第6話
※ ※
「うわぁー!」
フィル殿がすっぽんぽんで大きな声を出したので、私は思わず笑ってしまう。
「フィル殿、どうしたでござるか?」
「おふろ! おっきい! です!」
目をキラキラさせつつも、最後になんとか敬語に修正しようとしたのが面白い。礼儀正しい子なんだなあ。
私は腰を屈めてフィル殿を見つめる。
「フィル殿は公衆浴場は初めてでござるな?」
「はい! はじめて! おうちのおふろはタライだから!」
「あるだけマシな方でござるよ。拙者の家には風呂などないでござる」
そう説明すると、フィル殿はハッと気づいたような顔をした。
「あ、だからここに来てるの?」
「いかにも」
「いかにもかー」
うんうんとうなずいているフィル殿が愛おしい。やっぱり小さい子はかわいいなあ。
私は人差し指を立てて、くりくり回しながらフィル殿の視線をこちらに向けさせる。
「では拙者が、この公衆浴場の掟を教えるでござる」
「お、おきて……」
「いかにも。掟を破れば二度とここには来られぬ」
「いかにもかー」
真剣な顔でコクリとうなずくフィル殿。ううぅん、かわいいいぃ!
私はフィル殿を抱き締めたくなるのをグッと我慢しつつ、ファルナカン第二市営浴場の利用法を説明した。
「荷物や衣類は、この預かり札としか交換できないのでござる。もしなくしたり、誰かに取られたりしたら裸のまま帰ることになるでござるよ」
「それは困る……」
「それゆえ、絶対になくさないように紐で手首に括っておくのがお奨めでござるな。ええと、左手がよろしかろう。左手を拝借つかまつる」
私はフィル殿の左手をそっと握り、掌を見つめながら手首に木札を括りつけた。鬱血しないよう、心持ち緩めにしておく。
「落とすと困るので、左手でしっかり握っておくでござるよ」
「わかりました!」
木札を全力でギリギリ握りこんでいるフィル殿。掌が鬱血しないか心配になってきた。
とりあえず、これで掌の呪いの魔術紋は隠せただろう。魔除けなどの目的で入れ墨を施している人は結構いるが、さすがに発光していると目立ちすぎる。
「これが最初の掟、『預かり札を死守せよ』でござる。で、次」
私は説明を続けた。
「湯船に入る前に、必ず掛け湯をして体を洗うこと。湯船の湯が汚れてしまうと、他のお客さんが困っちゃうでござる」
「なるほど」
フィル殿は「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが理屈ではなく心情として理解できているので、非常に話が早い。シオ殿の教育が行き届いている。さすがだ。
「これが第二の掟『最初は掛け湯』でござるな。まだいくつかござるが、覚えきれないと思うので続きは湯船に入ってからでいいでござるよ」
「はーい!」
濡れた石畳を走り出すフィル殿。
私は慌てて後を追う。
「おまっ、お待ちくだされ! 第三の掟は『浴場では走らない』でござる! 滑りやすいでござるからな! フィル殿!」
子供はすぐ走り出す。私は昔からあまり走らない子だったから、すっかり忘れていた。
フィル殿の髪と体を洗ってあげて、それから二人で一緒に湯船に浸かる。
「うわぁ~……とろけるぅ~……おかゆになっちゃう」
フィル殿が大浴場の天井を見上げながら、とても気持ち良さそうにしている。これだけでも連れてきてよかったと思う。
「あ!」
フィル殿が急に声をあげて、天井を食い入るように見つめた。
「天井に穴があいてる!」
「窓がないので天井に窓を作ってるんでござるよ。ついでに湯気も抜けるでござる」
この地方はほとんど雨が降らないので、ガラス窓ではなく格子窓になっている。
たまに屋根に上って覗きを試みる愚か者がいるらしいが、捕まれば片目を潰されると聞いた。2回目は反対側の目も潰されるので、3回目はない。
でもこれは子供にする話ではないなあ。もうちょっと大きくなってからでいいかな?
