6
会社から帰ると、姉の姿はなかった。
妻の部屋にあった荷物がなくなっている。机の上のノートPCも、数冊の本も、クローゼットの服も、銀色のスーツケースも……。
ネクタイを緩めながら困惑していると、コウキがやってきた。学校から帰ってきたときにはもう、姉の姿はなかったらしい。その手には姉の書き置きが握られていた。
〈突然、出て行ってごめんなさい。困ったときは遠慮なく言ってください〉
それだけだった。
僕は深い溜息をついた。こんなことになるなら……あんなこと、言わなければよかった。
「どうして出ていったの?」
コウキが小さな声で尋ねてくる。抱き寄せて、その背中を擦る。
「お姉さんの都合もある。ずっと一緒に住むわけにはいかないよ……」
そんな言い分で納得するとは思えなかったが、それ以上のことは言えなかった。
とりあえず二人で食事をして、風呂に入った。姉がいないだけで、夜は長く静かだった。なかなか寝つけないコウキのそばに寝転んで、同じ天井を見上げる。
「もう戻ってこないのかな……」
寂しさを埋めるように、コウキは姉と二人で遊びに行ったときのことを、ぽつりぽつりと話してくれた。
「二人で泣いたんだ」
科学センターのプラネタリウムで夜空を眺めていたときに、姉が突然泣き出したらしい。
「どうして泣いてるの? って訊いたけど、何でもないって、また泣いて」
他人を想うとき、人は空を見上げるという。ドームいっぱいに映し出された星々を見ているうちに、コウキも泣きたくなったようだ。
「手を繋いで、こうしてくれた」
コウキは僕の手を取って、自分の頭にあてた。
「同じ匂いがした、お母さんと……」
コウキの髪を撫でているうちに、小さな寝息が聞こえ始めた。しばらく寝顔を見守っていたが、静かに起き上がって、コウキの部屋をあとにした。
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、リビングのソファに腰を下ろす。背もたれに身体をあずけ、姉やコウキの涙のわけを一人考えた。
僕らは同じ喪失感を共有しているから、家族のようになれたのだろうか。互いに傷ついた心を癒し、補いあっているから……。
いや、本当にそれだけなのだろうか?
落ち着けず、妻の部屋へ行ってみた。閉め忘れたクローゼットの扉が開いている。
こんなにも呆気なく、人はいなくなるものなのか。あのときも、そして、今も……。
クローゼットの折れ戸に背中をあずけるように座り込んで、ビールの缶を床に置く。僕の重みで、戸がレールを滑って開いていき、そのまま仰向けに寝転がった。
クローゼットの中に頭を斜めに突っ込んだまま、何も考えず、呼吸だけを繰り返した。
頭上に、ハンガーで釣られた妻の服の群れがある。その布の僅かな隙間に、妻の気配が今もまだ残っている気がした。その気配というか、匂いを吸い込むうちに、妙な安心感に包まれていくのを覚えた。
まるで妻に頭をあずけているような、そんな錯覚に陥った。
緩やかな
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