思う。

 なんでこの人は、こんなにも素直なのだろう。

 それは彼の美点なのに、打算ばかりの私はその素直さに胸が苦しくなる。

 初めは、腹いせのようなものだった。学校に通ってはいけないと言われて、むしゃくしゃして、なんとなく近づいただけ。そして、嘘を重ねた。学校に通えない、友だちのいない自分を認めたくなくて、すべてでっち上げた。学校に通えずに悩んでいる彼の、上に立とうとした。

 自分の醜い人間性が、彼の素直さのせいでより鮮明になる。

 もうぜんぶ言ってしまいたかった。学校に通っていないことも、友だちがいないことも、頭に生えた子葉のことも。

 だが言えるはずもなかった。子葉のことは、部外者に明かすことを医者に禁じられている。医者に色々と反発した草野芽生だったが、これだけは素直に受け入れた。明かせば、どんなふうに話が広まっていくのかわかったものではない。

 でも、この人なら。

 言える気がする。

 草野芽生はそう思っていた。進藤優成は信頼に値すると確信していた。

 しかし口から漏れてきたのは、そんなこととはまったく別の言葉だった。心はぜんぶを素直に漏らしているのに、声に出ない。

「へえ、進藤くん、私と遊ぶの、楽しいんだ」

 自分の声を他人事のように聞きながら、自然と声に合った表情が作られていく。私は根っからの嘘つきなのかもしれないと、また他人事のように思った。

 進藤優成はからかわれて、顔を真っ赤にしている。愛おしいと、草野芽生は思った。

 もうこれ以上、彼とはいられないかもしれない。

 心が、痛みすぎる。

 そう思っていながら、またもや口では違うことを言っている自分がいた。

「はは、ちょっといじっただけだよ。ごめんごめん。お詫びに、今日はもう一つ、進藤くんに初体験をプレゼントしてあげよう」

 このあとの予定なんて考えていなかったのに、なぜかそう言っていた。これ以上話せば、また自分の小ささを思い知るはずなのに、まだ別れたくないと、心が言っている。

 進藤優成は顔を上げた。ニキビ一つない、きれいな顔をしている。

「ついてきてよ」

 草野芽生は立ち上がって言いながら、まだ名前のない不思議な感情が自分の中に立ち込めているのを感じた。

 戸惑ったが、進藤優成の顔をもう一度見たことで、彼女はその感情の名前を見つけた。

 それはいくつもの憧れの中でも、一際特別なもの。

 ああそうか、と草野芽生は心の中で呟く。

 名前がついた感情は、なぜだかひどく心地よく、温かい。

 私は彼に恋をしている。

 草野芽生は、そう、噛み締めるように思った。





「久しぶりですね」

 相変わらず表情のない医者の言葉に頷きながら、そんなことないだろう、と草野芽生は思った。

 草野芽生は週に三回、検査を受けている。子葉の状態や全身の栄養状態を調べることで、子葉が今現在何を栄養として成長しているのか調べている。

 検査は面倒だったが、わがままは言えなかった。未知の病気を、根気良く調べてくれているのだ。入院を強制することもなく、ある程度自由を持たせてもらっている。感謝すべきだと自覚している。それでも、初めは嫌悪感がぬぐえなかった。

 学校に通えない、と言われたのが原因だと自分でも思っている。何度も夢見て、すぐそこまで来ていた未来を奪われた格好だった。見当違いの恨みだとわかっているが、すまし顔のあの医者をしばらく許せないだろうと草野芽生は思っていた。

 その医者が、目の前で検査結果を見つめていた。

「最近、外出が増えているそうですね。ご両親から聞きましたよ」

 検査結果以外の話をすることなど今までなかったから、そう言われて驚いた。

「ええ、まあ」

 曖昧に答えながら、脳裏に進藤優成の顔が浮かぶ。それだけで心が浮き立つ自分がいることが半分おかしく、半分嬉しかった。

「外出できるのは、週に二回までですよ。今のところ守っていると聞いていますが、くれぐれも気をつけてくださいね」

 なんだこれを言いたかっただけかと、草野芽生は鼻白んだ。

 草野芽生は現在、外出を制限されている。外出する時は頭を隠さなくてはならないが、子葉は光合成を行っていることがわかっているので、頭を隠すことはあまり良いことではない、というのが理由だ。

