第16話 松島さんと森崎さん
十二月に入る少し前から、二人の女の子と知り合いになった。
二人は顔見知りのようだったけど、俺は彼女たちと別々に知り合って、それぞれと他愛ない会話をした。
一人は松島さんと言って、華奢なメガネをかけた大人しい感じの女の子だった。
和田さんと同じように、前からたまに図書室で見かける子で、後期から図書委員になったらしく、あるとき受付に座っていた彼女から、「これ面白いですよね」と俺が返却した本を見て声を掛けられた。
思い切ったように話しかけられたのが分かって、こちらも少し構えてしまった。
「はい、とても面白かったです」と丁寧に答えると、「あ、私も一年なので」と、やたらと深く頭を下げられた。
それは分かってたんだけどな、と思いつつ、「そうなんだ、A組の高瀬です」と自己紹介をすると、そろそろと顔を上げた彼女は、メガネの奥からジッとこちらを見つめてきた。
どうしたんだろうと窺うと、ハッとしたように視線を逸らされて、「C組の松島です! よろしく!」と、彼女はまた勢いよく頭を下げた。
その日から、図書室や廊下ですれ違うと、軽く会釈を交わすようになった。
もう一人は森崎さんと言って、E組の背の小さい女の子だった。
あるとき売店で、買い忘れていたノートと、気まぐれに売れ残りのシュークリームを買ったとき、後ろから、「ごめんねえ、もうシュークリーム売り切れなのよー」と売店のおばさんの声がして、「えーそうなんだぁ」とがっかりした声が続いた。
彼女のその声は特徴的で、俺はその声を何処かで聞いたことがあるような気がした。
引き留められたようになった俺は、とぼとぼ歩いて来たその子に、「あげます」と、持っていたシュークリームを渡した。
「いいの?!」
アニメみたいに目を輝かす彼女に、「凄く食べたかったわけじゃないから」と頷いて見せ、お財布を出した彼女に、いいよ、とその場を後にした。
次の日、彼女はうちのクラスに来て、「昨日のお礼」と、時々うちの母さんが買ってくる、地元の老舗洋菓子屋さんのバナナチョコチップクッキーをくれた。
「気にしなくて良かったのに」
「ううん、昨日はどうしてもシュークリームが食べたかったの!」
「ああ、そういう時ってあるよね。ここのクッキー好きなんだ、ありがとう」
「ほんと? 私も大好きなんだぁ!」
彼女はパッと笑顔になって、軽く自己紹介をした後、「じゃあまたね!」と帰っていった。
席に戻ると、持田と林さんに「誰?」と聞かれ、昨日の話をした。すると、貰ったクッキーがシュークリームよりもずっと高価だと教えられて、俺は大慌てで立ち上がった。
「返してくる!」
戸口から飛び出すと、彼女はもう廊下には見当たらず、俺はE組に向かった。でもそこにも彼女の姿は無かった。
入り口で喋っていたE組の生徒に事情を話してクッキーを返してもらうことにした。
次の日、机の上に小さい封筒があって、きっちりシュークリーム代が入っていた。
「律儀な子だね」と林さんが笑って、「本当だね」と俺も笑った。
二人とは不思議と共通点が幾つかあった。
松島さんはあまり口数が多くなく、会話する機会もさほどなかったけど、本の好みは和田さんよりも近かったと思う。
偶然持っていたシャーペンが同じだったり、彼女が鞄に付けていたぬいぐるみが、俺が中学の頃にクラブの奴らで流行っていた教育番組のキャラクターだったりして、懐かしさと少しの寂しさを感じたりした。
森崎さんとは、多分母さんの方が気が合うと思う。食べ歩きが趣味らしく、母さんが好きな洋食屋さんやお菓子屋さんを森崎さんも好んでいた。
そしてその方面のアンテナも高く、新しいお店はオープン前から知っていたりして、それを母さんに話すととても喜んでいた。
将来はグルメ雑誌か旅雑誌で働きたいと言って、「でも太っちゃうのが心配」と、特徴的な声で笑った。
二人は時々、俺に物をくれようとした。
オススメの文具だったり、新しくオープンしたお店のお菓子だったり。俺はそれを失礼にならないよう断った。
「断ったの? 食べてみたかった」
持田は残念そうにしていたけど、告白を断るストレスを重く見ていた俺は、友情以上の関係には絶対になるまいと、距離感を大切にした。
あるとき、二人が一緒にいるところを見掛けた。
あまり仲良く会話をしているようには見えなかったし、並んだ二人はどうにも雰囲気がチグハグで、二人にどういう接点があるのかと不思議に思った。
ただ俺はそのとき、立ちくらみや眩暈いに悩まされていて、深く考えることができなかった。
「起立性調節障害?」
父さんが、聞いたことがないな、という顔で炊き込みご飯を口に入れた。
「この年頃にはたまに見られるんですって。規則正しい生活と運動、あとは水分をしっかり摂ってって言われた」
「薬とかは?」
「学校には行けてるし、とりあえずそれから意識して、朝起きられなくなったりするようならまた考えましょうって言われたわ」
父さんと母さんの会話を聞きながら水を飲んだ。一日に1.5リットル以上が目安らしい。サッカーをしていた時なら浴びる程飲めたが、今はとても多く感じた。
俺は常にペットボトルの水を持たされることになった。
俺を診たお医者さんは、「ストレスはある?」とついでのように俺に訊いた。
