六十三話 嫌な予感




 何も知らないアニスは、ナーダスと宿の方へ向かっていた。


「大丈夫かい?」


 ナーダスが心配そうに聞いてくれる。アニスは頷いたが、本心は全然、大丈夫ではなかった。


 何だろう……。

 得体のしれない恐怖が込み上げてくる。

 何だか、嫌な予感がしてたまらない。


 足が震えている。

 自分を叱咤しながら歩いたが、なぜか足が前に進まなかった。


 怖い。ドアを開けるのがこんなに怖いなんて。


 ドアの向こうは静かだった。隣に立つナーダスの額にも汗がにじんでいる。


「ここが借りていた部屋なんだね?」

「え、ええ……」


 声が震えていた。

 タンジーとジョーンズに何が起きているの?

 ナーダスの杖を壊したタンジーが宿に戻った話を聞いて、アニスは不安でたまらなかった。


「開けるよ」


 ナーダスが言って、ドアをそっと開けた。


「ジョーンズ?」


 ノックしないで大丈夫だったかしら、とそっと部屋の中に入ると、アニスは、ベッドで寝ているジョーンズと、それにまたがるタンジーを見て口を押さえた。


「いやっ」


 目を逸らし、部屋を飛び出そうとするとぐいっと髪の毛をつかまれた。

 いつの間に背後に回ったのか、タンジーの顔が息がかかるほど近くにあった。そして、タンジーの手がいつの間にか首にまわされ、頸動脈を押さえられていた。


「アニスっ」


 ナーダスが助けようとしたが、タンジーの方が早くアニスの首を絞めつけた。


「動くな、ナーダス。王女を殺すよ」


 ナーダスは立ち止まったが、目を見開いて妹だったはずのその姿を見つめた。


「タンジー……なのか?」


 ナーダスは小さく呟いた。


「待っていた、王女よ」


 アニスは声を出せず、首を絞められている。

 タンジーのどこにこんな力があるのか。

 あまりの痛さに涙が出る。

 すると、タンジーは、アニスを床にたたき落とすとヒールでこめかみを踏みつけた。

 その時にはタンジーは、メランポードへと姿を変えていた。


 見たこともない女性がアニスの頭を踏みつけている。

 動けずにいたナーダスは首を振った。


「誰だ? これは……僕の妹じゃない……」


 そう言ったナーダスに対して、メランポードは笑った。


「あんたの妹だよ。だが、もう、魔女見習いじゃない、生まれ変わったの。あたしは力を得たからね。でも、セント・ジョーンズ・ワートの力を持ってしても、鍵の呪文は解けなかった。アニス王女、あんたの力が必要だ」

「あなたは……誰?」


 アニスはうめいた。


「あたしはティートゥリー様に選ばれた。メランポードよ。覚えておいて、と言いたいところだけど、あんたは今日死ぬからね」


 メランポードは、アニスの頭をさらに強く押し付けた。


「さあ、鍵にかけた結界の呪文を解くんだ。でないと、この男を殺す」


 ベッドから浮き上がったジョーンズのお腹からは血が出ていた。


「ジョーンズっ」


 アニスは悲鳴を上げた。


「なぜ、こんなひどいことをするのっ」

「欲しいものを奪って何が悪い」


 この邪悪な魔女に何を言っても無駄なのだ。

 アニスは泣きながら力を振り絞った。


「ノアを取り巻く結界の力、全て解放します」


 アニスの呪文により、ジョーンズのお腹の鍵にかけられた結界が解除された。

 メランポードはその言葉を聞くなりアニスから離れると、ジョーンズに飛びついて、彼の腹に爪を立てた。


「やめてっ」


 ジョーンズの腹に爪が食い込み、鍵に触れるとそれを強引に引っ張りだした。

 ジョーンズのお腹から一気に血が溢れだす。

 どさりとジョーンズが床に倒れた。


「殺さないでっ。お願い、やめてっ」


 アニスの叫び声にナーダスがはっとして、ジョーンズの体に飛びついた。シトリンを押し当てて、止血をする。

 シトリンが光り、ジョーンズの体から徐々に血が止まっていった。


 メランポードは鍵に夢中で、その手は喜びで震えていた。

 アニスは体を起こしたが、頭を押さえつけられていたからか、ふらふらする。床に手をついて頭を押さえた。


「やったわ、鍵が手に入った!」


 メランポードは鍵を右手で握りしめ、左手は壁に手をついた。


「冥界へ通じる扉よ、実体化せよ」


 メランポードの呪文により、鈍色にびいろをした観音開きの扉が姿を現した。

 アニスはかすむ目を押し開けて、阻止しなくてはと体を起こした。


「……風の魔法よっ。全力で魔女の力を封じるのです」


 呪文を唱えると、窓の外から風が吹き込んできた。部屋のベッドや机と椅子が浮かび上がり、現れた扉が開かないように山積みになっていった。


「小賢しい真似をっ」


 メランポードはそれらを魔法で払いのけ、アニスに向かって力を放出した。


「きゃあっ」


 アニスが吹き飛ばされ、ベッドや机で部屋の中はめちゃめちゃだ。アニスが床に投げ出されると、突然、背後から赤い炎が飛んで来た。メランポードの手が燃えて、鍵がぽとりと床に落ちた。


「くそっ」


 メランポードは慌てて鍵を拾い上げる。

 アニスの目の前に銀色のローブをまとった男が現れた。


「お師匠さま……っ」


 アニスの前に立っていたのは、フェンネルだった。


「アニス、わたしは待っていたのだよ」


 フェンネルが悲し気に言った。

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