「わかってますよ」

 多少乱暴な口振りになるのは抑えられなかった。本当はもっと、進藤優成と遊びたかった。今だって会いたいぐらいだった。

 医者はちらりと草野芽生を一瞥してから、すぐに検査結果に目線を落とした。

「今回の検査で、わかったことがいくつかあります」

 思わず顔を上げて、医者を見つめる。今までは、こんなことは言われなかった。

「わかったことって?」

 声が上ずって、緊張している自分がいることに草野芽生は気づいた。何か好転するかもしれないと期待している自分がいた。

 医者は顔をあげて、まっすぐ草野芽生を見つめた。

「草野さんの頭の植物は現在、草野さんの記憶を栄養として成長しています」

「記憶?」

 思わず問い返す。記憶を食われているなんて、想像すらしていないことだった。医者は相変わらず無感情な声ではきはきと喋る。

「はい。具体的には大脳皮質の記憶野にあるニューロンを栄養として成長しています。ニューロンの数が減っていることが検査でわかりました。つまり今の草野さんは、記憶が徐々に抜け落ちている状態なんです」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 いきなり説明されたって、受け入れられるわけがない。記憶を食われているなんて、にわかには信じられないことなのだ。

「それ、本当なんですか」

 一縷の望みにかけて言ってみたが、医者は簡単に頷いた。

「間違いのない事実です。草野さんも最近、昔の記憶が抜け落ちていると感じたことはありませんか」

 そういえば、ある。

 この街に戻った際、母親に小学校時代の話をされた時、記憶にもやがかかっているみたいになって、当時の同級生や先生の顔、校舎の様子さえも思い出せなかったことが、ある。

 記憶がなくなっていくなんて、植物が記憶を吸っていくなんて非現実的なことが、自分の身に起こっているのだと実感する。全身から血が抜けていくようだった。恐怖が、止まらない。

「……それって、最終的にどうなるんですか」

 聞きたくなかったのに、聞けずにはいられなかった。今のうちに、全てを知っておきたかった。そうでなきゃ、壊れてしまうと思った。

 医者の目に一瞬、同情が宿った。いつも無表情な彼を見ている身としては、信じられないことだった。

「子葉の成長状態とニューロンの数から考えると、草野さんの頭の植物が花を咲かせる頃には、今覚えている記憶はすべて、抜け落ちてしまうかもしれません」

 その瞬間、草野芽生は照れくささがいつまでも抜けない、素直でかわいらしい進藤優成の笑顔を思い浮かべた。

 彼を忘れてしまうなんて、そんなの。

 頭に子葉が生えるよりも、その子葉が記憶を食らっていることよりも、信じられないことだった。

 ――ありがとね、進藤くん。私、今日のこの景色、絶対忘れない!

 いつかの自分の言葉を思い出す。

 嘘を重ねた。見栄を張りたくて、現実を書き換えたくて。

 でも疑うことを知らない素直な彼を見て、心が痛んだ。だからせめてこれだけは真実にしようと思っていた言葉。

 それさえも、嘘になってしまうのか。

 そう思うと、全身の力が抜けた。背もたれのない丸椅子が尻に負担をかけて来る。

「……いっそ、引っこ抜いちゃだめですか」

 医者の目に、さっきよりも濃く滲んだ同情が答えだった。

「これも最近わかったことですが、今の草野さんの身体は、植物と上手く共存しています。この状態を壊してしまうとどうなるのかは私にもわかりません。最悪の場合は、死に至ります」

 ――じゃあいっそ、殺してください。

 それは声にならなかった。代わりに漏れ出たのは、はん、という、自分の声だとはとても思えないような、乾いた笑いだった。

「草野さんには選択肢があります」

 医者は落ち着いた声で言う。草野芽生はただ黙っていた。

「実は今、海外の病院が草野さんの症状に大変興味を持っているんです。こちらに来れば、入院費も家族の生活費もすべて負担すると言っています。世界的にも有名な病院なので、日本に残るよりもはるかに草野さんの身体の謎を解明する役に立つだろうというのが、こちらの見解です」