大きな心当たりはあったが、母親が隣にいた手前、口にはできなかった。
ゲイという性的指向は、俺に少しずつストレスを与えていた。
球技大会を終えてから、クラスメイトとの仲は各段に良くなったけれど、その代わり男子との距離感には気を遣った。
自分の刺激にならないように幾分かは余計に距離を取った。
俺由来のその距離感は、時に敏感に察知されて向こうにも距離を取らせたし、遠慮と取られてさらに距離を詰められ、酷く動揺させられることもあった。
気安く触られると頭がギュッとなった。
普通の同性同士の触れ合いがどんなものか、周りをよく観察した。
意外にも女の子の方が寛容で大胆だった。
手を繋いでくっ付いて歩いたり、膝に乗ったり抱き締め合ったり。胸を触り合うのも見たことがある。その点、男はそこまでではない。
中学まで存在していた、『ふざけて股間を鷲掴みにする男』は、さすがに絶滅していた。今あんなことをされたら俺は悲鳴を上げる自信がある。
男で気を付けたいのは、力があり余ったやつだ。
無意味なタックルや、突然腕相撲を挑んできたり、自分より大きい人間を持ち上げたがる迷惑極まりない人種もいる。
体育で柔道がないことを心の底から感謝しつつ、二人一組でおぶさって、廊下を競って走る男たちを眩しい目で見てしまう。
何をやっているんだあいつらは。
俺は『近い距離が好きじゃないオーラ』を意識して出すようにしていた。こちらがいかなければ、向こうからも来ない。日本人の空気を読む文化が効いている。多分。
みんな疑問に思わないんだろうか。友達とそこまで近付く必要があるのかな。
でも直ぐに思い出した。俺だけが意識する同性と異性があべこべなことを。
女子とどんな会話をしても、笑い合っても、耳打ちされたってドキドキはしない。でも普通はそうじゃない。
昔は頭空っぽでできていた自慰行為も、いつからか雑念が多すぎてできなくなった。
特定の誰かや何かを想像することが嫌で、浮かびそうになる度に振り払ううち途中で萎えた。かと言って何も考えないようにすると、急に作業感が出て気分が持たなかった。
自分でもどうすりゃいいんだか分からなくなって、下着にティッシュを詰め込んで眠った。放っておくと夢精してしまう。
あるいは夢精にヒントがあるかとも思ったけど、俺の見る射精に繋がる夢は、明るい日の光の中の、まるであの世のような美しい草原で、天から降りてきた奇跡のような温もりと快感に股関を弄られて絶頂してしまうという、目覚めた後に自分が心配になるような夢であることが多かった。
界隈に本格的な寒さが訪れた頃、めまいなどの症状は落ち着いた。
気まぐれに筋トレやランニングなんかをしてみたお陰かもしれないけど、一応変わらず水分は摂るように気を付けている。
クリスマスの彩りが街に溢れて、学校でも付き合い出す生徒が増えた。
荒生さんと三住さんにも彼氏ができたようで、ホッとする自分に複雑な気持ちがした。
校内で所かまわず引っ付くカップルを心の健康の為に見ないようにした。
最近の悩みは、どうやら自分は男に抱かれたい側であるという認識が出てきたことだった。
カップルのうち、肩を抱き寄せられて彼氏を見上げる女の子を羨ましく感じたし、一度キスをする二人を見た時には、彼氏の口に付いたリップを拭う女の子の、ぷるぷるの唇に謎の腹立たしさを覚えた。
そして今、俺の身長は177センチになっていた。
そこまで大きいというわけではないが、日本人男性の平均身長が170ちょいだということを考えると、俺を抱けるゲイの人口の少なさに閉口した。
贅沢を言うなら身長は自分より高い方がいいし、身体付きもほどほどに包み込んでくれるくらいが望ましいと、なんとなく思っている。
「どうした? 溜め息吐いて」
言ったのは鶴見だったけど、何となく今の口調には耳馴染みがあった。
「いや、年末だなって思って」
俺はそれが誰だったかを考えながら返事をした。
「その前にクリスマスでしょー?」
林さんが盛り上げるように机をぺんぺんと叩いたのに、「別にウキウキする要素もない」と、つい盛り下がる答えを口に出してしまった。
「確かに、親にプレゼントを貰う年頃でもないもんな」と、俺とは違う方向で鶴見が同意してくる。
「俺は買ってもらうよ! 欲しい服ある!」と持田。
「もっちー甘やかされてるぅーとか言って、私もクリスマスコフレ買ってもらうんだけど」
「コフレ? 食いもん?」
わくわくして訊いた持田に林さんが笑って、「化粧品!」と正した。
「高瀬は何か欲しいものはないの?」
鶴見に訊かれて、うーんと唸りながら、やっぱり鶴見の口調は誰かに似ているような気がした。
「物欲があんまりなくて」と返すと、鶴見は、「その年でそれは、あんまりいい傾向とは言えないね」と笑った。
ああ、と気が付いた。中屋先生だ。
思い出すと少しだけ気持ちが上向いた。
先生が登場する中学時代の風景は、数少ない、いい思い出だ。
夏にも思い出したっけ。あの時も先生に会いたくなった。今もまた少し会いたい。
クリスマスについて盛り上がる三人を眺めながら、背の高い先生のフォルムと、穏やかな声を頭の中で思い浮かべた。
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