惑い返すリフティア ー 4

「―――カシウス」


 脳髄を犯すような声。それを耳にした瞬間それがもう二度と聞く事のない声だと理解して、これが夢だと気づいた。


「可哀そうなカシウス。夢を見る事を諦めてしまったのね」


「それが大人になるって事だ」


 溜息が零れる。花畑から起き上がり手を見て、顔に触れる。若返っている。拳を握ってハリを確かめると大体十八歳ごろの姿か。成程、最後に彼女を見たのは確かにこの頃だ。そうなると夢を見るとすればこの頃になるのは当然の話だろう。


「大人になる……なった。そう思っているのは貴方だけじゃないかしら?}


 振り返る。そこにはあの日から一切美しさの衰えない彼女がいた。正妃という立場でありながら着飾る様なドレスを嫌がり、質素な服装を好んだ。誰もそれを否定しなかった―――彼女自身と比べればあらゆる装飾が陳腐になってしまうからだ。


 腰まで伸びる緩やかなウェーブのある銀髪。まるで心の奥底まで見透かすような色の瞳。白く、傷一つない肌。伸ばしてくる手は優しく頬に触れ、それだけで心地よさのあまり目を瞑ってもう一度眠りそうになる。魔性としか表現できない愛嬌と美しさ。この頃の彼女にはその二つが揃っていた。


 誰もその“女”には抗えない。彼女は生まれ枯らして神に愛されていた。神に個人として与えられるべき全てを与えられた。美貌、知性、財産、名誉、地位……彼女が持たずに生まれたのは武力だけだった。だがそれも、幼馴染として最強の暴力装置が生まれた事で解決した。


 彼女が持たない物は存在しなかった―――人生の勝者であり、誰もが羨む完璧な人生の持ち主。


 それがエリスという女だった。


「長い間、お前を夢の中で見る事はなかった」


「でも定期的に私を思い出していたでしょう? 私はそこにいないのに、常に傍にいる様な気がして視界の端を目で追ってた」


 笑って彼女は離れる。花畑に舞う花びら、それが彼女の横を抜けて夢の端へと呑まれて消えて行く。何をやっても絵になる。何をしていても肯定される。だがそれで彼女が驕る様な事も、増長する事もなかった。人としても、貴族としても満点だった。


 ―――たった、一点を除けば。


「カシウス。何時になったら私の事を貴方は忘れられるのかしら? 貴方は私を捨てて国を出て、それで十五年の放狼を選んだ。騎士の矜持を忘れず、それに相応しい行いをし続けようと遍歴の騎士として戦い続けて……戦いと冒険続きの日常を送っても私を忘れられなかった」


「ああ、そうだ。未だにお前の事を忘れられない」


 一緒に過ごした子供時代を。共に駆け抜けた青春を。去る事を選んだ最後の時間を。ずっと忘れられない。ずっと心の奥底で魂を縛っている。


「可愛そうなカシウス……貴方は生まれてからずっと、たったの一度も私から自由になった事はなかったのね」


 溜息が零れる。頭を押さえる。目を瞑って開ければ、体は再び三十代のものへと戻っていた。空を見上げ、差し込む朝日を見る。今日も夢見が悪くてあまり眠れない夜を過ごした。十五年間ずっとそうだった。城を出て以来、熟睡出来た事なんて一度もなかった。


「死んだんだ、いい加減思い出になったくれ」


「なるわ。貴方が私を諦めたら」


 それはあり得ないだろうけど、と彼女は笑った。その仕草があまりにも本人らしくて、あまりにも生きている様に見えて、あまりにも生々しくて……それが俺の生み出した夢や幻聴ではなく、本当に彼女の魂が冥府を抜けて俺に会いに来たのではないかと都合の良い事を考えてしまう。


「あの子をよろしくね、カシウス」


 微笑む様に。


「―――私の代わりになる様に育てた子を、ね」


 その言葉と共に完全に目覚めた。


 見えるのは彼女の微笑みじゃなくて小屋の天井。ぼろくて、頼りなくて、そして現実感の強い古い小屋の天井。溜息を一度だけ吐き出し、夢の残滓を頭の中から追い出す。それで自分の心と精神を掌握して直ぐに意識を切り替える。


