住宅街で狼と話す
2024年2月23日。
また、雨。日にちが経つにつれて段々と暖かくなる気がしていたのに、それを引き戻そうとするように雨は途端に降る。
それでも人々は傘を広げて、物見のように一箇所に集まっていた。
そこは都内の住宅街であり、裕福なものは寄せられるようにそこに住まうという。
されど、道を塞いで集まる人々の中にはそうでもなさそうな物がいる。
あまつさえ、その手にはスマートフォンが握られ、一つの住宅を見つめていた。
しかし皆、住宅に入ることはない。
なにせその住宅の門には「立ち入り禁止」のテープが貼られ、その前には一人の厳つい髭面の男が立っていたからだ。
「あー、皆さんね。ここは別にお祭りの場所だとかサーカスのテントとかじゃないんでね。さっさとどっかに行ってくれませんかね。邪魔なんで」
男は警察だった。
しかし警察らしからぬ言葉遣いに集まった者たちは気にすることなく、その住宅を前にずっと立ち止まっている。
「…………ったく。何やってんだよ、あの女たらし」
警察の男……呂畑ヲルトは誰にも気付かれぬよう小声でぼやいた。
最も誰もその言葉を聞くわけもなく、ただ住宅を観察していた。
……否、正しくは住宅の中にいると思われる……怪物を。
♢
住宅の中は誠に綺麗なものだった。
一階と二階が吹き抜けた風通しのいい住宅。
開放感もさることながら、家具や家電も一級品の物が多く、実に精錬された空間であるとも言える。
……真っ赤に染まり、ずっと倒れたままの四人の人間がいなければ。
誰もが横になったままだった。
それもそうだろう。人間であれば人間たり得る物が全員欠けていた。
例えば、動きを繊細に表すそれ。例えば、食物を消化し排出する為のそれ。例えば、考え話すためのそれ。
それらはどこにいったのだろうか。
それは唯一知っている者がいる。
その者というのは今……リビングにある椅子に縛られていた。
胴体は背もたれに、足は椅子の脚部に縛られていた。
何故か、ピンク色の縄跳びで。しかしその他にも青色の縄跳び、新聞を結ぶ時に使う茶色い紐でその身がめり込むほどに縛られていた。
「まるでパルプ・フィクションの最後のシーンみたいだね」
そして縛られた椅子を机が挟み、反対側の椅子には金色の長髪を垂らして金色の瞳を輝かせた女が……マテバなるリボルバー拳銃の銃口を包帯の巻いた右手で握りしめがら向けていた。
椅子に縛られた……狼の人間を。
「しかし私はジュールスみたいに信心深い怪物じゃなくてね。ま、そもそも私ら怪物はなんの神を信じたらいいんだろうねぇ。キリストはもちろん守っちゃくれないだろうしね。でもお釈迦様はぎりぎりまもってくれそうじゃないか?例えば蜘蛛の糸なんかを垂らして地獄から引き上げてくれてさ」
そう言いながら金色の瞳を宿した女……イブは掻き上げた自分の髪を左手で一本だけ、前に垂らしてみせる。
狼の人間の方へと。
「あんたは助けてもらえそうだね。何しろ、あんたみたいな歪なやつは早々いないからね」
そうして金色の瞳で、イブはその狼人間をまじまじと見つめる。
狼のような顔ではなく、体毛が全体を覆いながらも人間に近い顔を持つ狼人間の顔を。
「ごくたまに見るよ、あんたみたいな奴。雑種みたいな奴だろ?誰と性交したのかは見れば分かるがね」
「…………だったら」
イブが話し続けていると、歪な狼人間は口を開いた。
それは人間が発する言葉とまるっきり一緒だった。
「だったら?」
「助けてくれよ……俺……居場所がないんだ」
居場所。
涙ぐみながら歪な狼人間は話し続ける。
「同族の狼人間たちは俺を追い出したんだ……だからこういう生き方しか出来ないんだよ……」
「こういう生き方、ね」
イブは顔を背けた。
その金色の瞳は別のものを見つめた。
赤く染められた四人の人間たちを。
「お願いだ、助けてくれ」
歪な狼人間は懇願するように求める。
