第24話「腐った恋花」

・この話の主な登場人物

「深田 光憲(ふかだ こうけん)」三十八歳:外務省のアジア大洋州局に勤務

「上戸 里美(かみど さとみ)」二十四歳(当時):深田の恋人





 先の話で、深田の少年時代の一部を紹介したが、なかなかどうして、心の歪みを垣間見るにはあともう少し説明が必要になる。


 深田光憲の両親は、彼が中学生に上がったころ、母親が出て行ったことが決定的になり離婚が成立する。その後、母親とは会ってはいないが、メールでは定期的に連絡を取っていた。しかし恐らく良い人が見つかったのだろう、徐々にメールの頻度が減っていき、深田が成人するころにはメールは来なくなった。それでも深田は淋しいなどという感情はまったくなかった。母親に対する依存が元々なかったのは、世話をしてくれたのは、家の使用人がほとんどだったからである。


 大学四年生の夏に、父が、つまり家妻雪夜の父でもあるが、その父親がガンで他界する。父親は実業家であったため、遺産は相当なものだったが、父親は生前からの遺言で、遺産の全額を海外の慈善団体に寄付すると残していた。そのため深田光憲は、大学卒業後はほとんど無一文で社会に投げ出されることになったが、そもそも父親の遺産など、まるで執着はなかったのでなんとも思わなかった。





 ここまでの説明でお分かりになるだろうが、深田光憲の人格は、生まれ持って来たものと、育成段階で植え付けられたものとが絡み合って形成されている。ここらへんは私たちと特段変わりはないのだが、深田に関しては、人へだとか物への情念の側面に、必ず無関心という性格が張り付いていた。しかし、ついに深田光憲が無関心でいられない心持ちになってしまう出来事が、人生で初めて訪れてしまう。





 ただ一点、彼の人生で無関心では通せなかった出来事。それは女性との恋愛に関してだった。彼はまさに英才教育を受け、一にも二にも学問に没頭してきた少年期がある。もちろん学生時代に恋愛をしたことはあった。しかしそれは彼からの一方的な片思いだったり、すれ違いの純愛だったりと、つまり成熟した男女の付き合いをしたことがなかったのである。


 だがそんな彼も、外務省に勤務するようになり、辺りの環境も学生時代からは比べ物にならないほど激変していった。


 そしてようやく知人の紹介で、ふたつ年下の女性と出会い、久しぶりに深田に熱い恋愛感情が芽生えたのである。彼女の名は上戸 里美(かみど さとみ)といった。里美は横浜の大手商社に勤めており、激務の外務省に勤めている深田は、彼女のためになんとか時間を捻出し、一緒に食事をしたり、ドライブをしたり、ショッピングに行ったりと、純粋に里美との距離を縮めていった。





 スマートフォンに里美からメッセージが届くだけで気持ちが高揚した。仕事帰りにスーパーマーケットで買い物をしている最中、唐突に彼女のことを思い出すと、どういうわけか胸が締め付けられ、目頭が熱くなったりもした。それだけ里美とのメッセージのやり取りは嬉しかった。これまでの人生で、こういった情念を焦がすような経験はしたことがなかった。


 ただし里美は、メッセージの返信が極端に遅い悪癖があった。遅いときは二週間以上などはザラだった。既読にはなるものの返信が遅いため、そのたびに深田は不安な気持ちになり、自分のメッセージはなにがいけなかったのか、なにか彼女の気に障る内容を送ってしまったのだろうかなど、待てど来ないメッセージの返信に、やきもきすることが多々あったのである。


 どうやら里美は、優先順位をつけてメッセージのやり取りをする習慣があったらしい。なので明日、明後日にせまるようなやり取りに関しては返信が早かった。しかし、急を要するような内容ではないと自分勝手に判断すると、人の心境などに配慮できず、既読にすらしないタチだったのだ。


 深田はそんな里美を理解しようと苦慮したが、そんな不満があっても嫌われたくない、さけられたくない一心があったので、こまめに追記でメッセージを送ったりして、コミュニケーションを絶えないように努めていた。





 深田はなんとなく、里美の過去の恋愛経験が気になり始めた。会っているとき、どことなしに本人に探ると、彼女は曰く、深田と同じように異性との付き合いはしたことが無いと言った。深田は運命を感じ始めていた。始めて己の感情を没入できる女性と出会えたこと、しかも里美は誰にも汚されることも無く潔白な乙女だったことに感謝した。感謝したというのは神様でもなんでもない。実直に自分を信じて生きてきて良かったことに感謝したのである。


