榎波律の奔放

 あんなに楽しかった夏休みがもう8月に差し掛かっているという事実が、ダラダラ宿題を進めていた俺の頭を重く締め付けてきた。8月。もうその単語は夏休みの終了を意味するに等しいのだ。

「……ぐぅ、うあぁぁぁぁぁ……。」

「だぁもう。うるさいよ、しましま君。君さっきからずーっと定期的に唸ってるけど。大丈夫?」

「大丈夫じゃない……。拙いぞコレ……。」

「何がさ。夏休みが残り1ヵ月なのがそんなに拙い?」

嘆き喚く俺の隣で、先にさっさと宿題を終えてしまった焦げ茶色の髪の少女――天野あまの凛子りこが俺の事を心底軽蔑する様な目で見た。俺――間縞まじま伊織いおりは机に顔をくっつけたまま天野を睨み付けた。

「おい……天野。1ヵ月とかあっという間だぜ?」

「そうかなぁ。てか、夏休みって7月からの休みも含めたら全部で40日以上もあるんだよ。」

 40日以上、という日数に対して、俺が感じる感覚と天野が感じる感覚に大きいズレがあるらしい。いやまぁ確かに、40日以上という言葉だけ聞けば長いだろう。しかしだ。

「学生に40日以上で休みが足ると思うのか。」

「……1番学生満喫してない奴が言っても説得力皆無だよ。」

 天野は教科書を自前のリュックに詰めると、足を机の上に置いて椅子を後ろにユラユラと倒した。今俺は、天野に連れられ市営の図書館で勉強会をしている。俺は映画を観に行こうとしていたので、天野からのメッセージを全て無視していたのだが、案の定捕まってしまい今に至る。

「逆に君、夏休みが40日以上より多くて何する気なのさ。」

「え?そりゃあ――廃人を極める。」

 天野は一瞬何か真剣に考えたが、大げさに溜め息を付いた。

「あんまり君がカッコつけて言うもんだから、勘違いしかけちゃったじゃない。危ない危ない。」

「分かった。流石に今のは冗談だ。」

 人間として物凄く格下に見られた様な気がして慌てて弁明する。それから少し考えて、人差し指で天井を指しながら言った。

「一夏の冒険、的な。」

「……とうとう、しましま君は暑さでやられてしまったみたいだね。」

「やられてねぇから。」

 確かによく考えてみても、夏休みが40日以上より多く欲しい理由なんて具体的にはそんなに無かった。その40日以上という日数が丁度良いのだろう。それより短くても、長くても休むには欠ける。……でも学校には行きたくねぇよ。毎日が夏休みであってくれよ。

「……くっ、ははっ。というか、君がそういう子供っぽいこと言うとは思ってなかったよ。」

「誰だって思うだろこれ……。つか、お前は思わないのか?」

「夏休みが永遠に続けばいいのにって?ふふ、駄目だねー、しましま君。大事な事見落としてるじゃない。」

 俺は右に首を傾げる。天野はそれを困り顔で見ていたが、足を机から降ろして体勢を戻した。それから天井を人差し指で指しながら告げる。

「夏休みが永遠に続いたら、永遠に暑いままだよ?」

「……あぁ。だな。」

 前言撤回。40日以上が正義だ。ついでに言うと、一夏の冒険なんて厄介事、絶対にしたくない。

「休みは仕事があるから休みとして成り立ってるんだよ。永遠に夏休みって事は社会的に必要とされてないってことにイコールしちゃうからね。」

「それは飛躍し過ぎじゃないか……?」

というか天野、永遠に夏休みの人たちに厳し過ぎねぇか。そう思ったところで、1人知り合いの顔が頭をよぎった。

「……はぁ。そういや居たな。永遠に夏休みを過ごしてる人。」

「へぇ。一応人脈があるんだね。」

「俺が孤立無援で生きてると思ってんのかお前。」

 その人の事を頭に浮かべた瞬間、言いようのない予感がした。俺はただ溜め息をついて、マナモードにしていた携帯をポケットから出した。――予感的中。メッセージが1件入っていた。

