春と氷とクローバー

秋色

Frozen Leaf with Luck

 朝もやの立ち込めるバス停に近付くと、僕はスマートフォンを鞄の中から取り出した。



 職場が遠いので、毎日、早朝に起きている。朝の五時前に起きて、まずテレビをつけるのが日課だ。一人暮らしの部屋ではどうしても人の声を聞きたくなるから。

 この時刻にニュース番組を放送している民放の局は一つだけ。少なくとも僕の住んでいるこの地域ではそうだ。他の局は、国営放送を除くと、通販番組ばかりで騒々しい。



 テレビに映るのは、僕と同じ二十代後半と思われる女性アナウンサー、一人だけ。いや、もしかしたらもっと若いのかもしれないし、もっと年上なのかもしれない。

 年齢不詳なのは、その厚化粧のせいだった。たぶん元々、目鼻立ちのハッキリとした美人なんだとは思うけど、なんせ一昔前の女優みたいな厚化粧だ。そのせいで、マネキン人形みたいに見えてしまう。あまり好みのタイプじゃない。そういつも感じていた。

 それにこのスタジオは、照明ライトの当たり具合も何だか変。高校時代に演劇部だったので、照明ライトの効果のちょっとした知識はある。何だか左右対称でない気がするのだ。

 でもどちらにしても寂しさを紛らすためだけにつけているテレビだから、どうでも良い。ただそのアナウンサーを見た時に感じる不思議な既視感とそれに伴う弱冠ヒキ気味の何かがあり、いつもモヤモヤしていた。




 三月の終わり。まだ少し風が冷たいのに、どこかのショッピングモールからもらったカレンダーの中だけは赤いチューリップの花が風に揺れていた。


 今日もいつものように、リモコンでテレビをつけた。瞬間、画面に広がるスタジオと女性アナウンサーの顔。

「ん? いつもと違う」と感じた。

 何だろう?  

 しばらく画面を見つめて気が付いた。今日は照明ライトが左右対称なのだ。

 そしてそのせいか、アナウンサーの右側の頬にうっすらと影が差しているのに気が付いた

 それは影でなく、あざだ。僕は色々と想像した。昨日から今朝までの間に交通事故にでもあって、顔を打撲するくらいで済んだけど、青痣あおあざだけは、いつもの厚化粧をしても消すに至らなかったのではないか、とか。

 あるいは、結婚生活の中でドメスティック・バイオレンスを受けていて、昨日から今朝までの間に夫から激しく顔を殴打されたのかもしれない、とか。もしそうなら冷静にニュースを読んでいるのはスゴい精神力だな、とか。


 でもよくよく考えて気が付いた。今日だけは照明ライトが普通に左右対称だ。逆に言うと、照明ライトが普通なのは今日だけ。と言う事は、彼女の右頬にはずっとあざがあり続け、単に照明のマジックでそれを隠していただけなのではないだろうか?

 そして僕は、不思議な既視感とそれに伴う弱冠ヒキ気味の何かがどこから来ているのか、思い当たった。

 あのアナウンサーを見ると、小学校五年生の時に同じクラスだった藤堂さんを思い出すのだ。そこからの既視感。別に顔が似ているとかではない。いや、美人という点、ただし何故か好みのタイプの中に入らない女子という点では同じだ。でも問題はそこではなく、頬のあざだ。今までも何となく無意識にこのアナウンサーの頬の不自然な陰に、実は気が付いていたのだと思う。

 昔のクラスメートの藤堂さんにもあざがあった。それは右でなく左の頬。いつも左側の窓際の席が彼女の席で固定していた。ちょうど眼の悪い子が一番前の席になる事を最初から約束されているのと同じように。でも、肩までの長い髪が頬に被さって隠していたので、初めは気が付かなかった。


 なぜ知る事になったかと言うと、ある日、帰り道が一緒になったから。正確に言うと、帰り道が一緒になったクラスメート四人のうちの二人が僕と藤堂さんだったのだ。そしてさらに正確に言うと、そのうちの二人である藤堂さんと鈴ちゃんという女子はいつも一緒に帰る仲良しだった。もう一人は裕真君という、ちょっとお調子者のキャラの男子。

 四人は、子どもにありがちな気まぐれで、近所の野原にたくさん生えているクローバーの中から、四つ葉のクローバーを探す遊びを始めた。四つ葉のクローバーを見つけると幸運が訪れるという、アニメの登場人物の言葉に翻弄されていた。実はこれは昔から有名なジンクスであるのに、僕達男子二人はその頃初めて聞いて、幸運という言葉に吸い寄せられたのだった。


 一面クローバーの生えた野原なのに、なかなか四つ葉を見つけられない。裕真君が一つ、そして鈴ちゃんは、なぜか五つも見つけていた。僕と藤堂さんは、なかなか見つける事が出来なかった。そんな時、ふとかがんで四つ葉を探している藤堂さんの横顔を見てあざに気が付いたのだ。うっすらとしたあざで、そんなに厚く髪で覆わなくていいのに、とその時、思った。もちろんたとえ薄くても思春期の心の中に、そのあざは重くのしかかっていたのだと今なら分かる。

 その日、幸運のクローバーを探しているうち、いつの間にか太陽が黄金こがね色に輝いていて、夕暮れが近付いた事を知った。僕がまぶしい太陽に目を細めているうちに、家が少し遠い鈴ちゃんと裕真君は、親に叱られるからとクローバー探しをやめてあっさり帰った。四つ葉のクローバーを見つけたので、満足していたのだと思う。僕も心残りながらもその場を後にしようと思った。