 深田と会っているときに里美は「この前どこどこに行ったんですけど・・・」などの会話のあと、決まって深田を安心させるように「あ、女友達とですよ」とか「女の子と一緒でしたから」と、ほとんど会話尻に付け加えていた。





 深田のひいき目を抜きにしても、里美はなかなかの美形だったので、深田もあらぬ男性が手を出して来てはいないかと不安の心持ちもあり、その手の会話には、神経をピリピリさせて聞いていた。


 試しに里美に「口説いてくる男性はいないのか」と問うても「まったくいないわけではないですが、食事とかは行こうとは思わないですよ」とキッパリと答える。「彼氏とかいたことないの」と聞けば「彼氏はいたことないですね」と返す。「俺とは食事もドライブも付き合ってくれているけど」と聞き足すと「深田さんはなんか大丈夫なんです。いままでそう思った男性はいませんでしたから」と返されれば、例え深田でなくたって、普通の男性なら有頂天にのぼせ上がるに決まっている。


 しかし深田は里美の言動、動向をまったく疑っていなかったわけではなかった。東京の都心部で一人暮らしをしていた深田だったが、里美は横浜で両親家族と暮らしていた。だが彼女は、仕事以外で都内に来ることはしなかった。深田に会うために都内に来たことは一度もなかったのである。会う場合は深田が横浜まで足を運ぶ。これは常だったが、当然にして深田にとって大した苦労ではなかったが、どうにも里美が損得勘定で動きを決めていそうで、癇に障る部分もあった。





 ある日のこと。里美は横浜で新たな商業施設がオープンしたから行ってみたいと言うので、その日はそこでデートになった。お昼ご飯は彼女がハンバーグが食べたいと決めたので、深田はなんの不満もなくお店に入った。なかなかの金額で、二人前で五桁に到達しようかとするほどだった。だが深田は里美と会っているときに、金を惜しむようなことはしなかった。


 その食事の最中の出来事である。料理は二人の目の前にあるにも関わらず、里美はずっとスマートフォンの操作をしていた。指の動きを見ると、文字を打っているのは明白だった。料理には適当なタイミングでポツポツと手をつけるだけ。とっくに里美の手元の料理は冷めている。肉も固まりかけ、油も白みがかっていた。里美は、食事の時間をかけすぎて満腹中枢が働いたのか、半分以上を残そうとしたので、もったいないからと深田は残飯処理を手伝った。


 里美は食事の好き嫌いが激しいところがあった。しかしそれをなるべく隠そうとするので、例えば、嫌いな食材を対面にいる深田から死角に入るように、残飯をお椀の影に潜ませたりする。嫌いなら嫌いで堂々と残せば良いのに、どうせバレているのに姑息に隠そうとする。そんなズルい癖もあった。





 とある夜のドライブデートの別れ際、深田と里美は車内で抱き合っていた。出会ってから一年後のことである。深田は女性と抱き合ったのは、当然生まれて初めてのことだったが、機は熟していたため不意を突いて里美に口づけをした。里美は目を真ん丸にして硬直していた。もちろん深田自身も硬直気味ではあったが、深田は下腹部から突き上げてくる、男性としての興奮を抑えきれずにいた。しかし無暗にそれを里美に押し付けるような真似はしなかった。深田は自分が童貞であることを恥を忍んで里美に告白した。里美はほんの少し躊躇したように、フロントガラスから更に前方の横浜の夜景を見ている風だった。すると里美の口を突いて出た言葉に、深田の思考は混乱した。


「あ、私、身体の関係とか無理です」


 この言葉の意味は、いったいどう解釈をすれば良いのか、深田には考えても難しかった。つまり里美はそこまで深田のことを想っていなかったということか。もしくは里美は性的なことに苦手意識を持っており、男性とのまぐわいに拒否感が強い人間なのか。


「でも中学とか高校時代に、男子と、ふざけてですけど触られたりベタベタしたことはありますけど」


 いよいよ深田の思考回路は理解不能の域に達した。しかし、ならば「自分とはどうして無理なのか」と半分取り乱した物言いだったが、不作法にも構わずそれを問いただすと、里美の口から思いもよらぬ答えが返ってきた。