―『おっひさー伊織君』

―『明日から3日間ぐらい暇であってほしんだけど』

榎波えなみりつ。俺のバイト先、古書店えにしの店長で――永遠に夏休みを過ごしている俺の知り合いだ。


「へぇ……。こんなところに本屋さんがあったとは。」

「本屋さんっつーか、えな……違う、律さんの資料箱みたいな感じだけどな。」

「え、ねぇ、今何で言い直したの。」

「あー……、あの人に『律さん』呼び強制されてんだよ。」

 翌日。俺はバイト先である古書店の前に居た。なぜか天野が着いて来ているが、あの自由人のこと。最悪気が合ってしまうのがオチだろう。建付けが素晴らしく悪い入口扉を押し開ける。カランカラン、と気味の良い音がして薄暗い店の中に光が入った。入口から入って左右の壁には、隙間を埋める様に本棚が広がっている。床から天井まで、おおよそ2m近くあるだろう。正面には応接用のローテーブルと革張りの2人掛けソファーが向かい合わせで2つ。そのテーブルセットの向こう側、入口と向かい合わせの壁際には、古びた木製のワークデスクに――真っ赤でどっしりとしている、キャスターの付いたレザーチェアが置かれており、その古いデスクに胡坐をかいて座っている人が視界に入った。

「あれ。意外に早かったね。」

「まぁ、暇だったんで。」

 全て下ろしてしまえば、顔がまるまる覆い隠れそうな長い緑がかった前髪を分けて左目を髪で隠し、右目だけを覗かせているその人――榎波律は、切れ長の目を更に細めてニンマリと笑った。

「なぁんだよ伊織君。君の癖にガールフレンドかい?」

「……まずどこからキレて良いですか。」

 天野を律さんの前に引きずり出して手短に紹介する。

「こちら、天野。俺の……あ、クラスメイトです。」

 天野が何か言いたげに睨んできたが無視する。俺はコイツを友達だと認識したことは無い。それから目の前でニヤニヤしている律さんを指さして言う。

「こちら、律さん。俺のバイト先の店主。」

「……まぁ、間縞くんのクラスメイトの天野凛子と言います。」

「へぇ、じゃあリコちゃんって呼ばせて貰うよ。」

 リコちゃん。流石に引く。

「以後宜しくお願いします。」

「こちらこそー。」

 恐らくこの性悪アホ2人、人間としての系統はまるで同じだろう。性格的な所は食い違いがある可能性が高いが、多分同盟でも組まれたら俺は終わりだ。

「あぁ、それでね伊織君。」

 律さんは、後ろ髪をまとめていたバレッタを外して軽く首を振ると、デスクに落ちていたビニール紐で後ろ髪を低く縛り始めた。……マジでこの大人軽蔑する。こんなんが人生の先輩とか嫌だ。

「また資料探し頼みたいんだけど。」

「……いい加減大掃除しましょう、これ。」

「そんなんしたら僕、君から金絞り取られちゃうじゃない。」

 この人は驚くほど整理整頓、並びに日常的な家事が下手くそなのだ。俺が上京して来て直ぐにバイト募集の張り紙を見つけ、以来定期的に掃除に来ているというのに、店の散らかり様は大して変化を見せない。まぁたまにこの散らかりまくった店の中から、たった1冊の本を見つけて欲しいという仕事を頼まれることがあるのだが。

「資料探し、というのは?」

天野が律さんを見つめながら尋ねた。律さんは前髪を指で分けながら唸る。

「一応ここ、古本屋でさ。お客さんに頼まれた本、ウチにある奴だったから。それをこの本棚の中から見つけ出すのを資料探し、って呼んでんだよね。」

 先に説明しておくと、律さんは驚異的な記憶力の持ち主である。己の店に何の本があるかを全て把握しているのだ。だがその本がどこにあるかは、持ち前の整理整頓の下手くそさが活きてしまい全く分からない。そこで、俺が丸1日から1週間ほどかけて、この膨大な本棚の中から、たった1冊の本を見つけ出すという訳だ。

