第三章 いつも隣に
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三カ月後。
季節は一つ進み、外はすっかり夏の暑さも終盤になっていた。目雲は感情の変化のお陰かあれから大きく体調を崩すことはなく、これまでのなく精力的に活動していた。
ゆきはスタンスだけは相変わらずだったが、生活は大きく変わった。
涼しい部屋でダイニングテーブルにパソコンと資料を広げて、静かに手を動かしているゆきの足元を丸い物体が通過していく。
ぶつかったわけではないが、気配にゆきの意識が向いた。
「今日も働くね、君ってば」
一緒に住み始める時に目雲が買うことを提案したロボット掃除機が、最近の日中のゆきの話し相手だ。
これまで独り言をそれほど言う方ではなかったのだが、バイトを辞めたせいか少し増えた。
打ち合わせも多いので人と話す機会がないわけではないのだが、勝手に動いている物がいるとどうしても話しかけたくなってしまうのかとゆきは自己分析している。
「休憩しますか」
律儀に働き続ける機械を横目に、一息ついた。
新しくコーヒーを淹れなおして、休憩と言いながらつい資料を捲ってしまう。すでに活字中毒過ぎて、いよいよ目雲にもそのことに気付かれ始めている。
隠していたわけでもないので、ゆきが予想を上回るそれだと単純に目にする機会が増えただけなのだが、勉強好きの目雲でさえ驚くほどだった。
それはどこに行くとも予定のない休日。一緒に暮らし始めてバタバタとしていたのがようやく落ち着いたから、ゆっくりしましょうとどちらからともなく、各々家の中で好きなことをしていた時。目雲は料理をしたり、勉強をしたり、引っ越しで片付け切れていなかった荷物を整理したりしていたのだが、ゆきは目雲が昼食とおやつに声を掛けた時以外はずっと本を読んでいた。別の日でも目雲が朝起きると、横ですでに起きたゆきが本を開いていたり、先に眠りに行ったはずがベッドでやはり本を手にしていたりする。
本を読んでいても目雲に話しかけられれば嫌なそぶりもなく反応するし、本を閉じることに抵抗もない。あくまで一人の時間だけなのだが、仕事でも文章と向き合っているはずなのにと、目雲でも思ってしまう。
そして不思議と一緒に暮らすまで、ゆきが本を長時間読んでいる姿をほとんど見たことがなかったと目雲は思い返した。
それと同時に苦しいだけを覚えている悪夢にうなされたあの日を思い出した。目雲の願いを聞いて傍にいてくれた時、あの時の音と部屋の雰囲気がとても心地良かったことを思い出して、ゆきに惹かれた一つだろうなと気付いた。
ゆきは目雲が勧めなければ、一緒に部屋にいる時は自分のための本を手にしない。仕事の時は必ずパソコンを開いているので、ただ本だけを持つのは自分のための読書の時間なのだとゆきはある時そう説明した。
「本がなくても生きていけないことはないんですけど、あるとずっと読んじゃうんですよね」
そう苦笑するゆきに、絶対本がないと生きていけないと思うとは目雲は言わないでおいた。
ゆきは本を読む独自のルールを作っていて、仕事の時は必要な物以外は読まないことや、誰かいる時も基本的には本は開かない。電子書籍もマンガ以外は仕事関連だけに留めていた。
マンガは友人の薦めや、映像作品も含め流行物に目を通すためもあるのだが、紙の本を置くスペースをこれ以上確保できないので電子の世界に頼っていた。
「電子書籍なんて無限ですから、私には危険すぎます」
目雲が持っていたタブレットで読めると言った時のゆきの怯えにも似た断り方は、中毒の具合を物語っているようだった。
ゆきにとっては相当なパンドラの箱であり、宝の山でもあった。なので、タブレットは禁忌のアイテムでスマホはコミュニケーションと情報収集中心と決めている。