 そこで一度切って、医者は草野芽生の目を見つめた。

「ですが、あくまで決定権は草野さんとご家族にあります。日本に残るにしても、我々は変わらず草野さんを診察します」

「海外ってどこですか」

「アメリカです」

 アメリカ。

 草野芽生は口の中でそう転がしてみた。

 あまりに遠い場所すぎて、想像すらできなかった。いつかテレビの中で見たニューヨークの映像が、ぼんやりと頭を巡った。

 その時草野芽生は、家族のことよりも自分のことよりも第一に、進藤優成のことを思った。

 アメリカになんか行ったら、もう二度と会うことは叶わないだろう。

 途端に、アメリカと日本の距離が現実味を持って草野芽生に襲いかかった。

 進藤優成に二度と会えない距離。

 胸がキュッと締まる。アメリカに行ってしまえば、もう二度とあの優しい声と、控えめな笑顔に触れることはできないのだ。

 だがたとえ日本に残ったとしても、私は彼を忘れてしまう。

 どちらを選ぶにしろ、私は彼を失うのだ。

 もうわからなかった。どの道にも先がなくて、それでも進まなくちゃいけなくて。

 会いたかった。

 感情がぐちゃぐちゃになればなるほど、猛烈に会いたくなった。

 嘘ばかりの自分に、彼に会う権利なんてないとわかっているのに、会いたかった。

 慰めてほしかった。許してほしかった。大丈夫だと、根拠もなく断言してほしかった。

 気を抜くと嗚咽が漏れてしまいそうで、草野芽生は口をギュッと結んで堪えた。その分瞳が揺れて、鬱陶しかった。

「時間はありますから、ゆっくり考えてください」

 医者のその一言で、診察は終わった。最後まで、その医者は似合わない同情めいた口調を崩さなかった。

 立ち上がって礼を言った時、診察室の照明がやけに白んでいると、草野芽生は気づいた。

 おぼつかない足取りで、院内を歩いた。

 病院の床はやけに歩きづらくて、何度も足を取られそうになる。何度躓きかけても、草野芽生は前を見て歩いていた。いや、実際には何も見ていなかった。ただ医者から言われたことを、一気に口に入れた食べ物をゆっくり飲み込むみたいに、咀嚼していた。

 子葉。ニューロン。記憶。日本。アメリカ。

 意味があるのかないのかわからない文字群がチラチラと浮かんでは消えていく。途端にぜんぶが面倒に思えて、自分がどうなろうとどうだっていいと、瞬間的に、しかし本気で思った。

 そんな時だった。草野芽生が進藤優成を見つけたのは。





 まさかこんなところにいるなんて思ってもいなくて、草野芽生は思わず足を止めた。

 進藤優成の方が気づく気配はない。彼は疲れ切ったように俯いていた。

 心臓が高鳴っていた。驚きと、喜びで。

 いくつも嘘をついて彼を騙しているというのに、会えると嬉しくなってしまう自分が浅ましくて嫌気が差したが、話しかけずには居られなかった。

「あれ、進藤くん? いたんだ」

 進藤優成が顔を上げた。そして草野芽生を認識すると、面食らったように、目を見開いた。その顔が前に病院で会った時にそっくりで、草野芽生はこぼれてくる笑みを抑えきれなかった。

「ここでよく会うねえ、私たち」

 進藤優成はまだ驚いていたが、その開かれた目の奥に喜びを見つけて、草野芽生は思わず舌を噛んだ。

 こうでもしないと、笑顔が崩れてしまうと思ったからだ。彼が喜んでくれるのが嬉しくて、この感情さえいつか忘れてしまうことが悲しくて、泣いてしまうと思った。

 ――もう耐えられない。

 そう思った時には、声が出ていた。医者の厳命など、もう無視していいと思った。

「ついてきてよ」

 これで終わりにしよう。

 今日でぜんぶ打ち明けて、お別れしよう。

 そう決意したが、気分は重たかった。今日で最後だなんて、信じられなかった。

 今にも押し潰されそうなほど辛いのに、彼に重い足取りなんか見せられなくて、草野芽生はむりやり、軽やかに歩き出した。





 背負ってきたリュックに花火が入っていることは覚えていた。

 去年の夏、一人で楽しもうと買ったものだった。

 でも結局、一緒にやる友だちがいないことで気分が萎びて、でも捨てるにも忍びなくて、リュックに入れたまま放置していたのだ。

 草野芽生は河原に向かって歩く。ちょうどよく、日が沈みだした。

 まだ日が落ちるスピードはそれなりに速くて、河原に着いた頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。

 二人は暗い上に足元が悪い河原を進み、川のすぐそばまできた。

 草野芽生はリュックを下ろして、花火の袋を取り出そうと中を漁った。

「さあ問題です。夜の河原ですることと言ったらなんでしょう」

 進藤優成に問いかける。しかし彼は何も答えなかった。暗くて顔は見えなかったけれど、今頃問題を出された意図がわからなくて困っているんだろうと想像がつく。そうしている進藤優成を思い浮かべたら、それさえ愛おしかった。

「正解は、花火でしたー!」

「え、まさか準備してたの?」

「まあね。去年用意してたんだけど、できなくてさ。しけちゃってて、もしかしたら上手くできないかもしれないけど。せっかくだから持ってきたの」

 言いながら、友だちがいなくて、と言えなかった自分を草野芽生は恨んだ。

 今日ここで全てを明かすつもりなのに、未だ見栄を張ろうとしている自分を軽蔑した。

 しかしそんなことは微塵も悟らせまいと、花火の袋を破く。びりびりと音がした。

 適当な花火を二つ選んで、片方を進藤優成に渡す。記憶にある限りで花火に触れるのは初めてだった。意外にもざらざらしているな、と思った。

 進藤優成は恐る恐ると言った様子で受け取ると、花火を凝視した。

「これ、どこで火消すの?」

 ライターを取り出しながら答える。これも、前にリュックに入れていたものだ。

「川で消せばいいんだよ。まったく、これだから遊んでこなかった人は」

「うるさいなあ」

 心なしか進藤優成の声は弾んでいて、その分草野芽生の心は痛んだ。

「ごめんごめん」

 すべてのことに対する、紛れもない本心だった。それでも雰囲気を壊したくなくて、おどけた口調でしか言えない私は、いったいどれほど進藤くんが好きなのだろう。

 草野芽生はそんなことを考えながら、右手でライターに火をともした。ぼうっと優しい光が周囲を小さく照らす。左手に持った花火の先を火にかざすと、すぐに黄色い閃光が弾け始めた。

