14.覚醒と波紋
黒猫を模した壁掛け時計は23時を過ぎていて、秒針代わりの尻尾を左右に揺らしながら、無人のリビングに緩慢な時間を漂わせていた。
シャワーを浴び終えた
「大丈夫かなあ、おにいちゃん……」
これが急遽、飲み会などに誘われたとかであれば、メッセージアプリなどで必ず連絡をよこす兄だったのだ。にも関わらず、今日に限ってはそういった連絡もない。
新しい職場に勤めて二日目、連絡もできないほど“特機”という特務機関は激務なのだろうか?
八割の心配と二割の不安を胸に抱きながら、ドライヤーの電源を切った時、玄関のドアが開く音が翡翠の耳に届いた。
「帰ってきたっ!」
心から安堵した翡翠は、足取りも軽やかに玄関先へ向かう。連絡をよこさずとも、どんなに遅くなろうとも、最愛の兄が帰ってくることはこれ以上ない喜びなのだ。
「おにいちゃん、お帰りなさい! 遅かったね? って、えぇぇぇぇぇ!?」
翡翠は思わず驚きの声を上げた。兄の緋色がこれ以上なく疲労の色を全身ににじませ、倒れ込むように玄関先へ突っ伏したのだ。
「おにいちゃん、大丈夫!? おにいちゃんってば!」
「お、おう……。翡翠、ただいま……」
「ただいまはいいから! 歩ける? あ、おんぶしようか?」
体格差もあっておんぶなどできるはずもないのだが、朝、出勤していった兄の姿とあまりに違う変貌ぶりに、翡翠は困惑を隠しきれない。
「いや、大丈夫。ちょっと、ほんのちょっとだけ疲れただけでな……」
緋色は立ち上がり、よろよろとした足取りでダイニングテーブルの椅子に腰掛けると、天井を見上げるようにして深く息を吐いた。
「翡翠、悪いけど、水を一杯もらえるかな?」
「わかった! すぐに用意するね!」
「それと、翡翠」
「なに、どうしたの? おにいちゃん」
ややためらった後、緋色は妹に視線をやってから、穏やかに口を開いた。
「ありがとな」
「……っ!? ど、どうしたの、おにいちゃん。な、なんかヘンだよ?」
「いや、なんでもないんだ」
「と、とにかく水持ってくるね」
スリッパのパタパタという足音を耳にしながら、緋色はテーブルに上半身を突っ伏した。腕をだらりと伸ばし、顔を横に向け、独り言のように呟く。
「オレが知りたいよ……、オレ自身が大丈夫かどうかなんて」
***
緋色の力によって幻蝕を撃破した事実は、特機に様々な衝撃をもたらした。
対幻蝕用にコーティングされた武装でなければ、あの怪異に傷を負わせられないはずなのだ。データ変換されたとはいえ生身の人間、しかも肉弾戦で戦いを挑むなど常識の範囲外であり、異常としかいいようがない。
人間が幻蝕と接触すれば、その接触した箇所のデータが破損され、現実世界にいる“本体”側にも影響が生じる。身体あるいは脳の損傷であったり、精神汚染など、症状は様々だが共通するのは正常な状態ではなくなるという事実なのだ。
それは強化プログラムが施された特機隊員でも例外ではない。身体全体が幻蝕に接触した――緋色の場合は飲み込まれた――状況で、傷ひとつ追うことなく生還を果たすなど、本来あり得ないのである。
その上、緋色は片手一本、いや、拳ひとつで幻蝕の
当然のことながら、任務を見守っていた第一戦略室はざわめきたち、緋色が帰還するやいなや、彼は研究対象としてオペレーターたちに連れ去られてしまったのである。
まずは医学室で身体をチェックしようと、着替えも許されず、引きずられるように緋色は第一戦略室を後にしたのだが。
廊下に出る直前、視界に捉えたのは考え込む姫崎と怪訝な表情の美雨、そして物憂げな面持ちの真澄という三者三様の光景で、それもまた緋色の心に影を落とす要因となっていたのだった。
「所見の結果、パーソナルデータ異常なし、精神汚染認められず。特筆すべき状態異常も発見できず」
一通りの検査が完了したのは夜の21時を過ぎたころで、その結果に緋色は胸をなで下ろしたのだが、なにかしらの変化を期待していたオペレーターたちは一様に落胆の表情を浮かべていた。
「人の身体をなんだと思っているんですか」
思わず緋色は文句を漏らすと、オペレーターたちは慌てて口を開いた。自分たちは、きみの身体に支障がないことを喜んでいる。むしろ、あの現象の謎について、なにひとつ手がかりがなかったことを残念に思っているのだ、と。
「とにかく、だ」
メガネを掛けたリーダーらしきオペレーターがカルテに目を通しながら続けた。
「この施設では確認しようにも限度がある。明日、特機と提携する病院にいって精密検査を受けてくれ。出勤は検査が終わってからでいいから」
