会社から帰ると、姉の姿はなかった。

 妻の部屋にあった荷物がなくなっている。机の上のノートPCも、数冊の本も、クローゼットの服も、銀色のスーツケースも……。

 ネクタイを緩めながら困惑していると、コウキがやってきた。学校から帰ってきたときにはもう、姉の姿はなかったらしい。その手には姉の書き置きが握られていた。


〈突然、出て行ってごめんなさい。困ったときは遠慮なく言ってください〉


 それだけだった。

 僕は深い溜息をついた。こんなことになるなら……あんなこと、言わなければよかった。

「どうして出ていったの?」

 コウキが小さな声で尋ねてくる。抱き寄せて、その背中を擦る。

「お姉さんの都合もある。ずっと一緒に住むわけにはいかないよ……」

 そんな言い分で納得するとは思えなかったが、それ以上のことは言えなかった。

 とりあえず二人で食事をして、風呂に入った。姉がいないだけで、夜は長く静かだった。なかなか寝つけないコウキのそばに寝転んで、同じ天井を見上げる。

「もう戻ってこないのかな……」

 寂しさを埋めるように、コウキは姉と二人で遊びに行ったときのことを、ぽつりぽつりと話してくれた。

「二人で泣いたんだ」

 科学センターのプラネタリウムで夜空を眺めていたときに、姉が突然泣き出したらしい。

「どうして泣いてるの? って訊いたけど、何でもないって、また泣いて」

 他人を想うとき、人は空を見上げるという。ドームいっぱいに映し出された星々を見ているうちに、コウキも泣きたくなったようだ。

「手を繋いで、こうしてくれた」

 コウキは僕の手を取って、自分の頭にあてた。

「同じ匂いがした、お母さんと……」

 コウキの髪を撫でているうちに、小さな寝息が聞こえ始めた。しばらく寝顔を見守っていたが、静かに起き上がって、コウキの部屋をあとにした。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出して、リビングのソファに腰を下ろす。背もたれに身体をあずけ、姉やコウキの涙のわけを一人考えた。

 僕らは同じ喪失感を共有しているから、家族のようになれたのだろうか。互いに傷ついた心を癒し、補いあっているから……。

 いや、本当にそれだけなのだろうか?

 落ち着けず、妻の部屋へ行ってみた。閉め忘れたクローゼットの扉が開いている。

 こんなにも呆気なく、人はいなくなるものなのか。あのときも、そして、今も……。

 クローゼットの折れ戸に背中をあずけるように座り込んで、ビールの缶を床に置く。僕の重みで、戸がレールを滑って開いていき、そのまま仰向けに寝転がった。

 クローゼットの中に頭を斜めに突っ込んだまま、何も考えず、呼吸だけを繰り返した。

 頭上に、ハンガーで釣られた妻の服の群れがある。その布の僅かな隙間に、妻の気配が今もまだ残っている気がした。その気配というか、匂いを吸い込むうちに、妙な安心感に包まれていくのを覚えた。

 まるで妻に頭をあずけているような、そんな錯覚に陥った。

 緩やかな微睡まどろみの中へ、僕は身をゆだねようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る