だから目雲は一緒に暮らすようになってから、本屋と図書館にゆきを誘っていくようになった。ゆきは最初遠慮していたが、嬉々として店内や館内を歩く姿も目雲は好きになり、つかず離れずでゆきの傍にいた。
そしてゆきの本の選び方も面白かった。ほとんど立ち読みもしないで、両手で抱えられるほどを手に取ると終わり。目雲が気にせずゆっくり選んでいいと言っても、ゆきは首を振り、必要な本がある時は一人で探しに来ることと、どんな本でも気になれば読んでみないと気が済まないから自由な時はこの方法が一番良いと、ゆきにとっても最善の方法なのだと目雲も納得した。
逆に目雲が図書館で本を物色しているときは、ゆきは椅子に座って一人で本を読んでいる。ゆきがその時間に飽きることがないと分かっている目雲は気ままに選ぶことができた。
本屋では目雲と並んで、会話を楽しむ。読んで面白かった本や作家の話、近頃の流行や名作の復刻など目雲が聞けばゆきはいろんな話をした。
ゆき自身は読む本をジャンルで分けることをしないので、文芸書はオールジャンルなのはもちろん児童書も新書も読む。その他でも興味が引かれればどんなものでも手に取った。
とにかく許されるなら永遠にゆきは読んでいるので、目雲は体か心配になってきている。
そしてそれは仕事に対しても同じで、夢中になると他のことが疎かになると目雲は実感を持って理解し始めていた。
もちろんゆきもあくまでも許されるならという前提なので、さすがに目雲と暮らし始めて生活はさらに規則正しくはなっている。
ただ目雲が仕事に行っている間は打ち合わせ等の予定がなければ時間を忘れてゆきも仕事をしている。
最近コラムと小さなエッセイの仕事も始めたので、より仕事量は増えていた。
休憩を取りつつもゆきはいつも通りすっかり暗くなるまで仕事をし続けていた。
「帰りました」
「あ、おかえりなさい」
玄関の音に気がついていなかったゆきが目雲の声に振り返る。
「今日はここだったんですね」
複数の仕事を同時に扱っていることもあって、ゆきは気分で家の中の仕事場を変えていた。
書斎にダイニングに、リビングのローテーブル。
カフェなどには基本行かない。会話術を習得しようとしていた名残で他人の話し方に意識を持っていかれることがあるからだ。
書斎には在宅勤務に向いたゲーミングチェアをたまに目雲も家で仕事をするので二人で選んで、ダイニングセットはもともと目雲が使っていたのをゆきが気に入っていたのでトランクルームから持ってきて使っている。リビングのローテーブルは少し大きめの物に買い直し、床に座ることの多いゆきのためにふわふわなカーペットと座っても抱えてもいいクッションをいろいろと目雲が揃えてソファーに並べてある。
さっと仕事を切り上げたゆきに、帰宅後のルーティンを終わらせた目雲が声を掛ける。
「今日は一緒に作りますか?」
「じゃんけんでもいいですよ」
ダイニングテーブルの横に立つゆきは自分のこぶしを目の前で振る。
目雲は食事を作りたがるのだが、ゆきが休んで欲しいからと自分が作ると言う。折衷案でできるだけ二人で作ることにしていた。とは言いつつ献立を考えるのもほとんど目雲で食材も計画的に買って使うので、ゆきは本当に手伝いをするくらいだ。そしてたびたび目雲はどうしても作りたい物があるとか、作り置きを仕込むといってキッチンに籠ることがあるので、そういう時は素直に任せるようにしていた。
けれどゆきは考えた。それがじゃんけんだ。勝った方がその日の夕ご飯を一人で作れるのだ。これなら目雲を休ませることもできるし、逆にゆきも目雲にきっぱり託してしまうこともできる。
「今日は一緒に作りましょう」
目雲はメニューの工程を考えてゆきを誘った。