 あたりが火花で不規則に明暗をつくる。じりりと音が鳴る。

 草野芽生は初めての花火に見とれながら、左手の花火を進藤優成に向ける。

「ほら、進藤くんも!」

 進藤優成は怯えた目をしていた。花火の勢いに戸惑っているのかもしれない。それがなんとも可愛らしくて、胸が温かくなる。

 ゆっくりと、進藤優成が右手に持った花火を草野芽生のものに近づける。草野芽生も、半歩前に出た。

 進藤優成の花火は勢いよく緑の光を発し始めた。進藤優成の足元に色のついた日が飛び散る。

「うわっ! あぶね!」

 そう叫んで目を丸くした進藤優成を見て、草野芽生はこみ上げてくる笑みを隠せなかった。楽しむことは別に罪じゃない、と自分に言い聞かせた。

「もう、大げさすぎ。危なくないよ。人に向けたりしなきゃ」

「だって、やったことないんだ。こんなに勢いが強いなんて思ってなかった」

 進藤優成はそう言って、恥ずかしそうに肩をすくめた。

 ――進藤くん、それ、私もだよ。私も花火なんかやったことないの。

 そんな言葉が喉元までせりあがってきたが、やはり声にはならなかった。

 言ってしまえばその瞬間にすべて終わってしまう気がして、手に持った花火さえも瞬時に消えてしまう気がして、言えない。

 進藤優成の素直さがまぶしかった。そのまぶしさで自分の醜さが浮き彫りになりそうで、その場にいられなくなる。

 逃げたい、と思うと同時に、ちょうどよく花火の火が消えた。名目ができて、草野芽生は水のそばまで行って火を消した。じゅ、という音が鳴る。涙が目の端に浮かんだが、それはきっと花火から漂う煙のせいではないと、草野芽生にはわかっていた。

 涙を腕で拭いて、進藤優成に聞こえるように呟く。彼に明かすことのできる数少ない本心を、呟く。

「そっかあ。やっぱり花火は初体験だったか。なんかうれしいね」

 言いながら、リュックから新しい花火を取り出す。

「貸して」

 一言で伝わったらしく、進藤優成は手に持った花火を草野芽生に向けた。草野芽生の花火に火が灯る。

 赤く炸裂する火花を見ているだけで笑顔がこぼれた。それが花火の力なのか、進藤優成といるからなのかは、草野芽生にはわからなかった。

 ただ一つ、言えるわけない、と思った。

 こんなに楽しいのに、こんなに離れたくないのに、もう会えないなんて、言えるはずがなかった。今まで嘘をついていたことを、言えるはずがなかった。あなたを忘れてしまうなんて、言えるはずがなかった。

