第1章 憧れと決意

第1幕 出会い

 朝の陽が昇る頃、今日も中央広場には一人の少女がいた。教会の泉を中心とした中央広場には、朝早くから右から左へ、左から右へ、仕事に向かう大人が通り過ぎていく。その中で一人、泉を囲む石造りの囲いの縁に、その少女は腰掛けていた。紺色の半ズボンに白いシャツ、というボーイッシュな格好で足を遊ばせている。

「ヘレナ・ランカスター…」

 少女はぽつりとつぶやく。この国を、そしてこの平和を打ち立てた一人の王と、一人の女騎士の伝説。ヘレナ・ランカスターというのは、その女騎士の名前だった。物心ついた頃から、何度も両親に聞かされた話…それを聞くたびに、少女は憧れの念を強くしていったのだった。

……わたしも、ヘレナみたいな強い騎士になれたらなぁ……

 少女の名前はルシア。鮮やかな真紅の長い髪を水面に映し、自分が生まれるよりずっと前の伝説に憧れる、ごく普通の八歳の子供だった。ふわり、と風が吹き、少女の髪をゆらして水面を撫でていく。こうして今日も、この町の…ルシアの一日が始まる。


 ルシアの家は貿易業を営んでいた。海に面したこのブルーメ国において、諸国と陸路・海路での交易を行っている。

「ルシア嬢、その帳簿を旦那様の所まで持って行っておくれ」

「はいっ!」

 丸眼鏡をかけた初老の婦人に頼まれ、ルシアはてってってっと帳簿を運んでいく。大きな家の中、ルシアは主に雑用係・小間使いとして日々手伝いをしていた。

「お父様、ルシアです!」

 とある部屋の前で立ち止まり、トントントン、とドアを叩くと、入りなさい、という優しい声が返ってくる。ゆっくりとドアを開けると、中にはよく手入れされた髭を持つ紳士風の男がゆったりと椅子に座っていた。ルシアの父親である。立派な横長のテーブルには、読みかけの新聞が置いてあった。

「アンナさんから、帳簿を届けるように言われました」

 ルシアが言うと、男は軽く笑みを浮かべる。ルシアはてくてくと部屋に入り、ぐるっと机を回って父親の目の前に行くと、帳簿をすっと差し出した。

「ご苦労様、ありがとう。ふむ…モント国との塩の取引帳簿か…」

 ルシアには何のことだか分からなかったが、モント国というのが北の同盟国だということは知っていた。

「頑張って、お父様! わたしも、お手伝い頑張るから!」

 ルシアはきらきらとした目で父親を見上げた。

「ははっ、ありがとう」

 父親はそっと帳簿を引き出しにしまうと、ルシアの頭を撫でた。

「さ、また向こうで頑張っておいで」

「うんっ」

 もうしばらく撫でていてほしい気持ちを胸の奥に押しやって、ルシアはドアへ向かった。

「また、後で来るから」

 ルシアが言うと、男はゆっくりと手を振った。ルシアも、手で少しバイバイをして、そっとドアを閉めたのだった。


 夕暮れが迫る頃、再びルシアは中央広場の泉へ向かう。この時間の広場は、一日も終わりに近いこともあって、少し疲れた顔の大人があちこちにいた。仕事に向かう朝と違い、ある者は家路を急ぎ、ある者は小休止し、ある者は夕日を眺める。ゆったりとした時間が流れていた。

……綺麗な人……

 この時間のヘレナ像は、まるで本当に生きているかのように夕日の色に染まっていた。今にも、燃え盛る火のように動き出しそうな佇まいである。ルシアがしばらく見つめていると、ふと像を挟んだ反対側に人がいる気配を感じた。

「…誰?」

 思わず声を出してルシアは像の反対側に回り込む。

「あっ…」

 声を出したのはどちらだったか…ルシアの目に飛び込んできたのは、明らかに貴族の娘と分かる服装をした、同い年くらいの三つ編みの少女だった。一瞬、目を見開いてお互いを見詰め合う。茜色に染まった瞳はゆらゆらと揺らぎ、その彼方にルシア自身が映っている。幼さを残した目元は優しさを帯び、長い睫毛が瞳の下に小さな影を落としていた。水色と白を基調にしたフリルの服も朱く染まり、栗色の髪がゆったりと胸の前に垂れている。女の子なら誰でも見とれてしまうような、お人形のような子…それが、ルシアがその少女に抱いた第一印象だった。

「……ぇ、えっと……」

 最初に口を開いたのはその少女だった。ルシアも我に返って瞬きをする。

「あっ…わたし、ルシア…ルシア・イルバスター。この先の貿易商の娘なの!」

 無意識に視線を逸らし、ルシアの口から出たのは、そんなありきたりな自己紹介だった。人差し指で遠くにある自分の家を指し示す。

「私…リムネッタ・フォン・スタンドーラ…」

 そのリムネッタという少女は、ぽつりと名前だけを告げると、黙り込んでしまった。フォン、というのは貴族の家柄を示す言葉…それぐらいは、幼少のルシアでも知っていた。

「リムネッタっていうんだ、素敵な名前!」

 ルシアが言うと、リムネッタと名乗った少女は、少し目を伏せる。リムネッタの頬は赤く染まっていたが、夕日の色に紛れてルシアは気付かなかった。リムネッタが口を開こうとした時、不意に町に鐘の音が鳴り響いた。夕刻を知らせる教会の鐘の音だ。

「…ね、また明日、ここに来る?」

 ルシアが尋ねると、リムネッタは少し間をおいて、こくりと頷いた。

「わたしはもう帰っちゃうんだけど…また明日も来るから」

 明日も来てね、という言葉を言外にこめつつ、後ろ手に組んで小さく前傾姿勢をとると、ルシアは一歩後ろに下がる。リムネッタはどこか上の空で、ぽーっとルシアを見つめていた。

「それじゃあね!」

 くるっと背を向け、ルシアが大きく手を振ると、リムネッタは小さく手を振り返す。

「……」

 リムネッタは何かを口にしたようだったが、ルシアは気付かず、そのまま家に走っていったのだった。


「リムネッタ、か…」

 家に向かう途中、ルシアはぽつりとつぶやいた。まるでお人形のような綺麗な少女の姿が、まぶたの裏にちらつく。

「お友達に、なれるといいな♪」

 そうつぶやくルシアの顔には、自然と笑みがこぼれていた。

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