第1章 1-4

いつもの様に夜が明ける前に目が覚める。

今日は師匠の所には行けそうにない。

昨日の晩に家職から仕事の追加を言い渡された。

仕事の内容はほぼ変わりないのだが、何の腹いせか、今日は野菜洗いも掃除も洗濯もいつも以上に多い。

昨日確認しただけでも、野菜は他の使用人の分も上乗せされ、掃除はいつもより範囲が広い。洗濯に至っては、これでもかと言うほど積み上げられていた。

たまにこういうことがあるのだが大体、義母か弟がらみだ。

どちらかの機嫌が悪く、八つ当たりも甚だしいが、私にそれが回ってきたのだろう。

とにかく、一つずつこなしていくしかない。

「よし!!」

布団に座ったまま、気合いを入れる。

前世では不幸にも、愛されない辛い人生だったが、今だってそう変わらない。

神様はいじわるだ・・・そう思ったこともある。

愛されないのなら、桜と同じだ。家族にいない物として扱われる辛さ、悲しみには底がない。

でも私は今、生きている。辛くとも、苦しくとも生きている。桜の記憶はあっても私は桜ではない。桜綾(オウリン)なのだ。

それに私には、師匠も鈴明もいる。

だから、私は自分の力で生きていけるまで、耐える。いつかここから抜け出せると信じて。

布団を思い切り剥ぐって、立ち上がる。

寒さにくしゃみが出るが、それもいつものことだ。体がだるいのも、いつものこと。

取りあえず、衣を二枚重ねで着て外へ出る。

井戸まで行って冷たい水で顔を洗うと、目が一気に覚めた。

そのまま、台所へ向かい二籠、山積みの野菜を井戸まで運んで、洗い始める。

最初のうちは良いのだが、段々と指の骨が痛くなるほど冷えると、手が上手く動かない。

冷えた手を息で温めながら、必死に野菜と格闘する。

大根や人参ならまだ良いのだが、葉物は一枚ずつ洗う必要がある。これが意外とめんどくさい。

土が残らないように、綺麗に洗いながら一籠終わる頃には、日が昇り始めた。

急がないと、もうすぐ朝食の支度が始まる。

何度も水を変えながら、手の感覚がなくなっても野菜を洗い続けた。

やっとの思いで野菜を洗い終え、台所に届けた私に、料理係が遅いと罵声を浴びせていたが、それを聞いている暇もなく、そそくさと台所を後にして、洗濯物を井戸へ運ぶ。

いつもなら川まで行くが、今日は運べる量ではない。

井戸で洗うと、他の使用人が井戸を使えないと因縁を付けてくるが、仕方がない。今日はあえてその文句を受けよう。

たらいに洗濯物を適度に浸けると1枚ずつ取り出して、洗濯棒で叩き洗う。

その時、初めて指から血が出ていることに気がついた。手の感覚がないおかげで痛みはない。

(いつ切ったのかな?)

でも、このままでは洗った衣に血が付いてしまう。

ひとまず自分の部屋へ戻って、血を止めることにした。

血が出ている指を押さえながら、トボトボ部屋へ歩いていると家職が慌てた様子で走り寄ってきた。

「桜綾(オウリン)、ここにいたのか!」

息を切らしながら、私の腕をつかむと

「急いで支度しろ!」

と、私を引きずってズカズカと母屋の方へ歩いて行く。

(私、また何かしたのかな?それともまた義母からの呼び出し?)

何の説明もないままに、引っ張られるがまま進んでいく。

しかし、支度とは?

