第2-1話 妓楼へ

 馬車の中、弓月はぽつぽつと身の上を語った。

 親の決めた結婚を拒否したため、人買いに売られたのだという。


「ひどい親だ」


 照勇は右手のこぶしを左掌に打ちつけた。無性に腹が立っていた。


「しかたないのよ。うちは貧乏だし」


 相手は土地持ちの豪農で羽振りがよかった。だが父親よりも一回り以上年配だったのだという。


「五番目の妾になるのが嫌なわけじゃないの。わたしには実は……」


 好いて好かれた恋人がいるのだという。


「だったらその男と一緒になればいい」


「貧しい書生なの。結婚しても飢え死にするだけだって両親は考えたのよ。ひどい親だなんて言わないで。私のことを心配しただけなのよ」


 豪農に嫁ぐほうが安心だという考えは理解できる。だが娘を妓楼に売るのが親のやることだろうか。弓月は照勇の考えを察したのか、つづけた。


蘇氏そしの面子を考えたら……蘇氏というのは豪農のおじいさんのことだけど……こうするしかないのよ。ほかの男は蘇氏に遠慮してわたしを嫁にしたいなんて、もう言い出せない。妓楼で働けばお金が入るし、仕送りもできる」


「恋人は納得しているの?」


「……お金が貯まったら会いに来てくれるって」


「そいつ……いや、なんでもない」


「その人はね、優しいだけじゃなくて、とっても頭がいいのよ。今はお金と縁がないけど、いつか科挙に登第して出世する人なの」


 暗くて表情は見えない。だが弓月は笑っていた。

 暗くて良かった。ぼくの顔は戸惑いが隠せていないはずだから。


 科挙に登第すれば官吏になれる。うまくいけば皇帝の直属になって中央で活躍することもできるし、地方で知事になることもあるだろう。権力を手にいれれば金も自然と集まってくる。

 物語のなかでしか官吏の仕事を知らない照勇にだってわかることだ。だからこそ科挙は狭き門として有名なのである。一生を費やして叶わずに、無念のうちに死ぬ人間が多いこともよく知られている。


「……将来有望なんだね」


「ええ。でも書物って高いでしょう。なかなか手が出せないから遠方の蔵書家を訪ねて書写しないといけないんですって。だったら時間がもったいないし、会いに来なくていいって言ったの。お金が貯まったなら科挙のための書物を買って勉強してほしいって。わたしは彼のためにも頑張って稼ごうと思うの」


 なんとけなげなのだろう。好いた男のために身を尽くそうとするなんて。

 それにしても書物はやはり高価な物なのだ。科挙の受験に必要な知識が載っているものと通俗小説では比べものにはならないかもしれないが、照勇の読んでいた本を古本だと思い込んでいた三娘の口ぶりから考えてみても自分がいかに贅沢な暮らしをしていたかがわかる。道観には古典籍や経典も含めて、蔵書がたくさんあった。

 自分ではわかっていなかったが、恵まれた環境にいたのだ。


「あ、停まった」


 馬車は目的地に着いたようだ。ほどなくして板戸が開かれた。外の明るさに目の奥が痛んだ。

 光の中で蘭音が手招いている。


「出てきなさい。ゆっくり、ひとりずつね」


 照勇はその微笑を睨みつけた。


だましたな」


「騙されるほうが莫迦ばかなのよ」


 蘭音はつんとすましてそっぽを向いた。

 先におりたのは照勇だった。照勇を囲うように三人の男が立ちふさがる。園庭のような場所だった。松やだいだいなどの樹木はきれいに剪定せんていされている。穴だらけの奇岩もそそり立っている。人工の池と小体こていあずまやも見える。だが壁だけは威圧的で、大人が飛び上がっても手が届きそうにない高さがあった。


「逃げようとしても無駄だよ」


 厚化粧の女がひとり、男たちを割るようにしてやってきた。油をべったりとつけた黒髪は豊かだ。だが細い首には皺が目立った。

 照勇と弓月を順番に眺めて、ふんと鼻息をもらす。


「悪くないね。両方いただくとするか」


「まいど!」


 蘭音がうやうやしく押し頂いた巾着には金が入っているのだろう。満面の笑みを浮かべ「また会えたら会おうな、五娘」と手を振って蘭音は馬車を引き上げた。あっさりしたものだった。

 馬車が去るや、分厚い門がとじられ、外から鍵がかかった。


夢幻楼むげんろうへようこそ。あたしは妓楼の女将さ。朱老太婆しゅばあさんと呼んでおくれ」


「朱老太婆……」


 照勇と弓月が唱和した。いわゆる『やり手婆』なのだろう。


「さあ、ついておいで」


「はい」


 弓月はしゃんと背を伸ばして、照勇の手前をすたすたと歩き出した。

 園庭の一隅に妓楼への入口があった。

 妓楼を見上げる。三階建てだ。大きな花を重ねたような、あざやかな建物である。

 一歩足を踏み入れるや、濃密な香りに包まれた。嗅いだことのない甘ったるさに思わずむせた。

 頭がぐらぐらする。無理もない。今日一日で十年分の五感を働かせたようなものだ。


「ちょいと。変な病気じゃないだろうね」


 朱老太婆は振り返り、眉をひそめる。


「いえ、匂いが強烈で……」


「早く慣れるんだね。今日からおまえの家なんだから」


 すぐそばの房室が朱老太婆の仕事場のようだ。卓子テーブルに帳簿が広げられていた。

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