 ――せめて、最後の花火までは。

 ――せめて最後の花火までは、ぜんぶ忘れて楽しませてください。

 誰が聞いているわけでもないのに、草野芽生はそうやって懇願していた。

 そのあと、二人は色とりどりの花火で遊んだ。

 二人だけの花火だったから、かなり時間がかかったが、時間なんて長ければ長いほど、草野芽生は嬉しかった。

 だがそんな時も永遠に続くわけがなく、ついに最後の二つになった。最後まで残っていたのは、線香花火だった。

「あ、もう次で最後じゃん」

 なんでもないように言ったが、内心は泣きたいぐらいだった。もう、タイムリミットが来てしまったのだ。

 しかし最後だからこそ、明るくすべきだった。今まで作ってきた明るいキャラクターを最後の最後に崩すわけにいかなかった。

 草野芽生は手の中に最後の花火を隠し、進藤優成に向かって笑いかけた。

「さあ問題です。最後の花火の定番と言えばなんでしょう?」

 進藤優成は苦笑した。

「それぐらい知ってるよ。線香花火でしょ」

「ありゃ。さすがに知ってたか」

「舐められちゃ困るな」

 進藤優成は線香花火を一つ受け取った。二人は向き合ってしゃがむ。

 その時、草野芽生は未だ、進藤優成にすべてを打ち明けることを拒んでいる自分がいることに気が付いた。

 浅ましい、と自分ながらに思う。だが言い訳ではなく、進藤優成を傷つけたくないのだ。自分の嘘で、言葉で進藤優成が傷つくところなんて、見たくなかった。

 そして同時に、思い付いた。

 もう逃げられないように、運に任せればいい。そして目の前の彼に託せばいい。

 なんとも消極的で、情けない結論だったが、そうしてみようという気になった。次の瞬間には、声が出ていた。

「ねえ」

「どうしたの」

 一息ついた。覚悟を決めるための一瞬だった。

「勝負しようよ」

「勝負?」

 怪訝な声が返ってきた。あたりは一面暗闇で、表情を伺うことはできなかったが、きっと彼は眉をひそめているだろうと思った。

「そう。線香花火の玉が先に落ちた方が負け。いいでしょ?」

「いいよ」

 拍子抜けしたような答えが返ってくる。だが草野芽生はいたって真剣だった。

「勝った方は、負けた方になんでも質問できる権利ね」

 なにそれ、と進藤優成は軽く笑った。

 これでもし、私の線香花火が先に落ちたら。

 ぜんぶを言おう。

「ね、いいでしょ?」

「別にいいけど」

 これで決まりだ。これでぜんぶが決まる。

 そう覚悟して、草野芽生はライターに火をともす。二人の足元が蛍のそれのような、淡い光で包まれる。

「同時に火つけるよ」

「分かった」

 二人は同時にライターの火に線香花火をかざした。ほぼ同時に、二つの花火がぱちぱち、と音を立て始めた。

 私は結局、どうしたいんだろう。

 揺れて、弾ける線香花火を見ながら草野芽生は考える。

 もちろん彼と離れたくないし、忘れたくない。

 でもそれが叶わない今、私はどうしたいんだろう。

 自分の気持ちがわからなくなることなど、今までなかったことだった。いつもなら、単純な感情だけが身体中を支配していた。でも世界にはもっと微妙で、名前の付けられない感情や思いがあるということを、頭に子葉が生えてから、進藤優成と出会ってから知ったのだ。

 そう思うと、やはり彼と離れるなんて信じられないことだった。もっともっと色んな感情を、教えてもらいたかった。

 しかしそれが叶わぬ願いだと知らせるように、草野芽生の線香花火が落ちた。後を追うように、進藤優成の花火も消える。

「あちゃあ、負けちゃったかあ」

 少しも悔しくなさそうに、草野芽生は呟いた。実際、どう思えばよいかわからなかった。ただ、嘘をついていたことを打ち明けたら、進藤くんはなんて言うだろうか、と思った。

「さあ、質問していいよ」

 言ってみたが、進藤優成の返答はない。迷っているのかもしれない。

 どんな質問だろうと、自分に関する質問がされれば、すべてを正直に答えようと草野芽生は思った。自分に関する情報のほとんどで嘘をついているのだから、必然的にそうなるのだ。

 進藤優成はまだ黙っている。暗闇のせいで表情が見えないから、こちらまで焦ってくる。思わず急かす。

「ほら、早く」

 間延びしていく沈黙を嫌うように、進藤優成がようやく、口を開いた。

「高校って、どんな感じなの」

 ――そんなの。

 言葉を聞いて、瞬間的に草野芽生は思う。全身の力が抜けていく。

 ――そんなの、私にもわかんないよ。

 罪悪感と徒労感が、抜けた力の代わりに身体を重くする。

 この人はどこまでも純粋で、素直だ。

 草野芽生はそう思う。

 だから自分の弱点を躊躇なく晒すことができる。だから見ているだけで苦しくなる。だから、私はこんなにも彼を愛している。

 進藤優成は何か言葉を続けたが、草野芽生は聞いていなかった。これで、秘密を打ち明ける機会はなくなったのだ、ということだけを考えていた。

 そう思うと、小さく言葉が洩れた。

「……情けないなあ。もう」

「そうなんだよ。情けないんだ、僕は」

 進藤優成は自虐するように返してきたけれど、自分に向けた言葉だった。この期に及んで少し安心している自分が、見栄ばかり張っている自分が、情けなかった。

 でも。

 そんな私にも、できることがまだある。

 草野芽生は自分を鼓舞した。

 彼は心の底ではきっと、学校に通いたがっている。自分では気づいていないかもしれないが、間違いない。私も同じだから、わかる。

 でも彼は怖くて、学校に行けないのだ。昔のトラウマが、どうしてもよみがえってしまうのだろう。

 その恐怖を忘れさせたい。

 そして気づけば言っていた。

「わかった。じゃあ行っちゃおっか、学校」

 え、と声が返ってくる。進藤優成は明らかに驚き、狼狽えている。

「今度、行こう。夜にでも忍び込もうよ。深夜なら、大丈夫でしょ」

「ちょっと待ってよ。僕は、学校そのものが駄目なんだ」

 沈痛な声だった。進藤優成がうつむくのが、暗闇の中でも草野芽生にはわかった。

「前にやったことがあるんだ。心療内科の先生に言われて。誰もいない学校ならいけるんじゃないかって。でも駄目だった。校門を見ただけで足が竦むんだ」

 言葉はデクレッシェンドするみたいに弱々しくなっていく。しかし草野芽生は根気よく続ける。彼のそばからいなくなる前に、彼を救いたかった。完全に救うことは叶わなくても、足がかりぐらいは作りたかった。