家職がこんなに慌てるのは珍しい。いつもの嫌みもない。

何が起っているのか分からないまま、連れてこられたのは、以前私が使っていた部屋だった。

「ここにある衣と装飾品でお嬢様らしく支度してこい。急いでな!」

「ここにあるって、私の衣は小さい頃の物しか・・・・お嬢様らしくって・・・」

「奥様が着なくなった衣が置いてある。装飾品もあるから、とにかく着飾れば良いから!」

そして私を部屋の中へ押し込んだ。

久しぶりに入った部屋は、私の記憶の中にある物とはかなり様変わりしていた。

どうやら、ここは義母の物置と化したようだ。

寝台も生母が好きだった水墨画も、窓の側の金魚鉢も何一つ残っていない。代わりにあるのは乱雑に積まれた豪華な箱と、大量の衣・・・。

本当に何もない。母の痕跡も私の物も。まるでここは初めから物置だったかのようだ。

感傷に浸りながらも、綺麗に折りたたんで重ねてある大量の衣を眺めながら、どうした物かと考えていた。

6歳の頃から、こんな衣を身につけたことがない。しかもお嬢様らしくとは・・・・どうすれば?

しかも何の説明もなく、急にそんなことを言われても、こっちは困るだけだ。

何枚か手に取って見たものの、やはりどれが良いか分からない。

仕方なく近くにあった衣の山から、なるべく派手ではない薄紅色の物を手に取る。明らかに今着ている物より上質な物だ。

その手触りに感動しながら、私も6歳まではこんな衣を身につけていたのかと、少しさみしい気持ちにもなった。

それからハッとして血の出ていた指を見ると、幸い血は止まっていた。

着なくなったとはいえ、衣を汚せば、どんなことをされるか分からない。

ほっとしながらも、手にした衣を苦労して何とか着替える。

(なんでこんなに複雑なのよ!どれが上だが分からないじゃない。とにかく、町で見かけたお嬢様を思い出しながら着るしかない!)

衣の上に別の衣を羽織る。同じような色であれば、変には見えないだろう。

着終わった後、鏡の前で一応確認する。鏡・・・と言っても前世で使っていたような上質な物ではない。黄みを帯びた玻璃の鏡だが。

衣は取りあえず変ではない・・・と思う。しかし、髪の問題が残っている。いつも適当に結っているが、この衣にいつもの髪型では簪(かんざし)も刺さらない。

鏡の前に座って置いてある先の折れた櫛で、髪をすく。

水だけで洗っている髪は、痛み絡んでなかなか上手く梳けないが、何とか先が揃う位にはなった。

後は上部だけを三つ編みにし、それを団子にした髪に控えめな飾りのない簪を挿す。

(これで良いのかな・・・・)

良いか悪いかは分からないが、取りあえず外へ出て、家職に判断してもらうしかない。

外へ出ると、家職は女性物の靴を持って立っている。

(ああ、靴も破れてたんだっけ・・・)

そう思いながら、家職に近づくと、目をひんむいて、怒鳴りつけられた。

「化粧はどうした!まさかそんな顔で出て行く気か!しかもなんだ、その簪は!もっと良い物があっただろう!」

「でも、私、化粧をしたこともないし、簪も何を使ったら良いか分からないんです。」

「ったく、なんて日なんだ。誰か連れてくるから、取りあえず簪はもう少し良い物を挿せ!」

そう言って靴を押しつけるとまたどこかへ消えていった。

渡された靴は、刺繍の入ったしっかりとした物だった。

それを階段の上に置くと、仕方なく、部屋へ戻ってもう一度簪を選び直す。

もう少し良い物といわれても、どれが良い物なのか・・・・

どれもこれも、大きかったり、豪華すぎて貧相な顔には不釣り合いだ。

そうこう悩んでいるうちに、女性を一人連れて家職が戻ってきた。

女性は部屋に入ってくるやいなや、私を鏡の前に座らせて、何も言わず近くにあった化粧箱を使って、化粧を施し始めた。

表情は明らかに不機嫌で、顔を叩(はた)く力も強い。

私はされるがまま動けず、目をつむったまま、終わるまで固まっていた。

化粧が終わると、頭に簪を挿され、そのまま女性は何も言わず、部屋を出て行ってしまった。

(おう・・・化粧とはこんな感じか・・・)