「私、レズなんです。レズビアンなんで、男性とは無理なんです」


 深田のなかで、急速に得体の知れないものが渦巻き始めた。これまでの自分との関係はいったい彼女にとってなんだったのか。確かに食事代も自分が当然に持ったし、ショッピングでも欲しいとねだられた物は、なん万とするものも買った。誕生日プレゼントも準備して渡した。いやいや、金や物なんかどうでもいいんだ。俺の気持ちは彼女にとってなんだったのだろうか。


 これまでの俺の気持ちとは・・・。


 動揺を堪えようもない深田を横に、里美はタラタラと言い訳じみた講釈を垂れ流していた。まるで姑息に、嫌いな食べ物を死角に隠すように。自分にとって都合の悪いことを誤魔化すように、口を滑らせ続けたのである。


 その中の一節に、深田は大切な心の一部を破壊された。


「彼氏はいたことないって言いましたけど、彼女はいたんで・・・」


 そして里美はこう続ける。


「今もいるんです。半年前から、十歳年上の女性と付き合ってます」


 現在の深田光憲は、この里美の一言から生み出されてしまったのである。





 その出来事があった日からややあって、まだ里美を諦め切れなかった深田は、改めて会いたいとメッセージを送ると、既読マークは付いているものの、相変わらず里美から返信は来なかった。半月ほど経って、深田からまた追記でメッセージを送ると、翌日には里美から返信が入った。


「返信が遅くなっていてすみません。実は来月あたりに大阪に移ることになりまして。新幹線代とか結構大変で。なので準備やらで忙しくしてました。ですので会うのは難しいです。すみません」


 詳しい理由は説明してくれない。ただ大阪へ行くことだけを告げた。深田は連想するしかなかった。大阪にというのは、その十歳年上の彼女のところへ行くということなのか。大阪へ行ってしまうのなら、もう簡単には会うことができなくなるのか。大好きだった里美の傍らには、十歳年上の彼女がいるのか。同棲するということは一緒に寝たりするのだろう。寝食を共にするということなのか。


 俺にはただ一度も会いに来てくれなかったのに。そこまで遠くもない、東京ですら来てくれなかったのに。


 里美はどんな顔をして、大阪駅まで迎えに来た十歳年上の彼女と再会を果たしているのか。そして、その彼女と今後どんな甘い生活を送っていくのだろう・・・。


 深田は寝ても覚めても気持ちが悪かった。胸のあたりが常にむかむかしていた。仕事が手につかないほど、己の空想ばかりが先走って行って、天気予報を見て、大阪という文字が目に入っただけで気が狂いそうになった。





 これまでの里美への想いや、鬱屈としていた叙情の心の蓋が弾け飛び・・・愛情、侮辱、愛欲、嫉妬、慈愛、薄情、屈辱の感情が、百花繚乱の腐りきった花々とともに、深田光憲の喉奥から際限なく噴き出した。


 深田の人生において、いままで無関心だったことに異常執着をする、深層心理の逆転現象が、彼の中で確立した瞬間だったのかも知れない。





 その日から深田にとって、自分以外のすべての他人は、単なる道具的価値という存在に成り下がったのだ。


 この出来事以降、深田がどんな人生を送ることになったのかは、この物語をお読みになっていればご存知の通りである。


 ちなみに里美だが、大阪で十歳年上の彼女としばらく同棲したのち破局。現在は横浜の実家に戻っているが、極度のうつ状態になり、通院をしながら引きこもりの生活を送っている。





 さて、自分以外の他人は、単なる道具的価値という存在となった深田の精神にとって、異母兄妹の家妻雪夜はどんな存在だったのであろうか。


 この深田の性格と精神状態をみると、やはり妹の家妻雪夜でさえも殺人の道具として扱ったわけであり、そこに一遍足りとも兄妹愛というものは存在しなかったと言える。


 が、こうは考えられないだろうか。


 己の欲望の最果てに至ることになった宮ノ前朱里の抹殺に、妹の家妻雪夜を利用しようと画策した深田は、病魔に苦しむ雪夜を目の当たりにして、いかなる心を思ったのだろうか。


 宮ノ前朱里に与えた死に対極して、妹の家妻雪夜には、生きる希望が持てるノスタルジア病院に送った。


 その行為には、深田の心の奥底に眠っていた、硬く苔むした人情というものが、一部だけ表面に顔を出していたのだろうか。





 しかしそれを知るすべはもうない。


 深田光憲は逮捕から半年後、事件の判決を待つことなく拘置所内で自殺を図り、その翌日に収容先の病院で死亡した。

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