第22話 離さないで
「あっつー......」
タクシーから降りた幸が、真っ先に口にする。
身体に纏わりつくような熱気と、本調子を出し始めた日差しに眉を顰めた。
「水ありだよね?無かったら全員熱中症で倒れる」
心晴はそう言って眩しそうに手で顔を覆う。
「ありだよー。もう夏フェスなんてずぶ濡れになんなきゃやってられないでしょ。ファンも胡桃達も」と胡桃。
私達は水をよく飲んでから、ステージに立った。
額を伝う汗を拭う。
半袖のTシャツと、ジャージを肌が出るように捲り上げた。
そうでもしないと暑さで倒れてしまいそうだったから。
初めの立ち位置に移動して、前方を見つめる。
今はスタッフがちらほら見えるだけの、この大きな空間に、当日はペンライトやタオルを持ったファンが沢山入って、歓声を上げて、私達を見てくれる。
想像してみても、頭に浮かぶ映像はいつか見たアイドルのライブ映像で、自分達がそのステージの上で歌えるとは思えなかった。
ぼんやりとそんなことを考えながら、イントロで動き出す。
何十回も、何百回だって聞いてきたこの曲。今更ミスなんてない。
そう思っていたけれど、動き出した瞬間に、身体が鉛のように重く感じた。
すぐにそれが暑さのせいだと気づく。
重たい腕を、足を必死で動かした。
マイクを持つ手に汗が伝う。
向こうで、スタッフが涼しい顔をして水を飲んでいた。
動くにつれて、捲り上げていたtシャツとズボンがどんどんとずり落ちてくる。
タンクトップ一枚と、半ズボンの心晴にちらりと目をやる。
それでも心晴は辛そうな顔をしていた。もちろん他の三人も。
暑い。暑くて頭がどこかに飛んで行きそう。
私のパートが回ってきた瞬間に、思い切り髪を掻き上げた。
もう髪はグシャグシャ。
そこにアイドルとしてのプライドは微塵も残っていなかったけれど、もうそんなことは考えられなかった。
曲が終わってポーズを取った瞬間に、どっと疲れが肩に伸し掛かる。
たった三分の曲が、一時間ほどに感じた。
スタッフからのオーケーが出ると、「あっつ......」と額を拭う幸。
心晴と胡桃は息を荒くして、膝に手を付いていた。
「控室、行こう」
麗香が息を切らしながら言った言葉に、全員が迷わず頷いた。
*
控室に入ると、麗香が倒れ込むようにしてパイプ椅子に座った。
紅く染まった顔でペットボトルを掴み、狂ったように飲み干す。
「......本番とか無理じゃない?あれ」
胡桃が困ったように言った。
彼女の隣で、水を飲みながら心晴も頷く。
「キツいね。出来るだけ衣装も涼しいのにしてもらおう」
こんな時でも私達の頼れるリーダーはしっかりしている。
ありがとう、と口々に言うと、幸は「こんなとこで倒れてられないから」と笑いながら呟いた。
全員が手で扇ぎながら水を飲む中、麗香だけがぐったりと、パイプ椅子の背を抱きしめるようにして寝ていた。
「大丈夫?」
かなり顔の紅い彼女に尋ねる。
麗香は重そうに瞼を開けて、小さく頷いた。
「......ちょっと、しんどい」
明らかに『ちょっとしんどい』どころではないであろう麗香を見つめる。
息を切らしながら、麗香が上目遣いで私を見つめ返した。
その表情にゾクリと背筋が震える。
可愛い。一瞬、確実にそう思ってしまった。
はっと我に返り、不純な考えを頭から叩き出す。
今は心配してあげなければならないのに。
私は何を考えているんだろう。
____でも。
長いまつ毛をゆっくりと瞬かせる麗香を見つめた。
どうしてこんなに愛おしいと思ってしまうのだろうか。
「ポテチとポッキーあるけど食べる?」
幸のさり気ない言葉に、メンバー全員が全力で振り向く。
幸は小さく笑って「はいはい」と言いながら袋を開けた。
麗香がポテトチップスの大袋を見つめているから、幸に「ポテチ頂戴」と言って渡すと、彼女は柔らかい笑顔を広げた。
しかし麗香は私にそのまま袋を突き返す。
「......え?」
麗香は言葉では何も言わずに、袋と自分の口を交互に指差した。
こんなにも一緒に居る時間が長いとなると、彼女の求めていることがすぐに分かってしまう。
私は呆れながらポテトチップスを一枚摘み、彼女の口に押し込んだ。
パリパリとポテトチップスを噛み砕く音が聞こえる。