「あーすいません、律さん。俺、野暮用思い出しちゃって、帰んないと。」

「んー?野暮用なら蹴ってくれても良いんじゃないかなー?」

「いやぁ、ちょっと身内が危篤みたいでー。病院行って来たいんスけど。」

「はっはぁ、君ぃ。笑わせるね。1人暮らしでこの町に身内居ない癖に。」

 帰らせてくれ頼む。古書店の定期掃除なら再来週だ。それはちゃんと行くから。この臨時業務ごうもんだけはやりたくない。帰らせてくれ。そう念じていると隣で天野がふっ、と笑った音がした。

「それ、私も手伝って良いですか?」

「おぉ、良いよ?伊織君足止めしてくれんなら。」

 天野は俺の方をゆっくりと見て、弓の様に口角を吊り上げた。俺は確かに殺意を覚えた。


「じゃ、僕ちょっとコンビニ行ってくるからー。」

「おいコラちょっと待て。」

 俺は反射的に、律さんの緑髪のローテイルを握りしめていた。そしてそのまま引っ張ってしまう。

「いた、いたたたたた、ちょ、ま毛根、痛い、抜ける抜ける!」

「今、何と。」

「い、いやぁ……。あとは若いお2人に任せて、僕は差し入れでも買いに行こうかなぁって思ったんでって、いたたたたたた、マジで引っ張んないで、痛い痛い!」

「……ま、どうせ律さん居てもどうにもならないし。良いですよ、行って来て。」

 ローテイルから手を離すと、律さんは自分の頭を手でさすりながら俺の方を涙目で見た。俺は口角だけを上げる。その様子を見ていた天野が遠くで吹き出したらしいが気にしない。

「うぅ……もうちょっとだけで良いから、年上を敬ってはくれないか。」

「何言ってるんですか。年上扱いしたら怒る癖に。」

 そんな馬鹿みたいなやりとりをした後、律さんは店を後にした。俺はただ溜め息をついて応接用のソファーにダイブする。天野は俺を横目で見ながらニコニコ笑っていた。それから俺の隣に座ると、足を組んでこちらを見た。

「面白い人だね、榎波さんって。」

「……いや、面白くねぇよ。」

 天野はソファーの背もたれに体を預けるとゆっくり息を吐いた。俺はただそれを視界に入れながら黙る。

「ところでさ、榎波さんって――女性?男性?」

「あぁやっぱり思うよなそれ。」

 かれこれ2年以上の付き合いになるのだが、俺は榎波律という人物について何も知らない。顔は中性的。声は若干女性っぽいが、うっすら喉ぼとけがある様に見える。体つきは……まぁ、その何というか、細くて薄い。華奢だが背は高い。髪はくすんだ緑色をしていて、腰、いや太ももぐらいまであるんじゃないかと思う。服装は基本的にオーバーサイズのパーカーを着ている。1人称は、僕。

 性別不詳。あまり深くも聞けないまま2年が経過している。……中性的と言えば聞こえは良いのだが、同性なのか異性なのかが分からないせいで未だに距離感が掴めない。というか、本当に年上なのかどうかも怪しい。少し誤魔化せば学生にも見えなくも無いのだ。

「ふぅん……。ますます面白いじゃん。」

 天野は少し目を細めて笑った。その瞳は相変わらず貪欲な光を帯びている。そんな天野をチラリと視界に入れながら、俺はふと思った。

 そういや、天野について知ってることも大して多くない。長い焦げ茶の髪、俺の前だけで鈍く光る大きな瞳、憎たらしい笑顔。……あぁ、何か気分悪くなってきた。世間的にみると、天野凛子って奴は美人の部類だ。スタイルもまぁ良い。おまけに学校では優等生の完成形の様な人間で、最近は俺や池名いけなさん以外にも交友関係が広がっているらしい。そう思うと、俺は改めて首を傾げてしまう。

「何してんの、しましま君。」

「いや……。お前が何で素を出すのかって改めて思っただけだ。」

「ふぅん。しょうもな。」

 しょうもなって……。天野はソファーの背もたれに最大限体を預けて、天井を見上げた。これまで上手くはぐらかされ続けてきたから今度こそと思ったのだが、結局天野は詳しく教えてくれなかった。それから直ぐ、資料探しを始める。

