貴方の居る処へ
時輪めぐる
貴方の居る処へ
これはいつかの記憶だ。
私をあの場所へ連れて行ってくれた列車が、今目の前で停車している。
あの場所に行ったのは、貴方が亡くなってすぐのこと。そこは、果てしなく真っ白な空間で、太陽も見えないのに明るくて、噴水だけが印象に残る場所。
この世とあの世の
列車を降りて、噴水の前で待っている。
貴方は息を切らせながら走って来た。
「戻ったのね!」
私は嬉しくて笑い掛ける。
けれど、貴方は悲しそうに首を振った。
「僕の事は忘れて。自分の事をして」
そう告げると、姿は消えてしまった。
声を限りに名を呼んだけれどーー
悲しくて目が覚めた。
涙で頬が濡れていた。
五十年経った今も、昨日のことのように覚えている。
あれから、私は遺された幼い娘を、女手一つで育て上げた。山も谷もあったけれど、お陰様で、娘のサチは結婚して、貴方によく似た双子の男の子のお母さん。もうすぐ還暦になる。
双子の孫も大学を卒業し、社会人になった。
写真の中で笑っている。
私はといえば、
貴方が遺した、この家で独り生きている。
いつの間にか、目は
それでも、身の回りの事は、まだ自分で出来るから大丈夫。
朝五時に起き、好きな読書をする。軽めに朝食を取った後は、ゆっくりコーヒーを味わう。
雀が鳴いている。キジバトの声もする。
開けた窓から眺める庭の木々に、季節の移ろいを教えられる。
アジサイの花芽が出て来た。
空気に雨の臭いがする。
もうすぐ、貴方が逝った季節が来る。
私の楽しみは、生きていること。
死んでしまったら、何も見ることはできないし、聞くことも出来ない。匂いも味もなく、触れることも出来ない。
今を生きる私にとって、過ぎ去った日々は文字通り過去でしかない。
過去は、悲しみが在り続ける処。だから、過去から無理やり目を背け、前だけを見て、今日まで生きてきた。
なのに、戻りたいと思った。もう一度あの場所に行きたいと思ってしまった。
思うやいなや、無意識に踏み出した一歩が、私をあの場所へ連れて行く。
静かな夜更け、いつものように眠りに就いた私は、明日の朝は、目覚めないだろう。
目の前の列車に乗り、貴方の居る処を目指す。
ああ、ようやく、戻れる。
あの噴水の前で、貴方に会えるだろうか。
待って居てくれるだろうか。
貴方は、年老いた私を見て、驚くかもしれない。
貴方の居る処へ 時輪めぐる @kanariesku
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