第18話 思い出させないで

 重い瞼を開けて階段を降りた。

眩しい光から目を覆うと、その隙に麗香は私に抱きついた。

「ちゃんと覚えててくれたんだ」

麗香の、飼い主を出迎える子犬のような、嬉しそうな声が耳をくすぐる。


 「そりゃ、忘れないけど」

欠伸をしながらソファに座ろうとする。

「麗香、ちょっと一瞬、離して。座りたいの」


 「うん?やだよ」

さらりと言う。

「佳世乃、大好き」


 「......飲んでる?」

動揺の末にそう言うと、麗香は「そう思う?」と悪戯に笑った。

「分かんない。いつだって麗香はおかしいから......」

「酷いなぁ」と不満げな声を上げる麗香。

一瞬、私を抱きしめる手が緩んだ。


 彼女の腕を引き剥がしてソファに座ると、麗香は咎めるように私を見つめた。

「何?」

何も言わない。

「仕方ないじゃん、話したいからって二時なんかに呼び出されても......私は眠いの」


 「なら来なきゃ良かったのに」

ぽつりと呟く。

こいつ、と麗香を睨みつけた。

来てやったのになんて態度だ。


 「まぁ、佳世乃はあたしが大好きだもんね。来てくれると思ってたよ」

麗香はするりと私の横に滑り込む。

白い足を広げてあぐらをかくと、そうすることが当たり前かのように私の足を触り始めた。

「ちょっと、何」

 麗香は長いまつげを伏せた。


 「否定しないの?」

唐突に言った。

やけに、冷めた声で。

「え?......何を?」


 「あたしのことが、大好きって」

麗香が上目遣いで私を見つめるから、咄嗟に目を逸らしてしまった。

そんな顔をされたら、飲み込まれてしまいそう。

私の意思ごと。


 「......いや、好きだよ。好きじゃなきゃ、同じ学校通って、同じ事務所に入って、同じグループでデビューする訳ないでしょ」

彼女が求めているのはこんな答えではないと、分かってはいたけれど。


 「バカ」

拗ねた様子の麗香の言葉に、顔を上げる。


 「分かってるくせに」

そっと私の顎を撫でて、優しく掴んだ。

そのまま彼女の顔に引き寄せられる。


 既視感のある距離だった。

もう、拒否をする選択肢はなかった。


 あと唇が触れ合うまで数センチのところで、麗香は手を止める。

「しないよ」

生ぬるい吐息が鮮明に伝わる。

「すると思った?」


 あまりにも近い。


 何も言えずにいると、麗香は吐き捨てるように言った。

「拒否するならしなよ、佳世乃」

麗香、と言いかけた瞬間に、私の唇は塞がれた。


 キス、するんじゃん。しないよ、なんて言ったくせに。

そんなことを思いつつも、不思議と嫌だとは思わなかった。


 もう、思えなかった。


 ぬるり、と何か生温かいものが口の中に滑り込む。

それが何かを理解して、私は咄嗟に唇を離した。


 驚いたように麗香は私を見つめた。

そんな顔をしないで欲しい。

こうすることが当たり前だと思わせるような顔を、しないで欲しかった。


 「......嫌?」

聞き方がずるい。

私は拒否出来ないって、知ってるくせに。

麗香は私を問い詰めるように足を撫でた。


 キスをされた後だからかもしれない。

どうも身体が熱くて、足を撫でられるその感覚が気持ちよくて。

思わず声を漏らすと、麗香はぐんと距離を詰めた。


 「可愛い」

囁くように。

「そんな声聞くの初めて。もう九年間とか、一緒に過ごしてきたのにね」

ため息をつく。


 「......お兄ちゃんは、沢山聞いてたのかな」

驚いて、彼女の顔をじっと見つめた。

けれど麗香は目を合わせてくれない。


 今、なんて言った?


 「......いつの話してるの」

「したことある?」

遮られる。

「ねぇ、答えてよ」


 「......何を?」


 「お兄ちゃんと、セックス」

心臓が大きく脈打つ。


 暗い部屋と、先輩の顔と、汗の匂いが、まるで昨日の出来事のような思い出に色を差していく。


 「あるの?」

無言で、頷いた。


 一瞬、麗香が酷く苦しそうな顔をした。

けれどその表情はすぐ隠されてしまう。


 「......私とは、駄目?」

「それは」

見ていられなくて、思わず彼女から目を逸らす。


 「先輩のことは好きだったし、付き合ってたから」

「あたしのことは好きじゃないの?」

「でも、先輩とは付き合ってたし」

「じゃあ、付き合って」

呼吸すら苦しい。

「そうじゃないじゃん」


 「じゃあ、何」

背けた顔を掴まれる。

恐る恐る麗香の顔を覗くと、彼女は怒っていなかった。

見ていてこちらが泣きたくなるような、その顔はどうしても見ていられない。


 「......麗香は大切にしたいから」

「お兄ちゃんは大切じゃなかったの?」

間髪を入れずに言う。

「高校生と大人は違うでしょ」

「思春期の気の迷いってこと?」

今更なんでそんなことを聞いてくるのだろう。


 「......そんな言い方ってないでしょ」

咎めるように麗香を見ると、彼女は目を逸らして「ごめん」と呟いた。


 「だって、怖いんだもん。ずっと」

「怖い?」

「佳世乃のこと見てて時々思うの、もしお兄ちゃんが今でも佳世乃のこと好きだったら、あたしはどうなるのかなって」

上目遣いで私を見る。


 一瞬何を言えばいいか分からなかった。

けれど、ここで言葉に詰まってしまえば私の負けだ。


 「......どうもならないよ」

「あたしとお兄ちゃんとだったら、どっちが好き?」

「麗香に決まってるでしょ」


 「だからキスしたの?」

話の流れを上手く使われた。


 「お願いだからあんまり責めないで」

「聞いてるの、佳世乃」

真っ直ぐ、私を貫くように麗香が私を見つめた。

「お互い酔ってたでしょ。待っててって、言ったじゃん」


 麗香は何かを言いたげな表情を浮かべる。

それからため息をついて、私の手を触った。


 「......今日は一緒に寝て」

毎日一緒に寝ているような気もするけれど。


 私は、その可愛らしい表情に負けてしまう。

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