他に何か面白い解説でもできないかと思っていたら、フィル殿の視線が今度はこっちに向いていた。子供は興味がころころ変わるものらしい。
「なんでござるか?」
「うん……」
フィル殿の視線は、私の胸に釘付けになっていた。
そうか。フィル殿は男手で育ったから母乳を飲んだことがないはずだ。乳房が珍しいのかもしれない。
いずれはフィル殿も同じようになるのだと考えると、少し慣れさせておくのがいいだろう。これはシオ殿にはできない教育だし。
「気になるなら触ってもいいのでござるよ?」
「ほんとに?」
「お乳は出ないでござるけどな」
「そうなんですね」
ちょっと残念そうな顔をされたけど、出産経験がない私にはどうすることもできないなあ。フィル殿は母親の存在に憧れているのかもしれない。
私が母親の代わりになってあげられたら、フィル殿の不安は少し和らぐだろうか? フィル殿の呪いは不安を糧として育つから、少しでも取り除いてあげたい。
あ、でも私が母親ということは、父親は……。
「ニュ、ニュフフフフ……」
思わず声が出てしまい、フィル殿がビクッとした。
「えっ、なに?」
「ああこれは失敬、ちょっと考え事をしていたら笑ってしまったでござる」
「笑ってたの!?」
「笑い方が気持ち悪いとよく言われるのでござる。気をつけてはいるのでござるが」
小さい頃のことをふと思い出す。
「シオ殿も拙者の笑い方を気持ち悪いとか不気味だとか空気が粘つくとか言うのでござるが、本当に気持ち悪がったことは一度もないでござるな」
「うん? だってきもちわるくないよ?」
「そう言ってくれるのはフィル殿ぐらいでござるよ。そういえばフィル殿は拙者の名前を面白がらないでござるな」
するとフィル殿は当然のような顔をして言った。
「なまえは誰かがつけてくれたものだし、じぶんじゃえらべないから、笑っちゃダメだってお父さんがいってました!」
立派な子だなあ。
私は湯船のお湯で顔を洗い、にっこり笑ってみせる。
「拙者の故郷では、促音……ええと、チモッティモの『モッ』のところでござるな、これは『悪いものを切る』とか『飛躍する』とかの縁起を担いでいるのでござるよ」
「むずかしい……」
「でござるな。えーとあれでござる、ラッキーな音でござる」
「らっきーか!」
「さよう、ラッキーでござる」
フィル殿がうんうんとうなずいているので、私もうんうんうなずく。
「同じ音を繰り返すのは、『良いことは重ねて起きるように』という願いでござるな。ラッキーがいっぱいくるおまじないでござる」
なるべくわかりやすく説明したら、フィル殿が目を輝かせた。
「チモさんのおなまえすごい!」
「ありがとうでござる。フィル殿の『フィルリンフィオーネ』は上代グリモワルド語でござるから……『おめでとう! いいこといっぱい!』ぐらいの意味でござるな。良き名にござる」
「うん、いいこといっぱいあったよ! きょうはチモ姉ちゃんとおともだちになれたし!」
「うんうん、拙者も嬉しいでござる」
いい子だ。本当にいい子だ。さすがは私のシオ殿。あと師匠も偉い。
ついでなので、前から気になっていたこともフィル殿に聞いてみる。
「ところで拙者のこのしゃべり方、変じゃないでござるか?」
「市場にはいろんな国の人がくるから、別にそんなに……」
なるほど、それもそうか。
「拙者の故郷では古い言葉遣いがまだ残っていたのでござるよ。拙者の祖父様がこんなしゃべり方をしていて、拙者もこんな感じになり申した」
「じゃあ、チモ姉ちゃんのお父さんとお母さんも?」
「いや……」
私は微笑んでみせる。
「覚えておらぬのでござる。拙者、忘れっぽいでござるからな」
私の家族は疫病でみんな死んでしまった。疫病が繰り返し町を襲ったのだ。井戸水の汚染が原因だとわかったのは、共同体が崩壊した後だった。
最後まで生き残っていた祖父も亡くなり、私は7才で独りぼっちになった。
その後、幸運にもペフトムスク師匠に拾われ、当時6才だったシオ殿の同期として共に学問を積んだ。だからペフトムスク一門は私の家族だ。
でもこんな話をすれば、フィル殿を悲しませてしまうだろう。優しい子だから。
「まあまあ、拙者のおっぱいでも触るでござるよ。おっぱいは水に浮くのでござる」
「ほんとだ! ういてる!」
「ではここでクイズでござる。おっぱいはなぜ水に浮くのでござろうか?」
フィル殿が真剣な顔をして悩みはじめたので、とりあえず湿っぽい話題は終わりにしよう。
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