初めての化粧は、何だか変な気分で、おまけに顔が重い気がした。

確かに多少はよくなったが、不健康なほどこけた頬や肌の荒れは隠し切れていない。

席を立ち、背伸びをしてから、再び外へ出る。

「まぁ普段よりは良いだろう。身につけている物がそれぐらい良い物なら、後は何とでもなる。行くぞ!」

どうやら合格のようだ。ほっと胸をなで下ろす間もなく、家職が足早に歩き始めたので、慌てて靴を履き、跡を付いて行く。

連れて行かれたのは客間であった。

誰か来ているのか、父や義母の話し声が聞こえる。

「いいか、お前は極力黙っていろ。普段の話など決してしてはならない。」

家職はそう釘を刺した後、客間に向かって声を上げる。

「桜綾(オウリン)お嬢様が参りました。」

もう何年も自分をお嬢様と呼ぶ人間はいなかった。新鮮なようで、懐かしい響きだ。

家職は私に前へ進むよう顎を振る。

私は怖ず怖ずと先へ進むとそっと衝立から顔を出した。

「まぁ桜綾(オウリン)、体は大丈夫なの?今日は素晴らしいお客様が来られているの。ご挨拶なさい。」

いつもとは違う猫なで声で義母が話しかけてくる。

(気持ち悪い・・・)

その声色に鳥肌が立つのを感じながらも、衝立から出て挨拶をする。

「胡(コ)・桜綾(オウリン)でございます。」

視線を下げ、左の腰骨辺りの両手を添え、軽く膝を曲げる。挨拶の仕方は、幼い頃習ったが、ぎこちない気がする。

「ほう。胡家(こけ)の娘か。病弱とは聞いたが、細いな。」

聞き覚えのある声が、耳に届く。

その声に反射的に顔を上げると、昨日会ったばかりの領主様が、座っているではないか。

「あっ・・・」

と声を出してしまったが、その後の言葉は飲み込んで、また視線を下げる。

「こちらは朱有の領主様だ。桜綾(オウリン)もそろそろ嫁に行く歳だろう。今回、領主様は都へ行くついでに、親戚筋の結婚相手を自ら探しに来られたそうだ。他にも年頃の娘に会われたらしい。それでお前を訪ねてこられたのだよ。」

結婚って・・・・私はまだ結婚する気はないし、領主様も昨日はそんなこと言ってはいなかったはずだが。

しかも、昨日の私の姿を見られている。それなのにどうしてここに来たのは、なにが目的なのだろう。

「初めまして。朱家当主で朱有の領主、朱・宇航(ユーハン)だ。君は病弱なのかい?」

まるで今日初めて会ったかのように、平気な顔で自己紹介をする。

「はい。お見苦しい姿で申し訳ありません。」

どう反応したら良いかも分からないので、そのまま話を合わせる。

それより膝を曲げたままなのでそろそろ痺れてきそう・・・腰も辛い・・・

「あぁ、顔を上げて。取りあえず座って話をしようか。病弱・・・なのだろう?」

こちらの事情を察したのか、顔を上げさせてくれたのは良いが、含みのある言い方に不安を覚えた。

(まさか、師匠と会っていることを話しに来たとか・・・?)

かといってここから逃げるわけにも行かず、仕方なく義母の隣に腰をかける。

「領主様、病弱ではありますが、何も不治の病というわけではないのです。この子は小さな頃からよく風邪をひく子で・・・。元々、食が細いのですけれど、風邪の時は食が進まないようで。」

義母は衣の袖で口元を隠しながら笑うと、私の方を向いて睨む。

(いらないことを言うなということか・・・)

「そうか。しかしその割には、手や肌が荒れているように見えるが?」

「それは・・・あぁこの所寝込んでいましたので、手入れも出来ていないのです。ほほほほ」

この義母の口と頭はどうなっているのか・・・よくも咄嗟に思いつく物だ。

「そうそう、家には息子もおりますの。まだ14ですが、中々見所のある・・・・」

「いや、今日は娘に会うことが目的なのだ。」

義母の言葉を遮ると、義母は一瞬不機嫌な顔を見せたが、すぐに表情を戻した。

そこへすかさず父が口を挟む。

「春燕(シュンエン)、口を慎みなさい。領主様、うちの娘はいかがですか?貧素には見えますが、気立ては良い子です。」

(何が、気立てがいいだ。ここ何年も口すら聞いたこともない。そんな娘の性格など分かるはずもないだろうに)