麗香は「美味しい」と一言だけ言って、胡桃が喜んで食べているポッキーをちらりと見た。
また彼女の求めていることを察して、「自分で言えば?」と当然の提案をする。
麗香はパイプ椅子の背もたれに肘を付き、甘えるように両頬に手を当てた。
またため息をついて振り向く。
「胡桃ちゃん、ポッキーちょっと分けてくれない?」
「良いよ。あ、箱だから一袋あげるよ。」
胡桃は私の掌に一袋のポッキーを置いた。
ありがとう、と軽くお礼を言って体勢を戻すと、麗香が好奇心に満ちた目を輝かせて私を待っていた。
また食べさせろと言われる、と思った私は、先に一本のポッキーを彼女の前に差し出した。
しかし素直にそれが食べられることはなく、麗香はチョコの部分を軽く噛み、顎でポッキーの反対側を指した。
「......嫌だよ」
素直に言うと、麗香が不満そうな顔をする。
それでも彼女は食べようとしない。
「嫌だって」
捨てられた子犬のように、目を潤わせる麗香。
私は呆れながら彼女の隣に置いてあったパイプ椅子に座り、ポッキーの反対側を咥えた。麗香が嬉しそうにこちらを見るのを無視すると、彼女はお構いなしにそのまま食べ進めた。
目を伏せながら首を傾けて迫る麗香の顔を見ることが出来なくて、必死にポッキーの中心を見つめる。
流石にこの状況に緊張するなと言うのは無理がある。
どうしても鳴り止まない鼓動が五月蝿くて、誰に言うわけでもなく、心の中で言い訳をした。
ふわり、と甘い香りが鼻をくすぐった。
香水じゃない。優しくて自然なシャンプーの香り。
もうあと五センチほどのところに麗香の顔があった。
ゴクリと唾を飲み込む。
小さく端を噛み千切ると、麗香が大きな一口でぐっと距離を詰めた。
パイプ椅子をずらす音が聞こえて、しっかりと肩を掴まれる。
細くて滑らかな指に鼓動が速くなる。
麗香は目を伏せたまま、耳に触角を掛けた。
色気を纏う彼女の表情に、思わず見惚れる。
ポッキーゲームって、どっちがどうしたら負けなんだっけ。
もう唇が触れてしまいそうな距離で、そんな間抜けなことを考える。
カリ、と優しく噛む音が聞こえた。
もうこれ以上食べ進められたら。
でも、拒否出来ない。
心のどこかで期待していた。
___何を?
私は何を待ってる?何を期待している?
麗香がずっと伏せていた目を瞬かせて、私を見る。
その瞳を見て思わず口を離そうとすると、麗香が唐突にポッキーを噛み千切った。
一センチほど残ったポッキーが、呆気なく落ちる。
麗香は器用にそのポッキーをキャッチして、口に放り込んだ。
何かを期待しているような目で私を見て、「うん?」と楽しそうに声を上げる。
「びっくりした顔、してるけど」
「......バカ」
そう呟くと、麗香は小さく笑って私の顎を撫でた。
「拗ねないでよー」
「拗ねてないから」
彼女の手を払いのけると、後ろからため息が聞こえて振り返る。
「イチャイチャしないでもらって」
と冷めた目つきの心晴が言った。
「あー、寂しかったんだね」
幸が納得したように心晴を見るから、思わず笑ってしまう。
「何でよ!!」
心晴はやけに必死に言った。
「ごめんね寂しい思いさせて。ポッキーまだあるし私とする......?」
麗香が手に持った袋を見せるようにして揺らすと、心晴は「違うから」と一蹴する。
「やめなよ麗香。心晴は私としたいみたいだから」
幸がさり気なく心晴に腕を絡めた。
珍しい様子に驚いていると、心晴は「違うって」と自分で笑いながら呟いた。
「......あ」
胡桃が何かに気づいたように声を上げて、自分を指差してから可愛らしく首を傾けた。しかし心晴はまた「違う」と冷たい目線を送る。
しばらく笑っていると、パイプ椅子の横から出した手に誰かの指が絡められた。
見ないでも分かる。麗香の手だった。
麗香に目をやっても、彼女は何食わぬ顔で心晴達を見続けている。
なんだかじわりと心が温かくなって、私の人差し指を触るその手に掌を滑り込ませて、握った。
それでも麗香はこちらを見ない。
麗香はただ、私の指に自分の指を絡め直しただけ。
この繋ぎ方を世間がなんと呼ぶかは知っていたけれど、どうしても温かいその手を離す気にはなれなかった。
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