第21話 奈落に射す光

 呪詛を吐き捨てるような声音に、息を呑んだ。


 ――あの男?


 聞き返すのも躊躇われ、ただ言葉の続きを待つ。御影さんの目には、その相手が映っているのだろうか。虚空を睨み据える暗い瞳に、刹那、剣呑な閃きが宿る。


「私が小学校に上がる頃でした。母が再婚しました。相手は母の職場の上司。まだ年若いのに、優秀な敏腕社長。美しかった母は見初められ、いわゆる玉の輿に乗った訳ですが、待っていたのは地獄のような日々でした。穏やかで品行方正で、優しく誰からも好かれる完璧な人柄の夫。……しかし、それは表向きの仮面に過ぎなかったのです。奴は、母が自分の思い通りに動かないと気に入らず、歪んだ理論と時には暴力をもって精神を支配する、最低な人間だった」


 モラハラ。DV。そんな単語が脳内に浮かんだ。


「夕食のお菜が冷食だった、自分よりも遅くに起きた……そんな些細なことで、奴は母を責めた。決して怒鳴り散らすことはなく、ただ淡々と……しかし、執拗に。最初に肉体に痛みを与えて、そのくせ次には優しく抱擁する。恐怖と愛情を交互に与えて縛り付ける、一種の洗脳です。気が弱く自己肯定感の低かった母は、奴にどんなに酷いことをされても自分が悪いからだと思い込んでいました」

「酷い……」


 たとえ何か非があったとしても、暴力で相手を従わせるなんて、絶対におかしい。ましてや、そんな理不尽な理由で……。


「自分のことでは奴に一切の抵抗を示すことのなかった母でしたが、奴が幼い私に対しても同じように暴力を振るい始めた頃、母は私を連れて家を出ました」

「!」


 ――御影さんも?


 さらりと告げられたその事実に、オレは衝撃を受けた。

 それから、思い出す。彼の身体の古傷……あれは、喧嘩で付いたものだけでは無かった?


「母との逃亡生活は長くは続きませんでした。金と権力だけは持った奴です。私達はあっさりと見つかって、連れ戻されました。待ち受けていたのは、苛烈な折檻。言いなりだと思っていた奴隷が自分に叛いたのが余程腹に据えかねたのでしょう。この時の奴は、度を越えていた。……結果、悲劇が起きてしまった」


「母が死にました」――その言葉は、すぐには理解出来なかった。

 唖然とするオレを置いて、御影さんは続ける。


「奴が殺した。なのに、奴は金と権力でそれを揉み消し、母の死はあくまでも事故という形で処理されました。まだ子供だった私の言葉なんて、誰も信じなかった。……いや、本当は皆分かっていたけれど、警察も奴の味方だったんです」


 オレは何も言えなかった。今しがた聞いた情報が、頭の上をすり抜けていく。そんなことが、実際にあっていいのか。


「その後、私は一人で家を出ました。とても、母を殺した男の元になんて、居られなかった。幸い、あの男は母ほどには私に興味が無かったようで、私は積極的に探されることはありませんでした。奴にとって、私は母の付属品程度の認識だったのでしょう」


 それからは、転々と……泊めてくれる人の家を渡り歩くこともあれば、浮浪者のように外で寝泊まりをすることもあったと、御影さんは何てこともない風に語った。

 事情を知られて連れ戻されては困るからと、福祉施設には頼れなかった。何せ、相手は警察にも顔が利くのだから。

 オレよりも小さな、まだ年端もいかない少年が、そんな過酷な状況に置かれるなんて……オレには想像もつかなかった。


「その内に私は、一つの街に落ち着きました。都会の隅には、私のような帰る家の無い子供達が集まる掃き溜めみたいな場所も存在するんです。そこでは皆、相手の事情は必要以上に詮索しない。ただ、力を持つ者だけが正義で、弱い者は搾取されるのみ。後は、貴方にもお話した通り、私は暴力に明け暮れる毎日を送っておりました。――あの日、貴方にお会いするまでは」


 ここでようやく、御影さんはオレを見た。目が合う。変わらぬ紫の瞳。


「ご存知ですか? 紫の瞳は、昂りを覚えると若干赤みを帯びるんです。それがまるで化け物みたいで気色悪いと、あの男には嫌われていました。一応の仲間だった街の連中にも、気味悪がられていた。……人を殴る時に、目が赤く染まるんです。それはまぁ、他者からしてみれば悪魔みたいに見えたでしょうね。……それなのに貴方は、この瞳を綺麗だと言った」


「嬉しかった」――嘆息するように、彼は零した。


「嬉しかったんです。誰からも、母からすらも忌み嫌われるこの瞳が、おそらく、私自身が一番嫌っていたこの瞳が、純粋な貴方に綺麗だと言って貰えて……私が、どれだけ嬉しかったか、どれだけ救われたことか……分かりますか?」


 問い掛ける眼差し。熱の篭ったその瞳に、赤が上っていく。初めて見た時と同じ、幻想的で美しい色彩。真っ直ぐに射抜かれて、心臓までも鷲掴みにされたような気がした。


「貴方は私にとって、奈落に射す一筋の光なのです。貴方の存在が、私の生きる理由。貴方の幸せが、私の幸せ。……決して、貴方に害を成す気はありませんでした。陰から見守っていられれば、それで良かった。それなのに光に触れたいなどと欲を掻き、結果、貴方を怖がらせてしまった。これは、許されざる罪です。――どうか、貴方の手で断罪を」


 話は、最初に戻ってきた。遂に、決断を迫られる。

 オレは……。

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