ちなみにゆきの作る料理が目雲も嫌なわけではない。ゆき曰く目雲ほどの腕前はないけれど、定番のメニューなら自分もそれなりの味付けにはできると言ってさっさと作る料理は、家庭の味で目雲も好きだ。生姜焼きやから揚げ、ハンバーグなど。あとは目雲を見習ってサラダやお浸しを付けて、ごはんと汁物。他には親子丼やポキ丼、うどんやそうめんなんて時もあって、あまり手のかからないレシピばかりだけど、作りなれているので失敗することもない。
余っている材料で肉野菜炒めにしたり、具沢山のスープにしたりと、冷蔵庫の中にあるもので適当に作ることもできるので、目雲に確認してあり物でさっさと晩御飯を仕上げる。
そして目雲は朝食も昼用の二人の弁当も自主的に担当しているので、ゆきの心配も筋違いと言うわけでもなかった。
他の家事では、洗濯はゆきの担当。半分は乾燥機とクリーニングなので、多くはない。
掃除はそれぞれがなんとなく分担している。洗面所はゆきが一人暮らしの時の癖で顔を洗ったついでに朝洗っていたり、風呂は最後に入った方、キッチンのシンクは目雲が夕食の後片付けのあと洗っている。ちなみに朝食後の片づけはゆきが食洗器に入れる程度だがやっている。
二人でならんでキッチンに立ち、ゆきが野菜を洗って刻んで、目雲が炒めたり煮たり味付けをしたりを担当していつも通り晩ご飯が出来上がり、二人で食べる。
目雲はゆきが一人暮らしを始めた時の事件を知ってからずっと、一人にしておくのが心配で仕方なかった。
そうとは聞かなかったが、例えばゆきが事件後すぐにバイトを始めたことや、ゼミ室で寝落ちしていたりはなるべく部屋に一人でいたくなかったのではないかとか、長く引っ越しをしていなかったのも安全だと分かった部屋から引っ越すことへのリスクから二の足を踏んでいたのではないかとか、邪推すればいくらでもできた目雲は何も感じさせないゆきだからこそ、できるだけそばにいたいと考えていた。
だから自分との将来を見てくれているのならば真っ先にゆきに同棲を提案していた。
ゆきはお互い引っ越したばかりだと最初は驚いていたが、目雲が素直に一緒に居たいと言えばあっさり了承した。ゆきもなんとなく目雲がいろいろ心配していることは分かっていたので、それで安心してもらえるのならという気持ちがあったからそれほど迷うこともなかった。
バイトを辞めたのも希望に沿う条件の新居が遠くだったというものあったが、思い切って翻訳の仕事に専念するためというのが大きかった。バイトがなくとも生活だけならなんとかしていける程には稼げていたのが、バイトを辞めた弊害は違う部分に現れ、そのせいで目雲にまで生活力を疑われることになる。
それが弁当の理由、ゆきは翻訳の仕事に集中したら食事をしないことがばれたのだ。定食屋のバイトは賄があったからまだ週の約半分はしっかりと昼食を取っていたのだが、翻訳の仕事に本腰を入れ始めた頃から夕食も適当に済ませることが続いていて、朝食だけ唯一毎日食べていると白状させられた。
もともと目雲が昼食に弁当を作るようになったのも自身の健康のためなのはもちろんだが、いつかゆきにも用意しようかと練習の部分もあった。けれど一日三食作るなんていうことは束縛が過ぎると自制する気もあったので同棲したからとすぐにそんなことは言わないつもりだった目雲なのだが、ゆきが食べないとなると話が違う。
「甘いコーヒーを、たまにミルク入りとかで飲んでるとそんなに空腹が気にならなくて、物語の中にいると胸がいっぱいになって食べなくてもいいかなと思ったり……とか」
目雲の顔色を窺ったのか、微笑みながらも目を逸らし気味にゆきは話すので目雲も流石にため息をついた。
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