第24話 馬車の中の密談①

 滋養のある食事と目や鼻から入る花の色や香りといった癒し効果のおかげか、翌日にはすっかり全快した私はすぐにアメリアの家庭教師業務に復帰した。

 私の可愛い教え子は自習期間中も読書に余念がなかったようで、授業を再開するとすぐにこの三日間で読みふけった本の感想から彼女なりの考察をまとめたレポートを出してきた。手紙で宣言していたように、読んでいたのは主に歴史書らしい。将来の王妃になるのであれば、必須科目のひとつだ。

 歴代の王が行った政治の特徴、国土や領土の歴史、聖女の役割などがしっかりまとめてある。とんでもない学習意欲といえた。おまけに国内のどの地域にどんな動物が生息しているかまで書いてあったのが、彼女の生き物好き具合を表していてほほえましい。

 がんばりましたねと褒めると、頬を赤らめたアメリアはまるで天使のようだった。大人びているけれど、そういうところはまだ十歳、十一歳の少女というところだ。しかし遅れていた分を取り戻そうと復帰に意気込んでいた私を、「病み上がりだから」といって早めに解放しようとするところは公爵よりよほど大人の対応だと思った。


 そしてそんな失態を繰り返さないように取った次のお休みのことだった。

 ちょっとゆっくりめに朝食をとって一休みしようとしていた私は、なぜかアメリア、ソフィさん、公爵の四人で馬車に乗って出かけていた。

 行先は王都の繁華街。商店や飲食店が立ち並ぶ商業地区の中でも、特に高級な店が多い区域だ。

 王家に連なる公爵家の姫君は、普段であれば何の買い物であっても屋敷に外商を呼ぶ。しかしそれでは世間というものから隔絶されてしまうため、たまにこうやって公爵とアメリアは連れ立って外へ出るのだという。

 ずっと屋敷にこもりきりの妹を社会科見学させるという名目で行われるこの「遠足」に、どうしてお休みをもらっている私が参加しなければいけないのか分からない。けれどものすごく楽しそうにしている少女の横顔を見るとむげに断ることはできなかった。

 その結果、アメリアがソフィさんと小さな雑貨店へ入っていくのを馬車の中から見送る羽目になっている。

 さっきまではたまのお出かけにはしゃいでいたアメリアの声があったので救われていたが、二人きりになった途端に馬車の中は重苦しい沈黙が漂ってしまっていた。

 私としては、アメリアの授業進度くらいしか提供できる話題がない。しかし公爵家に世話になって以降、どうにも公爵本人との距離の取り方を測りかねていた。

 前世で見た彼と今の彼が違う人生を歩んでいて、ほとんど違う人なのだというような理解には落ち着いたけれど、なにせ卒業式からこっちは振り回されっぱなしなのだ。

 妹思いの良い兄君の顔を見せたかと思えば、王子に対して何か思うところがある風にも見えたり、皮肉屋なのかと思えば言動はただの子どもなのかと思わされたり。

 当の公爵は黙って腕を組んだまま、窓の外へと視線を投げたまま動かない。口を開こうという素振りもない。

 ああ面倒だ、私も雑貨屋に入ってしまおうかと思って腰を浮かせたとき、公爵の口もとに目が行った。

 そして、中腰のまま姿勢が固まった。

 夜会のごたごたや発熱でうっかりしていたけれど、この人は私に口づけを――と頭の奥底で蓋をしておいたはずの記憶の箱が開いてしまったのだ。

 薄暗いリビングの景色と、近すぎるほど近くにあった公爵の顔が脳裏をかすめる。

 もちろんそれは記憶の中の公爵だ。しかし反射的に仰け反ってしまい、がたっと音を立てて私の背が馬車の壁に当たる。打ち付けた痛みに顔をしかめたかったけれど、それより頬が急激に熱を持った。


「急にどうした?」

「い! いえ!」


 慌てて首を横に振ったが公爵は訝しむように私の顔を覗き込んだ。


「なんだ、顔が赤いぞ?」

「何でもありません。き、気のせいですよ!」

「いや、首近くまで真っ赤だ。まさかまた熱がぶり返したのか?」

「いえ、大丈夫ですお気遣いなく!」


 必死に首を振り続ける私に、公爵はますます不審な目を向ける。そしてじいっとこちらを見ていたかと思うと、ああと何か得心したように目を見開いた。

 しかし追及が止んだことに安堵する間もなく、にやりと口角を吊り上げた公爵は私を見つめたまま腰を上げた。そのままずいっと身を乗り出してくると、狭い車内では逃げ場がない。後ずさる代わりにぎりぎりまで深く座るがそれでも公爵の顔が近寄ってくる。私は車内の壁に背中が貼りつくほどに追い詰められた。

 いつの間にか、公爵の黒い瞳の中に慄いた自分の顔が映りこんでいるのが見えるほどに近寄っているではないか。


「あ……あの……!」


 近寄られる圧力に耐えかね、私は大きな声とともに両手を前に突き出した。だがそれは簡単に避けられてしまう。あっと思ったときにはもう目の前に公爵の顔が迫っていた。


「どうした? 急に俺を意識したのか?」

「ち、ちが……!」


 違わない。けどそれを肯定はしたくない。でも何かしゃべってまた唇を塞がれてはかなわない。私は両手で口もとを覆った。


「近すぎ……離れてください……!」

「何で口を隠す?」

「いや、それは……!」


 あなたのせいでしょう、と眼前に迫る黒い瞳をにらみつける。この間の夜会でも分かったけれど、縁談を持ってくる貴族が大勢いるような社交界の華の一人が何故私などに構うのか。私じゃなく、他にもっと構われたいご令嬢がいるだろうに。

 しかし公爵自身は私の批判に満ちた視線など意に介した様子もない。じいっと目線を合わせて見つめあうこと数秒。突然彼の目が大きく揺れた、と思った途端に公爵が顔を伏せた。そしてすぐさま彼は体をのけぞらせるようにして笑い出したのだ。


「な……なに……?」


 額に手を当てながらも大口を開けて笑い続ける公爵の姿に困惑が止まらない。まさか公爵の気が触れたのでは、と思わず彼の肩に手を伸ばした。掴んだ肩を二、三度揺さぶると、ほんの少しだけ笑いの勢いが収まるがそれでもまだ公爵は顔をくしゃくしゃに歪ませたままだ。


「公爵様、大丈夫ですか? どうしたんです」

「いや、大丈夫大丈夫……あまりに君の様子がおかしかったから……」

「……おかしい?」


 私が? 

 何が?

 言っていることの意味が分からずぽかんとしていると、公爵は笑いすぎて目尻に滲んだ涙を手の甲で拭った。


「原因は、この間のあれだろう? 全然気にしていないのかと思ったが、そうでもなかったということか」


 そう言うと、公爵は自分の唇を指さした。

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