イブはまだ、人間たちを見ていた。
そして不意に問いかけた。
「あんたは蜘蛛の糸って知ってるかい?」
その一本の黄金の髪を歪な狼人間に左手で向け、四人の人間たちを金色の瞳で見つめながら。
「蜘蛛の糸……?知ってる。蜘蛛が尻から出す奴だ」
「そうじゃない。物語だ。罪を犯した悪人が、たった一つの善行を認められて、お釈迦さんから救いの手を差し出されるって話」
「それは……知らない」
「そうかい。じゃあ話を語ってもしょうがないから要件だけ聞くよ」
イブは金色の瞳を歪な狼人間に向けた。
一切の感情さえ出さず、無さえ感じられる冷たい表情で、問いかけた。
「あんた。この人たちは助けを求めていたはずだ。それを聞かなかったのかい?」
その言葉に歪な狼人間は歯軋り、答えた。
「仕方ないだろ……俺は食料さえ手に入ればよかったのに……騒ぎ出したんだ!この前の怪物騒ぎであんたのような処刑人が来ることは分かっていたんだ。だから……」
「そうかい」
また、イブは四人の倒れた人間を見つめる。
人間たらしめるものを失くした人間たちを。
「でもここまでする必要はないだろうに」
「…………」
無言。
リビングは空調がよく効いており、エアコンの稼働音も微弱に聞こえていた。それは倒れている人間たちにも心地よいことだろう。
それを感じられる心が働いていれば、だが。
「…………ずっと、腹が空いていたんだ」
歪な狼人間は、言った。
「俺にも狼の血は流れているんだ……だからあの人間を見た時……美味しそうだと思った。生きている人間だから新鮮だろうとも思った……そして実際……想像よりも美味しかった」
茶色の瞳を輝かせた歪な狼人間の表情は、どこか心地よく光悦に浸っているような気がした。
「止められなかった。久しぶりだった。何より……美味しかった」
美味しかった。
それは餌とされたものに対しては褒め言葉なのだろう。
餌として生きた生物にとっては褒め言葉なのだろう。
しかし人間は、その認識では生きていない。
味覚を感じないイブにとってその言葉は本当に意味が分からなかった。
「そうかい」
イブはその前髪の一本を戻すようにして、金色の髪を掻き上げた。
そして、金色の瞳で歪な狼人間を見つめて、言った。
「その話をお釈迦さんが聞いたらさぞお泣きになるだろうね。そして言うだろうさ。「この者は死罪です」ってね」
包帯で巻いた右手で、マテバのハンマーを起こしながら。
「た、助けてくれ!」
「助けてくれ?どの口が言ってるんだい?そして誰に言ってるんだい?私は神に認められてるんだよ。
イブは淡々と話している時、急に黙り込み、天井を見上げた。
吹き抜けた天井。雨が降り注ぐ様を見ることのできる窓を。
そして再び、金色の瞳で歪な狼人間を見つめた。
「ダメだね」
パンッ。
それはあっさりとした乾いた音。
酷い有様に対して、歪な狼人間はあっさりと顔を下に俯いた。
その頭部の体毛を徐々に赤く塗りながら。
「もう出てくんなよ」
イブは立ち上がった。
そして倒れたままの四人の人間たちの元へと歩み寄り、立ち止まる。
一人の人間……一人の女の前に。
まるで生きたことを後悔したような表情を浮かべた女の横にしゃがみ込む。
「すまない。長い間戦っているがいつもこうだ。いつも最悪の後に来ることしか出来ない」
女の体はやはり全身が赤く染まっていた。
それでもイブは抱き寄せる。黒いコートが赤く染まりながらも、女の表情を見つめる。
「あんたみたいな綺麗な女はずっと綺麗なままでいて欲しいさね」
その白い素肌が剥きでた左手でそっと、女の顔に触れる。
これ以上の最悪を見れないように瞼を閉じさせてから、イブは自身の顔をゆっくりと、女の顔にぴったり寄せた───。
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