14:幼馴染みの領域

 台所で母ちゃんが洗い物をしている。その後ろを通り、夕飯後に〆の牛乳をキメるのが俺の日課だ。

 腰に手を当てぐびりと飲んでいると、窓越しにバタンと派手な音が響く。


 隣の家のドアが閉まる音だ。


 飲み干して玄関に向かおうとすると、後ろから声がかかる。


「今日冷えるから、そこのストールもっていって」

「おう」


 確かに。五月の半ばを過ぎたが、夜は肌寒い。


 リビングの椅子にかかっていたストールを片手に玄関でスタンバイ。

 チャイムと同時にドアを開けると、バツ悪そうに口をへの字にした、さつきがいた。


「早すぎだし」

「お前こそ制服も着替えないで何してる」

「……いいから。いつもの所、付き合って」

「仕方ねぇなぁ」


 俺はよれたトレーナーとジャージのまま、先に歩き出したさつきの後を半歩下がってついていく。


 小学生から変わらないすっきりと見える首筋が、しばらく前から目に留まるようになっていた。そんな俺の気持ちも知らずにあいつは俯きながら早足で歩くから、電柱にぶつからないか心配だし、危なっかしい。


 でも前を見ろよとは言わない。言えない。


「おい、サル山公園、通り過ぎるぞ」


 一番近い出入り口をスルーして歩くさつきを呼び止めると、ぎゅいっと急回転して公園に入っていく。


 猿がよろこんで登りそうなでこぼこしたコンクリートの山を駆け上がったさつきは、膝を抱えて座ると顔を伏せた。

 俺は逆にゆっくり上がって足を投げ出し、隣にゴロンと寝転ぶ。


 さつきが話すまで何もいわない。そう、心に決めている。


「………………今日、言われた」

「おう」

「…………離婚するって」

「おう」

「……もう、幼馴染みじゃ、なくなっちゃう」

「……」


 俺はのっそり起き上がると、さつきの前髪に隠れた顔を覗き込んだ。


「迎えに行けばいいだろ」

「……っ遠い」

「ゆうて高校は変わらねぇんだろ?」

「当たり前っ! どれだけがんばって入ったと思って」

「知ってるわ」


 さつきのあごにかかるの髪がゆれる。

 俺は、伸ばしそうになる手を握りしめた。


「変わらねぇよ、今までと。お前が朝弱いのも変わらねぇし。俺の役目だろ」

「そんなの、隣だからできたことだよ。離れたら……無理だよ」

「無理じゃねぇし」

「無理だし! それにそんなことされたらっ」


 さつきがハッと息を止めて、こちらを向いた。涙を溜めた大きな目に見つめられて、俺も口をつぐむ。


「そんなの……幼馴染みの領域を、超えちゃうよ」


 いつもはへの字になる薄い唇が震えていた。


「……超えればいいだろ」


 うっ、と呻くようにさつきが喉をならした。顔をくしゃくしゃにして、口がどんどんへの字になっていく。ん、と俺は腕を広げた。


「ん、じゃ……ないし!」


 さつきは、バカっと小さく呟いて身を投げ出してきた。


 小さい頃は肩をどつき合って歩いていたさつきの身体は、いつの間にか細く柔らかくなっていて。俺の腕の中に、丁度よく収まった。


 五月の末、さつきは親父さんと一緒に引越しの挨拶にきた。引越し先は高校の最寄り駅より二駅向こう。


 次の日、二階建てのアパートに迎えにいくと、チャイムを押す前にドアが開いた。


「……おう、はよ、はやいな」

「うん、今日から朝ごはん担当だから」

「おー」


 そのあとの言葉が出てこず黙っていると、さつきはドア奥に向かって声を張り上げた。


「いってきますっ」

「いってらっしゃい」


 親父さんの顔が見えるか見えないかでドアが閉まる。さつきはさっと俺の前を横切ると、すぐそばにある階段を降りていく。


「……俺は挨拶しなくていいわけ?」

「何の挨拶? 拓真たくまがくること知ってるし」

「おー……そうか、しなくて、いいのか」


 またいつかすればいいか、と先延ばしにして、スーツが似合うようになった頃、俺は挨拶に向かったのだった。

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