「大丈夫だよ。今度は私が一緒なんだよ」

 我ながら、なんの根拠もない言葉だと、草野芽生は思う。でもこれはたぶん嘘にはならない。私が彼を必要としている限り。彼が私を必要としている限り。

 だからお願い。本当にこれで最後にするから。今日で嘘は終わりにするから。

「ついてきてよ」

 言葉に込めた万感の思いが届いたのか、進藤優成はふっとため息をついたあと、受け入れるように呟いた。

「……わかったよ」

 その言葉がとてつもなく嬉しくて、ああ私はこの人を愛しているんだと、草野芽生は改めて自覚する。

「やった! 約束ね!」

 すると進藤優成がふっと笑ったのがわかって、それだけで幸せになれる気がすると、草野芽生は本気で思った。





「本当に、いいんですね?」

 いつもの医者は念を押すように草野芽生を見つめた。はい、と草野芽生は無機質に頷いた。

 アメリカ行きのことだ。草野芽生とその家族はアメリカに移住することを、何度も何度も話し合って決めたのだ。

 理由は様々あったが、草野芽生にとって一番大きな理由は、やはり進藤優成だった。

 彼と一緒にいながら彼を忘れていくなんて、そんなこと、受け入れられるわけがなかった。それなら、彼の前からきれいさっぱり消えてしまったほうが、よっぽど楽だった。

 医者は手元の資料に目を落とした。

「アメリカで草野さんたちが暮らす家はすでにおさえていますし、あちらの病院側との連携も取れていますので、最短で十日後には、アメリカに出発することができます。草野さんの身体のことを思うと、出発は早いほうがいいと思います」

 十日後。たったそれだけの日が過ぎれば、二度と日本に戻ることも、進藤くんに会うこともできないかもしれない、とぼんやり考えながら、「じゃあそれでお願いします」 と草野芽生は言っていた。

 その後もいくつか説明を受けて、話は終わった。

 もうこの医者に会うこともなくなるのだと思うと、少し寂しい気もする、と草野芽生は思った。

「賢明な選択だと思います」

 おもむろに、医者が言い出した。その目は手元の資料に落とされていたが、資料を読んでいないことぐらい、草野芽生にもわかった。

「日本に残っても、できることは限られていますから。やはり最先端の医療を受けることが、草野さんには必要だと思います」

 医者はどうやら励ましているようだった。励ましが必要そうな顔なんかしてたのか、と恥ずかしくなる。

「もしもその頭から植物が取れたら、その時は日本に帰ってきてください」

 不器用な励ましだった。頭から植物を抜いたら死ぬ可能性があると言ったのは自分だと忘れているような口振りだった。だがその不器用さがかえって心から励ましていることを示していた。なんだかんだいい先生だったな、と草野芽生は思った。

「先生には今まで本当にお世話になりました。短い間でしたけど、ありがとうございました」

 草野芽生はそう言って頭を下げた。診察室ではキャップをかぶっていないから、頭に生えた子葉も揺れた。

 顔を上げると、医者が言葉と同じぐらい不器用な笑みを浮かべていた。

「いやいや。正直言って、楽しかったですよ。今まで聞いたこともないような症状でしたし。世界初の症例に携われたのは、医者として誇りです」

 いつもは無遠慮な医者が気を遣っているのが面白くて、草野芽生も釣られて笑った。

 笑った時、草野芽生の脳裏には進藤優成のことがよぎった。

 彼と別れる時も、こんなふうに笑えたらいいと思った。






 花火から二週間、アメリカに発つ前日に、草野芽生は進藤優成と待ち合わせした。

 場所は、初めて二人で遊んだ公園。なんとなく選んだつもりだったが、来てみるとつい、感傷に浸りそうになる。

 今日で最後だと思うといてもたってもいられなくて、待ち合わせの時間よりも五十分も早く着いてしまった。深夜二時の待ち合わせだったから、デニムジャケットだけじゃ、肌寒い。

 寒いことはわかっていたけれど、厚着しようとは微塵も考えなかった。もし進藤くんがいつか私のことを思い出すことがあるなら、その時の姿は、お気に入りのデニムジャケットを羽織った姿であってほしいからだ。

 草野芽生は結局、進藤優成に対して細かい説明はせずに、別れることに決めた。アメリカに移住することになったことだけを告げるつもりだった。それ以上の余計な情報は、進藤優成を不幸にすると思った。嘘をついているという罪悪感を、自分が最後まで背負えばいいだけの話だった。

 申し訳程度に立てられたたった一つの街灯の下で、草野芽生は進藤優成を待つ。街灯に背中を預けながら、「待っている時間もデートのうち」なんて書いてあった漫画を思い出す。

