食物連鎖
2024年2月10日。
近頃はところどころの大雨で過ごしにくい毎日だったが、ようやく太陽が照ってきたこともあり多少は過ごしやすくはなっていた。
それに春の訪れを予感させるのか、徐々にだが気温も上がっているらしい。
おかげで衣服をどうするか人間たちの頭を悩ませる毎日が続いているようだった。
……怪物は別だが。
怪物は衣服など身につけたりはしない。
都市部からかなり外れた場所に位置する山間部、そこでひっそりと暮らす怪物がまさにそうだ。
しかしその姿を怪物と言っていいだろうか?
頭にはまるで螺旋に曲がった二本の角を生やして、四足の足でゆったりと立つ。まるで鱗のような紫色の皮膚が張り付いた胴体は大きく見えるが、その脚部はまるで山羊のように鋭く細い。
レイヨウと呼ばれた動物たちにも似た怪物。
だが他の怪物と違う点は決して人間を襲わないこと。
レイヨウ獣と呼称されたこの怪物は人間への恨み、また血人種への恨みをすっかり忘れて、この人もいない山間部で動物たちの食物連鎖に加わることにした。
一体どうしてこうなってしまったのか。
実のところ、このレイヨウ獣にもわかっていない。
生まれてから数年しか経っていないし、その事情も親からは聞かされてはいない。
だから自然の中で過ごし、他の動植物たちと混じり、生きていくことが道理だと認識したのである。
だからレイヨウ獣は今日も自分の餌を求めて険しい山道を歩いていく。
その動きは手なれたもので舗装もされていない枯葉だらけの道も細い足でゆっくり歩けるし、岩肌だらけの川沿いさえも細い足で突き刺すように歩いては容易に跳ねていった。
だが自分を狙う存在も存在する。
それは弱肉強食の食物連鎖に加わっているのだからしょうがないこと。
例えば、熊。
自分と同じ大きさの茶色い熊がのろりと自分の前に来る。
「…………」
そこは木々が自然に立ち並ぶ林の中。
熊はだらりと涎を垂らし、レイヨウ獣を睨みつける。
熊といえばこの時期は冬眠することで有名だが、どうやら近頃は餌不足に悩まされているらしい。冬眠するほど十分に満腹になることができず、森の中をひたすら彷徨っていたのだ。
そんな折、茶色の熊はレイヨウ獣を見つけた。
熊はもはや、まともな思考は持っていなかった。
自分が生きる為に喰らう。ただ、それだけ。
「…………」
レイヨウ獣は目の前の熊の様子を哀れだと思った。
なにせ満足に食事ができていないことは、この血走った様子の熊を見ても明らかだったから。
しかし、どうしても自分の身を差し出したいとは思わなかった。
差し出しても、この熊の空腹は決して満たされることはないだろう。
たった一瞬だけ満たされるだけ。
それにレイヨウ獣も生きていかなければならない。
この自然の中で。
だからレイヨウ獣はその螺旋を描いた角を、向けた。
「ーーーーーーー!」
茶色の熊はその動作を攻撃の意思と捉えた。
すると仁王立ちするかのように立ち上がり、熊はその口を大きく開き、叫んだ。
「…………」
まるで林の中にまで響くのではないか。
そうレイヨウ獣は思った。
そしてまた、この熊は自分を見失っているとも。
例え他者が他者を喰らう世界だとしても、自分を見失ってはいけない。
まるで諭すような感情が芽生えた時───レイヨウ獣の角は伸びた。
その螺旋はピンと真っ直ぐ伸びる。それは何も熊を攻撃する為ではない。
伸びて熊の目の前へと近づいた瞬間、その硬い角は柔らかくしなやかに変形していくと、途端に熊の全身へと絡まっていく。
まるで二匹の蛇が全身を絡めとるように。
「ーーーーーー!」
当然、熊は叫ぶ。
自分の置かれた状況に対する怒りを。
「…………」
茶色の熊を捕まえたまま、レイヨウ獣は目を閉じる。
そして思考する。
───眠れ。
たった一つ。そう念じた。
そうするとどうだろう。
絡まった角は微弱に震える。
熊にとってその揺れは最初、不快なものでしかなかった。
なにせ絡まれたまま、何もされず、突然角が揺れだしたのだから。
どれほど暴れようとしても、その角の拘束力は強く一切動くことが叶わない。
だが……途端、熊は声を発することをやめた。
拘束されたまま微弱な振動を受け続け、まるで身体中の筋肉が緩んだような気になった。それに空腹という極度の緊張に包まれていた思考が妙に緩やかになってくる。
そう思うと熊は途端、目を閉じた。
最初は嫌っていたこの振動も、すぐに心地よくなっていく。
そのゆっくりとした揺れさえも受け入れてしまう。
そうして熊は声を出すことすらやめた。
ただじっと目を瞑り……ぐうっと寝息を立てた。
「…………」
茶色の熊が眠りについたことを確認すると、レイヨウ獣はその角をゆっくり解放すると、解放するように枯葉だらけの地面へと横たわらせる。
熊は酷く疲れていたのだろうか、ずっと目を瞑り、安堵の世界を夢見ていた。
「…………」
もし人間であれば、無益な殺生はしないのかもしれない。
だがレイヨウ獣は眠った熊に対して……その角を突き刺した。
その頭部へと。
「───」
それもまた、一瞬の出来事であった。