「しっかし……、汚いねココ。」

「それ、律さんの前で言うなよ。」

 本棚に並ぶ本の背表紙をひたすら見て、提示された1冊の小説を探し出す。まさしく精神攻撃だ。最初の内は宝探し的な気持ちでやっていた臨時業務だが、流石に頻度が頻度だったために今はとてつもなく嫌いな動作でしかない。

「あ、そうだしましま君。」

 右側の壁に立つ本棚を調べていた天野が急に声を出した。ちなみに俺は左側を調べている。

「榎波さんの性別、賭けようよ。」

「……いや、あれはもう詳しく知っちゃ拙い気がする。」

「何言ってんのさ。あ、女性だったらアイス奢って。」

「ちょっとは話聞こうぜ。」

つかお前、それまだ気になってたのかよ。まぁ、俺も興味あるけど。

「じゃあ、男だったらお前が俺に奢れよ。」

「ふふ、やだ。」

「それじゃ賭けとして成立しねぇだろうが。」

 そんな下らない会話をした後、また資料探しに戻った。20分ほどしたとき、天野が目当ての小説を見つけ出し、臨時業務は終了。律さんに終わった旨を伝えるために電話を掛ける。

『え、あマジ?早かったねぇー。すまんけど僕あと30分は動けないわ。ちゃんと豪華なアイス買ってってあげるから待っててねー。』

 電話越しに聞こえてくる煩いBGM。……あの野郎パチンコ行ってやがったのかよ。殺意。一部始終を天野に話すと凄い勢いで爆笑していた。

「あははははっ!あーあ、もう。ほんと面白いな。」

「……楽しそうだな。クソ。」

 という訳で、律さんの帰りを待ちながらソファーに寝そべった。やたらと高い天井には、星座の絵が描かれているのを初めて知り、少しの間それを眺めていたのだが、直ぐに遮られた。俺の眼前に逆さの天野の顔が現れたせいだ。

「……なに。」

「いや、寝てたら顔に落書きでもしようかなって。」

「どつくぞ。」

 天野は楽しそうに笑って、俺の頬を千切れんばかりにつねった。

「いった、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」

「ふふ、やっぱ面白い。」

 少しして飽きたのか、俺の頬から手を離すと天野は天井を見上げた。

「……うん。やっぱ私も、永遠に夏休みが良いかな。」

「……はぁ。」

 それから大体1時間ほどして、律さんが帰ってきた。俺と天野に上機嫌でアイスを渡した後、バイト代を封筒にも入れずにそのまま手渡してきた。

「……3万。」

「太っ腹だね榎波さん。」

「へっへっ、大勝ちだったんだよー。」

 それを財布にしまっていると、天野が律さんに尋ねた。

「榎波さんって、性別なんですか?」

ド直球すぎて俺は質問の意味を理解するのに時間がかかったが、律さんは少し迷った後に微笑んで言った。

「律さんは妖精だからねー。性別っていう概念は無いよ?」

酒が入っていない大人で、こういう冗談が言えるタイプの人。……鳥肌が立つ。隣で天野は本気で驚いた顔をしていた。目を丸くして。

「そんなに知りたいんだったらぁ――。」

「いえ、大丈夫です。」

 やけに調子に乗った色っぽい声で律さんが何か言ったので慌てて遮る。ねぇ、酒飲んできたんだよね?素面しらふじゃないよね?もしもそれで素面だったら俺は大人になりたくないよ?とか考えているうちに律さんは眠ってしまった。……あぁ良かった。酒入ってた。

「……しましま君。」

「あ?」

「君は、榎波さんの事を『永遠に夏休みを過ごしている人』って言ってたよね。」

「あ、おう。」

「私はそれ、『無職の人』って意味で言ったから、君の言いたいことがよく分かってなかったんだけど――今分かったよ。」

 天野はニヤリと笑いながら俺の方を見た。俺はただ溜め息をついて頷く。

「この人は――『一夏の冒険に憧れる永遠の少年みたいな人』だね。」

「……遠回しにかなり不名誉な言い方だけど、同感だな。」

 8月上旬。俺は緩やかに夏の終わりを感じた。夏休みは、限られているからこそ楽しいのかもしれない。

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