 確かに待ち時間ですら、今までは楽しかった。人混みの中で彼の姿を探すのが楽しかった。これから始まる一日に、思いを馳せるのが楽しかった。

 でも今は、閑散とした深夜の住宅街に、いつまでも彼の影が現れなきゃいいのにと思う。

 彼が現れたら、そこからはもうカウントダウンが始まってしまう。別れまでの時間が、加速してしまう。

 そんな思いをするのなら、いっそいつまでも待っていたかった。ずっとずっと、待っていたかった。

 しかし、思いは通じることなく、進藤優成は集合時間の五分前には公園に来た。普段はその誠実さが好きだけれど、今だけは恨めしかった。

「お待たせ」

 そう言った進藤優成が両手を突っ込んでいたのは、渋谷で買い物した時に草野芽生が選んだパーカーのポケットだった。

「やあやあ、ずいぶん待ったよ」

 草野芽生はわざとらしくおどけて言ってみせた。最後まで彼の前では明るくいるつもりだった。進藤優成は苦笑していた。

「じゃあ、さっそく行こうよ」

 そう言って歩き出した自分が、草野芽生には信じられなかった。心はいつまでもこの場所に居たがっているのに、立ち止まって、進藤優成に触れたがっているのに。

 できるだけ軽やかに歩いた。いつも、進藤優成といる時にしているように。

 その足取りに合わせるように、カウントダウンが始まった気がした。





 草野芽生の視界に、目的の高校が入った。暗闇で見えづらいが、輪郭ぐらいなら捉えられる。

 高校に近づくたび、草野芽生は今までの学校生活のことを思い出した。

 とはいえ小学校のことは、もうほとんど思い出せない。記憶にもやがかかっていて、思い出そうとするほどもやは色を濃くしていく。本当に記憶が無くなっていくんだと、そのたびに実感する。

 必然、思い出すのは中学校時代のことになるが、はっきり言っていい思い出なんて一つもなかった。小学校の頃と同じように感情の制御が上手くできず、空気も読めなかった。そもそも転校生ということですでに浮いていたのに、その性質のせいで孤立した。不登校気味になったこともあった。

 振り返ってみると、今自分に友だちがいるということは、奇跡に近いことなのかもそれないと思う。でもその奇跡も、もうすぐ終わってしまう。

 そんなことを考えていると、ついさっきまで隣を歩いていた進藤優成の姿がないことに気が付いた。振り返ると、金縛りにでもあったように固まっている進藤優成がそこに居た。

「どうしたの?」

 声をかけてみたが、返事はない。中途半端に口を開くだけで、進藤優成は何も言わない。

 街灯に照らされた目が、おびえていた。それだけで、草野芽生は自分がすべきことを悟った。

 ゆっくり歩いて、進藤優成に近づく。そして、触れ合うほど近くなると、笑いかけた。何を言うでもなく、笑いかけた。

 すると進藤優成の瞳から、みるみる怯えの色が消えていく。

 このために、私は進藤くんと再会したのかもしれない。

 草野芽生はそう思った。

 進藤くんに学校へのトラウマを忘れさせるために、私は彼と友だちになったのかもしれない。

 だとしたら、嘘ばかりの関係も、少しは報われる。

 進藤くんのためになれることが嬉しかった。進藤くんのためなら、何でもできる気がした。

 草野芽生は進藤優成の手を取って歩き出した。意外にも大きく、ごつごつとした手を感じる。

 進藤優成のために手をつないでいるのか、そうでないのかは、草野芽生にもわからなかった。





 学校に忍び込むのはたやすかった。校門さえよじ登ってしまえば、玄関に鍵は掛かっていなかった。二人は靴を履いたまま下駄箱を通り過ぎ、手をつないだまま並んで歩いた。

 学校に入るのは中学校卒業以来と、約二か月ぶりだった。たった二か月なのに、やけに懐かしかった。

 月明りだけを頼りに、階段を上っていく。足元が見えないから、手を離した方が安全に決まっているのに、離す気にはならなかった。それどころか、いつまでもつないでいたかった。

 五階にたどり着いてようやく二人は廊下へと出た。そして適当な一年生の教室を選んで入り込む。月の光が良く入り込んで、電気をつけなくても周りがよく見えた。教室のドアにも、鍵はかかっていなかった。

 目標はクリアしたかな、と草野芽生は心中で呟いた。今日の密かな目標は、進藤優成を教室に連れ込むことだった。夜で、二人きりとはいえ、これでいくらか彼の中の恐怖心がなくなるかもしれないと草野芽生は思っていた。