 地獄の様な逢瀬の時間は終わり。


 現実に戻ってきたら責務を果たさなければならない。


 そうでなければ、生きている意味も価値もない。


 横を見ると直ぐ横に毛布に体を包めたエヴァの姿が見える。体を暖かくして寝ている彼女は毛布だけではなく、魔術によって快適に眠れるように保護されている。そのおかげで極寒とも言えるこの樹海の中でも快適に眠れている。


 眠っているエヴァの頭に手を伸ばそうとして……引っ込める。


「自分の代わりに、か……まさかな」


 毛布をポーチの中にしまい込み、窓の傍まで移動する。設置した警報用のマジックアイテムはどれも起動していない。侵入者も追手もないのに安心し、マジックアイテムを回収する。その際に外の寒い空気をたっぷり肺の中に吸い込んで、その苦しみで意識を律する。懐中時計を確認すれば予定通りの起床時刻だ。エヴァを起こすかどうかに悩むが、彼女は狂も相当な距離を歩く必要がある。


「先に朝食の準備だけしてもう少し寝かしておくか」


 エヴァと同じ毛布の中にある小鳥がちょっと寝苦しそうにしているのが少し面白いが、何時までもそれを眺めている訳にも行かない。


「あぁ……これで騎士としての責務を果たしてお前の事を忘れる事にするよ、エリス」


 今日も北の寒さが襲い掛かる一日が始まる。





「今日はどこを目標としているんですか? 今回も捨てられた村を野営地にするんですか?」


 野営地を発ち、昔は存在しても今では草木によって塗りつぶされた道。それを沿うように歩き出すとエヴァが歩きながら話しかけてくる。振り返らず先導しながらその声に答える。


「ここにはかつて無数の村や街があった。冬が酷くなるにつれてそれらは自然と潰れ、樹海を出た民は帝国に庇護を求め飲み込まれた。だからこの樹海にはいくつかの街や村の残骸があってその幾つかは冒険者たちに野営地として利用されている……って話はしたな?」


「昨日しましたね」


「だがその全てが廃棄された訳じゃない。この樹海にはまだ帝国に抗う者達がいる。そう言う連中がそのうち幾つかを再利用している。ここに来る前は余り詳しい話は解らなかったが、シャーマンやドルイド達はどうやら今でも反帝国思想の中この樹海で生活してるらしい」


「どうやって暮らしてるんでしょう……?」


 首を傾げるエヴァに俺もそうだなぁ、と声を零す。正直この寒さと環境の中で欲もまあ、長い事暮らしていけるなって思える。


『別に環境に適応するのはそう難しい話じゃないわよ?』


 小鳥の声に視線が其方へと向けられる。


『ドルイドがいるんでしょ? だったら環境を改造するなり、肉体を改造するなり手段はどうとでもなるわ。土着の術師が自分の地域や環境に合わせて肉体を弄る事はそう珍しい話でもないわ……聞いた話、ここの連中はそれこそここでしか生きられないように弄ってるんじゃないかしら?』


「そこまで……するんですか?」


『するわよ。それが信仰ってもんよ。ウチはそういうのが必要な環境でもないからいないけどね』


 肉体を改造する必要がある程に過酷な環境でも、そこに食らいついて生きて行く。その生きざまはもはや信仰心という言葉でしか説明出来ないだろう。文化も、信仰も、全てが違う。理解出来ないが、そういう在り方であると認める事は出来る。他者の在り方に対して寛容である事は上に立つ人間に必要な資質の一つだがエヴァはどうだろうか?


「そういうものですか……」


 不承不承という様子で飲み込んでいるのを見るのに、理解はしないがそういうものだとは納得したようだ。


 周りを見れば凍り付いた木々と雪に埋もれた草花ばかりで景色が変わり映えしない。定期的にコンパスを取り出して方角を確認しなければ容易く迷いかねない道ばかりだ。


「それで……結局野営地はどうするんですか?」


「樹海を進めば進むほど連中のテリトリーに入る。当初は廃棄された村の一つで夜を過ごす予定だったんだが……どうやら今は危険らしいからな。交渉できるかは不明だし、樹海の中央を避けて別の候補地を利用する事にする。だから今日は昨日よりも多めに歩くぞ」


 無論、樹海を抜ける道は決して一つではない。一つがダメならまた別の道を通れば良いだけの話だ。直前に樹海に関する話を聞いておいて良かったとも思う。それでも何かが樹海の中で起こっているのだろうというのは解るのだが。