隊長には自分が伝えておくと言い残し、リーダー格は医務室を去って行く。その後ろ姿を見やりながら、緋色は自分の身体になにやら面倒な症状が起きていることをあらためて実感し、大きくため息を漏らすのだった。
***
今日一日の出来事を、そのまま妹に伝えることができない。
緋色としては、遅くなったのは訓練と任務をこなしたから(ある意味で事実ではある)程度に話を濁しておき、検査については特機の入隊に際して健康診断がまだだったから、明日は病院に行ってから職場へ向かうと、心苦しくも嘘をつくのだった。
それに対する妹の反応。
「そっかあ……。でも、本当に無理はしないでね? 二日目でそれじゃあ身体壊しちゃうよ。健康診断の時に、お医者さんとよく相談してね?」
心配そうに呟く翡翠を見ると、緋色の胸に痛みが走る。隠し事をするおにいちゃんを許してくれと思いながらも、緋色は平静さを取り繕って「わかってるよ」と答えるのだった。
「ね? それより、おにいちゃんおなか空いてない?」
正直、疲れすぎて胃がなにも受け付けないのだが、野菜スープを作ったんだという妹の声を耳にすると、その好意を無下にするわけにはいかない気持ちになってくる。
「それじゃあ、少しもらおうかな」
「うん! ちょっと待っててね、温めてくるから」
嬉しそうにキッチンへ向かう翡翠を見ると、心の中が満たされてく。
(どうかどうか、変なことが起きてませんように……!)
緋色は心の底から、何事もないことを願った。こんなにも健気な妹に、不安や心配を抱かせることなどあってはならないのだ。
***
霞ヶ関にそびえる雑居ビルの一室。
『内閣官房室付 特務機関対仮想空間研究機動隊』という表札が掲げられた部屋の中では、一組の男女が会話を交わしていた。
「報告書に目を通したよ。奇跡のような現象を起こしながら、本人に自覚なし。特機の医療班による調査でも、
机の上に書類を置いた
「少しも愉快ではありません。異常事態です」
答える声の主は姫崎礼だ。特機の隊員服ではなく、黒のスーツにスラックスという出で立ちに身を固めた特機の隊長は、涼しげな目元にほんのわずかに疑惑の微粒子をにじませて、上司である統括課長に視線を向けている。
「こうなることをご承知の上で、課長は一ノ瀬を特機に加えたのですか」
「それこそまさかだよ、姫崎くん。あいにく私は千里眼など持ち合わせていないのでね。これでも驚天動地の心境でいるのさ」
肩肘をついた千疋は片肘をつき、そこへ顎を乗せた。いつもの温和な雰囲気から、どことなく気の抜けたような感じになり、肩書きと不釣り合いな印象を受ける。
「しかしまあ、きみもご丁寧なことだな。報告ならオンラインでもできただろうに」
「なにぶん、ことがことですので。直接、お目にかかったほうがよろしいかと」
「ふむ。まあ、なんだね。危機的状況だったようだが、死者が出なかったことは幸いだな」
机の上の報告書に目を落として、千疋が呟く。
「金食い虫だからな、特機は。不祥事が起ころうものなら、現政権が野党から追及されるのは疑いようもない。与党の支持率が下がっている現状、平和にやってもらいたいものだよ」
「お言葉ですが、課長。人命と政局を天秤にかけるのは不見識かと」
「もちろんだとも。ただまあ、公にされていない部署の問題ほど、火は燃えやすいものでね。きみもそのあたりは理解しているだろう?」
首肯したものの、姫崎の表情は暗い。
「そんな顔をしなくても大丈夫だ。特機を存続させられるよう、あらゆる手は講じるつもりさ」
そう言うと千疋は軽く笑い、姫崎が応じようとしたのを封じるようにして語をついだ。
「さて、こうなってくると一ノ瀬くんの身柄を引き渡せとか防衛省が言い出しかねんな。パーソナルデータのコピーを渡す程度でおさめておきたいが」
「同感です。一度だけですが生身で幻蝕を撃退した事実が広まるのは、私としても本意ではありません」
「さしあたっては様子見が妥当なところだろうな。関係各所には私が声を掛けておこう」
頭を下げた姫崎が部屋を後にしようとすると、思い出したような声で千疋が呼び止めた。
「忘れていたが。この一件について、あの“問題児”はどんな反応をしていたかな?」
「しばらくは唖然としていましたが、今日あたり喜びはしゃいでいるでしょうね」
そうなるだろうなあと肩をすくめ、特機の統括課長は続ける。
「くれぐれも注意を払っておくことだ。“問題児”が暴走しないように、ね」
「心得ております」
頷く姫崎の表情は固い決意がこめられていた。
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