 目標を達成したと思うと、急に寂しいような気がしてくる。もうこれ以上するべきことはないのだ。別れまでの時間が、加速する。

 そんな思いを振り払いたくて、草野芽生は進藤優成の手を離し、教室の真ん中まで歩いた。振り返って、進藤優成を見つめる。月明りが、二人の間を絶え間なく揺らしている。

「どう? これが高校だよ、進藤くん」

 問いかけたが、進藤優成はなにも応えない。寂しそうな目の奥に、少しの安堵を宿しているだけだった。しかし、それだけで十分だと草野芽生は思った。

 きっと進藤くんはトラウマを克服する。

 確信めいた思いが胸に広がって、安心すると同時に寂しくて妬ましかった。私は恐らくこの先の人生で、二度と学校に通うことはないだろうから。

 だったらせめて最後の登校を楽しいものにしようと、わざとらしく声を張る。

「ほら、進藤! 立ってないで座らんか!」

 進藤優成は苦笑して、素直に従った。適当な椅子を選んで腰かけた。

 草野芽生はまた、わざとらしく大仰な声を出した。

「じゃあ問題だ。三角形の面積の公式は?」

 進藤優成は心外そうな顔をした。すぐに顔に出てしまうところが可愛らしくて、愛おしい。

「簡単すぎ。底辺かける高さ割る2だろ」

「正解!」

 白いチョークで進藤優成を指しながら、今が永遠に続けばいいのに、と草野芽生は思った。

 でも。

 そういうわけにはいかないから。

「じゃあ、正解のご褒美として、何してもいいよ。私に。キスしたって、今なら文句言わないよ」

 わざとおどけた言い方をした。でも、本音だった。最後の思い出に、キスぐらいしたかった。

 進藤優成は分かりやすく顔を逸らした。やはりこの人は純情なんだ、と草野芽生は思う。そういうところも、大好きだった。

「冗談でも、そういうこと言わない方がいいと思うよ」

 そうだよね。言わない方がいいよね。

 でも、冗談じゃないの。

 今、言わなくちゃいけない、と草野芽生は思った。今を逃したら、二度と言えなくなる。だって明日にはアメリカに向かうのだ。

 言わなくちゃ。

 声が、出ていた。

「冗談じゃないよ。だって、もう最後だし」

 何気ない口調で言ったつもりだった。大したことでないように言ったつもりだった。しかしいざ言葉にしてみると、さいご、という響きはあまりにも重たくて、悲しくて、残酷だった。

「……さいご?」

 進藤優成の声は間抜けだったが、草野芽生はそれを笑えなかった。真剣な顔を作るので精いっぱいだった。そうしないと、きっと声をあげて泣いてしまうから。

「うん。最後。明日には私、また引っ越すの。ここからずっとずっと遠い場所に。だからもう、進藤くんには会えない」

 会えない、と言ってみて、その言葉が現実となって草野芽生を襲った。悲惨なまでのリアリティが、今までのぜんぶを打ち壊そうとしていた。

「会えないって、そんな。引っ越したって、会えるじゃんか。どこにだって、僕は行くのに」

 進藤優成の言葉は、さながら懇願だった。彼に必要とされていたことをこんな状況でも喜べる自分が、草野芽生には信じられなかった。状況を軽く凌駕するほど彼を愛していたのだと思い知らされているみたいで、嗚咽がこぼれそうになる。唇を噛んで、なんとかこらえる。血が口の中でにじむ。

「もう、駄目なの。私たちはもう、二度と会えない」

 自分までを、冷たく突き放す言い方だった。自分の言葉が、これ以上ないほど鋭く自分の胸に刺さる。

 進藤優成が声を荒げた。

「なんでだよ。なんで、急にいなくなるなんて言うんだよ。きみは僕にとって、やっとできた友だちなんだ。人生で初めてできた、友だちなんだ」

 ――私もそうなの。

 ――私も、進藤くんが初めてできた友だちなの。

 心が叫びたがっている。心臓が脈打つたび、叫びたがっている。

 進藤優成は尚も言い募る。

「手放したくない。もう会えないなんて嫌なんだ。明日も明後日も、会いたい。毎日だって会いたいんだ」

 ――私もそうだよ。明日も明後日も、毎日会いたい。

 ――でもそれじゃ駄目なの。私は全てを忘れてしまうから。あなたのこともいつか忘れてしまうから。

 心だけが先走って何も言わない草野芽生を、進藤優成は一度息をついて、まっすぐに見つめた。草野芽生も、進藤優成を見つめている。

「好きなんだ。どうしようもなく、草野さんが好きなんだ。草野さんのぜんぶが欲しくて、ぜんぶが知りたいんだ」

 何も、言わないつもりだった。本当のことはぜんぶ隠して、彼の世界から去るつもりだった。

 でももう、我慢できるはずもなかった。

 好き、という言葉がスイッチになったように、草野芽生の心を動かした。たとえどうなろうと、もうどうでも良かった。

 こんな自分を好きだと言ってくれる最愛の人に、嘘を吐いたまま終わることだけが許せなかった。

 草野芽生は、ゆっくりとした手つきで被っているキャップへと手を伸ばした。

 そして、そのつばを掴んで、脱いだ。

 次の瞬間、草野芽生の瞳に、驚愕する進藤優成が映った。

 後悔は、一つもなかった。

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