 と、その時だった。藤堂さんが「あのね、私の家に宝物の四つ葉のクローバーがあるの。見に来ない?」と言ったのは。僕はすっかり四つ葉のクローバーに魅せられていたので、「うん、見に行く」と答え、ついて行った。

 藤堂さんの家は割と近くで、ごく普通の、いや僕の家より新しくて大きな家だった。


「入って。家族はこの時間、誰もいないの」誰もいないと聞いていながらも、僕は「おじゃまします」と言いながら入った。


 藤堂さんは、すぐに台所に行き、冷蔵庫を開けると、「ほら」と言って、何かを取り出した。

 それを見た僕の第一声は、「わぁ、綺麗だな!」だった。そこには横が十センチ位の楕円形の氷の塊があって、その中にみずみずしい若草色の四つ葉のクローバーが閉じ込められていたのだ。


「ね、綺麗でしょ?」藤堂さんは僕の反応に満足した様子で、うっとりと氷を見続けた。「前に家族で出かけた時に見つけたの」


 それを自慢したい一心だったのだと思う。見せ終わると、あとは特に何か他の話をするわけでもなかった。僕は、「すごいね」と感想を言い、家に帰ったけど、それは当時の本心だった。

 幸運を呼ぶという四つ葉のクローバーを、裕真君も鈴ちゃんも見つけたと自慢するばかりで、よく見せてはくれなかったから。最後に氷詰めとは言え、本物をじっくり見る事が出来て満足していた。それに、あまりにも美しかったので感激もしていた。と同時に、なんであんな風にいつまでも氷詰めにしているのかなと少しギモンにも感じていた。

 前に家族で出かけた時に見つけたと言っていたけど、それは一体いつ頃の事なんだろう、と。そして氷詰めされても幸運を呼ぶ価値に変わりはないのだろうか、と。

 次の日に教室で藤堂さんに会った時、僕達はクローバーの話を二言三言したかもしれない。でもそれだけで、その話題はもう取り上げられる事もなく、六年生ではクラス替えがあって、藤堂さんとは別々のクラスになった。

 その後行った中学校では藤堂さんの名前を聞く事もなく、同級生から彼女は父親の仕事の都合で北海道へ引っ越したと聞いた。



 アナウンサーの頬のあざにもし気が付かなかったならば、僕は藤堂さんの事をこれから先の人生で二度と思い出す事はなかっただろう。いや、そうとも言えないか。誰かが四つ葉のクローバーの事を話題にするかもしれない。

 現に以前、社員旅行先の高原ホテルのお土産屋さんで、四つ葉のクローバーの押し葉を見た時に、ふと藤堂さんの事を思い出した。

 こういう風に押し葉にすれば、鞄に入れる事も出来る。でも氷詰めでは持ち運びはちょっと無理だなぁと考えたような気がする。


 今、画面に写ったアナウンサーを見て、かつての同級生とシンクロさせていた。マネキン人形みたいな顔をして、あざを隠しているところ。読み間違い等決してやらかしそうにないアナウンサーは、勉強も片付けもそつなくこなす藤堂さんと本当にシンクロする。

 そこがたぶん自分にとって弱冠、引いてしまうところなんだな、と思った。いくら緑鮮やかに四つ葉のクローバーを保存できても、氷の中に閉じ込められてるんじゃ幸運もないよなぁと自分的には感じられて、それが藤堂さんとの思い出に、幾分ビターなものを感じる原因となっている。


 こんな風に物思いにふけっていた僕は、ふと時計を見た。もうこのニュース番組も終わり、あと三分で靴を履き、家を出ないといけない。通勤のバスに余裕で間に合うようにするためには。

 その時、テレビの中のアナウンサーが急に口調を変えた気がした。


「さて、長らくこの番組を務めさせて頂きましたが、本日で卒業させて頂く事になりました。四月からも、この番組をどうかよろしくお願い致します。

 私は、四月からは外国に留学し、戯曲の勉強をする事になりました。テレビをご覧の皆様にとっても、この春が新しいスタートの季節となりますように」


 僕は初めてこのアナウンサーの笑顔を見た。四つ葉のクローバーを閉じ込めていた氷がぱりんと割れた気がした。


 そう言えば……。あの藤堂さんの家にあった氷は北海道までその楕円形を保てず、溶けたのではないだろうか、そんな考えがふと頭をよぎった。

 そして氷詰めの四つ葉のクローバーは、十数年前に氷が溶けた時、きっと自由の身になったに違いない。

 ついでに藤堂さんに幸運をもたらして。解凍された幸運のせいで、もうお人形みたいじゃいられなくなった藤堂さんの多忙な日々を想像してみる。あざも前のように気にしていられなくなっていたらいいけど。そう考えながら、リモコンでオフを押すと、テレビの画面は消え、無音になった。

 僕はバス停を目指しながら、知らない北海道の舗道の真ん中を颯爽と歩く藤堂さんの大人になった姿を想像した。そうしたら、さっき見たアナウンサーの顔と被ってしまい、笑えてしまう。

 藤堂さんにもうメッセージを送る事もできないけど、せめてあのアナウンサーのエックスがあれば最新のポストに「いいね」をつけよう。そんな風に思い、今、スマートフォンを鞄の中から取り出したところだ。




〈Fin〉


 

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