湿度120%
とても蒸し暑い六月の今日、午後。暑いことにはもちろん暑いのだけれど、それ以上に高い湿度。気分はサウナ。今朝はさほど気にならなかった湿気。どんどん湿度が上がっている気がする。何か予感のようなものが近づいてくる。けれども目に映るのはありふれた日常。
やっぱり。湿度計のついたデジタル時計の置かれた教室。教卓の前で中腰になって、もう10分以上見つめているけれど、湿度はどんどん上がっていく。数分ごとに、1%ずつ上がっているのだ。すでに97%。これまでの常識が、別なものへと切り替わってしまった世界にいるということは、すでに悟った。これほどまでに高い湿度は、明らかなる異常。100%になる瞬間を見届けてやろう。98%、99%、100%。生ぬるい水蒸気の中で泳ぐような全身の感覚。以前はとても不快に感じただろうけれど、もうすでに別の世界への入り口を、知らないうちにまたいでしまったのだ。むしろ心地良い。101%。避けられない驚き。102%。103%。水玉が現れる。100%を超えて、空気中に含まれきらなかった水分子が、水のかたまりとなって空気中に浮かびだしているのだろう。
湿度計は120%を示してそれっきり。教室を出て廊下を歩きだす。あちこちに大つぶの水玉が浮かんでいて、まるで夢の中。「今日も水玉めちゃきれいやねー」「ってかさ、京都大学のご主人が結婚を証明したらしいよ」「え、まじー、やっぱ結婚相手は偶数がいいよねー」水玉は当たり前に存在していて、おそらく偶数であると思われる“京都大学の夫”が結婚を証明したような世界にいることが分かった。そして、そんな話をしている女子学生たちの顔を、水玉を通して眺めると、彼女たちの考えていることが見える、ということも分かった。とても不思議で奇妙な世界だ。そして、そんなことを考える私はこの世界でマイノリティーだろう。少数派の気持ちを理解するためには少数派になるしか方法はないのかもしれない、と思う。そう思うのは少数派であることの証拠。
男性の考えていることは分からない。どうやら同性の頭の中は見ることができないみたいだ。そして水玉を通した観察によれば、女性はみな、頭の中に数字を思い浮かべて、考えを得ているらしい。そしてかつての世界における“良い意味の言葉”は偶数であり、“悪い意味の言葉”は奇数であるようだ。この世界では「昔の価値観だ」と言われそうだけれど、私は偶数も奇数もどちらも同じだと思う。
少なくともかつての世界では私の一番の友人であった、山中さんはどこだろう。彼女がどんなことを考えているのか、見ようと思えば見てしまえる。“昔の価値観”に従えば、そんなことは彼女の尊厳を傷つける、と思うけれど、この世界では普通なこと。山中さんはキャンパスの南側の日当たりの良い芝生が好きだったはず。行ってみるか。
広場への階段を登ってぐるりと芝生を見渡す。木陰で座っていた山中さんと、水玉越しに目が合った。山中さんの考えていることは分からなかった。そしてその目は「こっちに来て、話そう」と語っていたから、私は山中さんの方へ歩いていった。「松嶋くん、いたんだ、この世界にも」「直美はここにいると思って。直美は、僕の考えてること、分かる?」「男の人の考えてることは、水玉を通せば見えるけど、松嶋くんのは見えない。でも分かるよ」「友達だからね。直美の考えてることも、見えないけど、分かる」「私たちはお互いの頭の中を見れないみたい」私と山中さんは、似たような状況みたいだ。顔を見合わせた私たちの間に漂ってきた水玉は、何を見せてくれるわけでもなく、ただそこにあるだけだった。それでもよかった。この世界に通じ合える人がいる、ということがわかったから。
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