頭部の脳を貫かれ、熊は一瞬だけ声にならない叫びをあげたかと思うとすぐに目を閉じた。
おそらくは自分の終わりを実感したのだろう。
すっかり頭部には風穴が空き、レイヨウ獣の角の一本が赤く染められる。
それは熊の生命の色であったのだが、茶色の熊は一生目覚めることはない。
いや、それもいいだろう。
レイヨウ獣は思う。これほど生きながらえても、結局は餌に困り、冬眠も越すことが出来ないのだ。ではいっそ終わりを告げ、他の生命の糧にするべきではないか。
例えば……自分という存在に。
レイヨウ獣は大きな胴体を揺らし、そっと近付く。
自身もまた空腹であったから。だから少しでも生きながらえる為にはこの生命をいただくしかない。例え一瞬、空腹を満たす行為であったとしても。
熊の置かれた状況は自分にも当てはまることなのだ。
……だからこそ自分の状況もまた哀れと言わざるえない。
しかしそれは致し方ないことだろう。
それが自然を生きると言うことなのだから。
そうしてレイヨウ獣が一歩、踏み出した時だ。
───自分の胴体に誰かが乗り掛かったような重みを感じたのは。
「れいよーう。れいよーう」
その声の主は実に上機嫌に歌っていた。
「みーつけた。まさか怪物の癖に人間を襲ったことがないなんて。研究所から抜け出した怪物はほとんど人間を襲ってはその場しのぎに自分の糧にしちゃうのに。ここでゆっくりするよりか、大量の人間を自分の糧にした方が幸福でいられる時間が長くなると気付かないの?」
その声の言葉、レイヨウ獣の耳には入っても表面的な言葉の意味は分からなかった。なにせ人間の言葉など、知らないのだから。
しかし、その意味は何故か理解できた。
なにせ自分のような道外れた存在に会いにくる存在というのは限られている。
自分という存在は異質。それはこの森の動植物たちを見て実感することが出来た。
なれば、この存在。
おそらくは自分の異質さを求めて来たのだろう。
「…………」
レイヨウ獣は鼻息を立てた。
「あら」
その様子に、声の主は飛び降りた。
飛び降りたと同時……何かが置かれた気がレイヨウ獣にはしていた。
それは人間の知識がまるでないレイヨウ獣にとっては未知の者。されど人間、それも戦いに身を置く人間であれば理解できたであろう。
……安全ピンの抜かれた手榴弾がたった5秒でぼんっと爆発した。
「ーーーーーーーー!」
レイヨウ獣は悲鳴をあげた。
それはまるで背中をくり抜かれたような、そして焦がすような痛み。
そこから何か小さな破片が埋め込まれ、それが悪さをするような痛みさえも感じられ、レイヨウ獣はよろける。
「ま、死なないわよね。普通の動物でも死なないもの。でも生き地獄は味わえるでしょう?」
そうして声の主は笑いながら、レイヨウ獣の前へと躍り出る。
その姿は……金髪の女の姿。
「本当はね、私があなたを食べたかったの?だってレイヨウって食べれるんでしょう?そうよねそうよね。牛なんだから食べれるわよね。しかも人間を喰らったことがない自然由来のお肉なんて絶対に美味しそうじゃない、そうでしょう!?」
その姿たるや、まるで生命を踏み躙るような姿だと痛みを抱えたレイヨウ獣には思えた。
その笑みは、レイヨウ獣でもわかるほど、笑ってはいなかった。
「でも残念。私はね、不味いのがいいの。不味ければ不味いほどいいの。それが私の糧になる」
その金色の瞳でレイヨウ獣を見つめながら、金髪の女はレイヨウ獣の細長い顔を強く掴んだ。
レイヨウ獣の意識がはっきりするほど強く。
「だからあなたは食べない。私は食べない。あなたを食べても私のものにしたくないから。あなたのようなものは私の中にはいらないから、食べない。だけどそのまま死ぬなんてことは許さない。怪物は道理から外れた存在。故に死ぬことも道理から外れなくちゃいけない。一切の例外なく、全てを道理から外さないといけない」
その金色の瞳は強く、レイヨウ獣の瞳を見続ける。
まるで輝くように見える金色の瞳をレイヨウ獣は背けたかった。
しかしその金色の瞳は、自分の意識を捕らえたように離さなかった。
「だから別の怪物の糧になってもらう。怪物の食物連鎖。怪物もまた、そうであるべき。怪物もまた弱肉強食の世界を生き、弱いものは淘汰され、強きものはピラミッドの頂点に君臨する……私の為にね」
金髪の女がまるで身勝手な理屈を並べていた時。
レイヨウ獣はふと気付いた。
金色の瞳、それに映る小さな姿。
それはまず点でしかなかった。
しかしそれは体を赤く染め上げながらもゆっくりと瞳の中で大きくなってくる。
レイヨウ獣でさえもわかる。
瞳の中で徐々に大きくなって近づいてくる、その頭部は……蝙蝠の頭部。
黒い体を赤く染め上げた蝙蝠の顔は瞳の中から突如、飛び出した。
ぐちゃり。
びちゃり。
刹那、金髪の女の頬がほんの少し、ほんの少しだけ赤に塗られた。
金髪の女はにやりと笑いながら、その手で頬をなぞり、そして指を舐めた。
「うーん……やっぱり美味しいわね」
金髪の女はにやけが止まらずにいた。
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