 それに関わる必要はない。


 俺達にとって重要なのは特に大きなトラブルに遭遇せずに樹海を抜け、追手が来る前に帝都にいるレノアの本体と合流する事だ。能力が制限された小鳥の使い魔ではなく本人と合流すれば出来る事は一気に増える。


 そこまで行けばもう国境までウィニングランとも言える。それだけ手札の揃っている魔術師というものは強く、便利だ。


「まあ、心配する事はない。今夜も快適に眠れる事は約束する。候補地は幾つかあるし、一つがダメでも他のがまだある。君は何も気にせず―――」


「あっ」


「気にせず……あっ?」


 振り返りながらエヴァに答えていた所、エヴァが足を止めて此方の肩越しに後ろを見ていた。エヴァの視線に合わせて振り返れば、そこには巨大な茶色の影が見えた。


 ゆっくりと、木々の合間の陰から姿を見せる茶色の影は―――二メートルを超える巨体を持つ、熊の姿だった。


 体に淡く光る紋様を浮かび上がらせた熊は四足歩行で樹海の影から出てくると二足歩行となって立ち上がり、その黒くてつぶらな瞳を向けてくる。一瞬で俺の背にしがみついて隠れたエヴァの判断力の速さに心で褒めつつも熊に声を送る。


「……やあ、そこの熊さん。ちょっとここら辺を通りたいんだけど、見逃してくれない?」


 俺の言葉にすんすんと鼻を鳴らした熊は動きを止める。


「あっ、もしかして通してくれそうですか?」


 その姿に希望を抱いたエヴァが笑顔を浮かべ、


「ヴォォォォオオオ―――!!!」


 熊が空に向けて放った咆哮に一瞬で顔を青ざめさせた。


「どうやらダメらしい」


 空へと咆哮を終えた熊が四足歩行へと戻ると一気に体に力を込めるのが見えた。その瞬間しがみついていたエヴァの拘束からするりとすり抜け、足元の雪を爆発させるように吹き飛ばしながら旬パンツする。一拍遅れて熊が飛び掛かるように牙と爪を向ける。


 だがそれよりも早く、軽く身を屈んで顎の下に到達する。


『殺しちゃダメ!!』


 小鳥の叫び声にクレイモアに伸ばしていた手を引っ込め、逆の手で拳を作る。


「しっ!」


「ヴォッ!?」


 殴り上げるように顎に拳を叩き込む。飛び掛かる姿が叩きつけられた拳によって停止し、顎から牙が砕ける感触を拳に伝えながら体が跳ねあがる。上へと向かって吹き飛ぶ熊の足を掴み、それをそのまま地面へと向かって振り下ろす。


 ずしん、と超重量が雪のクッションに衝撃を吸収されながら叩きつけられる。それでも顎を砕かれた痛みと衝撃が熊の脳を揺らして戦闘不能に追い込む。完全に目を回してダウンする熊の足を解放し数歩下がると熊の姿が光に包まれる。


「え……人? いえ、もしかして彼が」


『そうよ、この樹海のドルイドね』


 光が消えると熊の姿は民族的な意図を持つ服装の人へと姿を変えた。装着している触媒や装飾を見る限り、やはりこの人物が樹海に住まうドルイドなのだろう。体に刻まれているタトゥーは先ほど熊の時に光っていた紋様と一致する。


「熊が人に……いえ、人が熊に?」


『ドルイドお得意の森羅の生物に変身する魔法ね。鳥とか狼とか熊とか人気よ。好意のドルイドになれば更に高位の生物、それこそ幻獣の類にも変身できるようになるわ。しっかし相変わらず馬鹿力ねアンタ……』


「殺すなって言われたから気絶させたがこれで良いのか?」


 倒れているドルイドに近づき、脈を測りつつ顔に手をかざすが反応はない。生きてはいるが完全に意識が落ちている。振り返り小鳥を確認すると小鳥がエヴァのコートの中に隠れるように入り込んだ。


『ドルイドは森や樹海と契約する事でその自然の力を借りる事が出来るし、シャーマンはその地に根付く魂と交信して力を借りるわ。ここの連中は経緯的に土着の民で恐らく精霊や祖霊信仰でしょ? 殺すとこの樹海や帝国に抗って死んだ魂そのものが敵に回るわよ』