「李謙(リケン)殿、判断するにはまだ早い。今、会ったばかりだからな。少し桜綾(オウリン)さんと話をしたい。」

父に有無を言わさず、私と話す気だ。領主の話をしたいは、話をさせろ、だ。

豪商の家とはいえ、地位は庶民と変わらない。逆らえるはずもない。

勝手に進んでいく話と、領主様の考えが読めない状態で緊張したのか、さっきからやけにクラクラして、視線が定まらない。

段々、周りの声が遮られ、水の中にいる時のように聞き取りづらい。

「桜綾(オウリン)、桜綾(オウリン)!返事をしないか!」

父の言葉を最後に、私の意識が飛んだ。




黄泰に発つ6日前。

宇航は夢で久方ぶりに朱雀神と対話した。

明らかに宇航の部屋ではあるが、朱雀神と会うときは、必ず部屋は空っぽだ。そこに宇航と朱雀神のみが存在し、宇航と朱雀神は向き合った形で話をする。相変わらず、ユラユラと揺らめいた姿だが、朱雀神であることは間違いない。

しかし今回の神託は、あまりにも唐突で、しかも予想外の物だったので戸惑った。

いつもなら、黄仁で起きている事件や不穏な動きについての神託が多かった。

だが今回はある女性を助けろという。

「朱雀様、あまりも唐突過ぎて。何故その女性を助けろとおっしゃられるのです?」

「その女子は鳳家の巫女。今、失うわけにはいかん。」

「鳳家?とは・・・私の知らない家系ですが・・・朱雀様に関係が?」

「なければ来ない。5神にとってはなくてはならない存在だ。そしてお主らにとっても、必要な人間だ。鳳家は鳳凰の力を持つ家系であったが、500年前の戦いで鳳凰は傷つき眠りについた。そのため、巫女は力を失ったが、そろそろ鳳凰が目覚める。今、我らは手が離せぬ故、お前の力を借りねばならぬ。」

朱雀神の言っている事は理解出来ているが、疑問が多すぎる。

「朱雀様。鳳家とは鳳凰の守護を持つ家系という事ですか?しかし、そのような話は初耳ですが、鳳凰様は私達にどのような関わりが?」

「いつもより口数が多いな。まぁ良い。鳳凰については500年来、初めて話すのでな。知らなくて当然と言えば当然か。本来なら、鳳凰の力を受け継ぐはずが、先ほども言ったように、鳳凰は眠りについた。そのせいで、巫女の存在や話も封印された。だが、鳳家の血筋なら、それなりに話が伝わっているはずなのだが、今回は少し特殊でな。取りあえず、黄泰の胡家の長女を救え。」

胡家の長女の話ならば、少しばかり情報がある。宇航の友人の弟子で、不思議な物を作り出す女子だ。興味があって調べたことはあるが・・・

「お主の知り合いの知り合いであろう。誰よりもお前が適任なのだ。何が何でも助け出せ。」

「救い出せということは、危険が迫っていると言うことでございましょうか?」

「そういうことだ。急げ。」

「それで、巫女とはどのような存在なのですか?」

「巫女は齢18になると、才が開花する。その才は我々5神、全ての言葉を聞く事が出来るものだ。それも、必要な時に我々と会話が可能なのだ。今はこれ以上、事情が話せぬが、近々、必ず必要となる力だ。頼んだぞ。」

そういうと、煙のように朱雀神は消えてしまった。

夢から覚めて、寝台で慌てて起きた物の、そこはいつもの乱雑に物を置かれた自室だった。

鳳家・・・巫女・・・

鳳凰が霊獣だということは、過去の文献で読んだことがあるような気がするが、それ以上を気にしていなかった。

しかし、朱雀様が言うとおりなら、桜綾・・・と言ったか、胡家の長女がその巫女だと言うことになる。

何故、そんな大事な家系が途絶えそうなのかは、朱雀様からは聞く事はかなわなかった。

だが、朱雀様の言葉は絶対であり、救い出さねばなるまい。

宇航は頭を振り、目を覚ますと、夏月を呼んで早急に黄泰への準備を整えるよう指示を出した。

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