「成程、そりゃあ面倒だ。だけど―――」


 言葉を話している最中に、狼の遠吠えが樹海に響く。応えるように熊の咆哮が木霊する。樹海の至る所から返答するように、響くように、合奏するように狼と熊の遠吠えが響き、最後に大鳥の嘶きが響く。空を見上げれば暗い樹海の天蓋の向こう側で飛ぶ生き物の気配を感じ取れる。


「そうしなくても面倒な事になったな。こんな浅い場所が連中のテリトリーになっていたとはな」


『参ったわね。相当な数が来るわよ、これ』


 狼の遠吠えと熊の咆哮が近寄って来る。単純に相当数が此方へと向かって来ているのがそれだけで伝わってくる。生命感知をする必要もない。群れと呼べるレベルで此方に向かっている。参ったな、と声を零して頭を掻く。


「大変な事になった」


「大変ってだけで済ませられる範囲を超えたと思うんですけど!? どうするんですかこれ!?」


 うっすらと絶望感を顔に漂わせるエヴァに近づき、失礼と声をかける。それで何をするのかを察したのか持ち上げやすいように態勢を調節してくれる。膝の裏に手を通してもう片手を背に、横抱きにして持ち上げてから近くに来たエヴァの顔を見る。


「片腕を開けたいから首に手を……あぁ、そう、そんな感じだ」


 迷う事無く首に腕を回すと両腕で首からぶら下がる様な形になる、限界まで密着してくるエヴァが顔を肩の上に乗せるように抱きしめてくる。それなりに力が入っているせいで色々とコート越しに体のラインが伝わってくるのだが、羞恥心とか大丈夫だろうかこの娘は?


「あの、カシウスさん? これ大丈夫ですか? 私を抱えて逃げ切れるんですか……?」


「熊と狼の群れに追いかけられる経験はちょっとないから解らないなあ」


「そこは嘘でも余裕だって言って欲しかったです」


 はっはっは、と笑って誤魔化している間に樹海の影から灰色の影が飛び掛かってくる。


 狼。雪原に、樹海に適応した地方特有の珍しいタイプの狼だ。それが横から現れた。現れたと思った瞬間には既に牙が此方へと向けられて飛びついている。迷いのない動きは最初から敵対して現れたという事の証であり、体に浮かび上がる紋様はドルイドの変身である事を証明する。


 その姿に向けて腕を掲げ、噛みつかせる。


「カシウスさ―――」


 噛みついた狼の牙が腕に突き刺さ―――らない。力を籠め、顎の筋力を総動員しても牙が着ている服も、肌も貫通する事はない。そして噛みつかれたまま腕を振るい逆方向から気配を隠して飛び掛かってくる狼に叩きつけて吹き飛ばす。


「ぎゃぅ!?」


「ヴォォぅ……」


「グルルルゥ」


 樹海の影から、奥から、徐々に狼と熊が姿を見せ始める。その更に奥から僅かながら魔力の気配を感じる。数は少ないがシャーマン達も集まってきているのかもしれない。数の少ない侵入者に対する殺意の高さが異様だ。


『エヴァちゃん、覚えておくと良いわ』


 開いている右腕を軽く振るい、拳を開け閉めして感触を確かめる。


『古城からアンタを救い出した時、アンタはこいつの戦う姿を見てなかったわね。なら理解出来て居なくても仕方がないわね』


 はぁ、と口から白い息を吐き出して呼吸を整える。通常用から戦闘用へ。回復力を重視した呼吸から身体能力を引き上げる呼吸法へと。生命力を燃焼させ、それを闘気へと変換する。それはつまり、戦闘用のリソースを作り出すという事だ。


『アンタが身を寄せてるそれは15年前にはアストリアで最強と呼ばれた男よ』


 一、二、三―――軽く飛ばして気配は十二。相手は余裕で出来る数だ。だがまだまだ増えそうな気配もある。全てを相手するのは面倒だ、適当に数匹重傷を負わせたらそれを足止めにして逃げる方が賢いか。


『そして私が見た限り……三十を超えるというのに衰える様なものを見せず、あの頃と姿もほぼ変わらないわ。安心しなさい』


 良し、と声を零し、一番近くの熊に指をクイ、っとする。


「少し遊んでやる。かかってこい」


『アンタを守ってるのは大陸最強の男よ』


 その言葉と共に、獣に変身したドルイド達が一斉に襲い掛かってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る