10 寒空の下、独り舞台



 ──『クエビコ様』が来ない。捧げられた罪人を食らいに、降りてこない。

 いつも通りのはずだった、しかし綻びは生じてしまった。集まった数十人、村人にとってはじめは違和感程度だったそれも次第に紛れもない事実へと変わり、群衆全体を恐慌状態へと追い立てる。矛先は、当たり前のようにこの場で唯一の異物へと向けられた。


 空気が爆発する寸前の、一瞬の停滞。それを切り裂いたのは他でもない、壇上の拘束された青年で、


「──あー、あー、諸君。お集まりいただきありがとう」


 白く淀んだ曇天の下、得体のしれない笑みを携えて、奇妙な風体をした青年──君月きみつきがよく通る声でそう告げた。それは村人の意表を突くという点では満点だった。事実、彼らはその奇異さに当てられたように、確かに聴衆か観客のごとく一斉に静まり返ったのだから。


 形容するならば恐れ知らず、もしくは空気の読めない。奇を衒うにしても場違いさが天元突破している、間の抜け方がいっそ気味の悪いほどの発言だった。


「……何を、笑っているんですか」


「ごめんごめん、癖なんだ。他意はないよ」


 立場上、君月の座らされているお立ち台に一番近かった男性──丹羽にわが代表するように──否、ただ本人が思ったことを言っただけに過ぎないのだろう。ただそれが、この瞬間は間違いなく村の総意だったというだけで。


「あ、そんな怒る? うわ参ったな、ちょっとノイズかも」


「──」


「ま、もうしょうがない。諦めてくれ、僕も諦めるから。──君らの言う『クエビコ様』が、何故今回に限って来ないのか。知りたくないかい?」


 話題の急転回。それも、大層口幅ったく。

 ざわめきが再度広がる。けれど、「何を言っているのか」「犯人はお前だろう」──などと食ってかかるモノがいなかったのは、図ってか図らずもか、ここまでのやり取りにある程度熱が冷まされていたから。それと、


「暴力なんかに訴えないで。さ」


 そう、心の内を読んだかのように付け足されたこと。この村に蔓延る恐れの根本──ただの口喧嘩ですら村のためにていのいい『罪』とされる、そんな異常を受け入れてここまできてしまった、それがこの場においては何よりの仇だった。


 ──この身の程知らずを、誰かが止めなければならない。動かないといけない。

 けれど最初の一人が後で周りに責められないという確証も、またない。


「ひとまず、聞きましょう。裁きは我々ではなく、クエビコ様のものであるべきです」


 落ち着いた声で、群衆の中の一人がそう言った。誰かどうにか動かないものかと周りを伺っていた人々も、そう言われては仕方なく、といった様子でそれに続き、再び場は静まり返る。


 彼らが導き出した結果は、互いの不信による膠着状態。澄ました顔の彼が満足げに群衆を見渡すのは、やはりそれが狙いだったのだろうか。


「異論はないね。じゃ、手短に済ませることを約束しよう──初めに僕が疑問を覚えたのは、固有名詞の扱われ方だ」


 さてこうなれば独壇場。とでも思っているのか、それは随分と滔々、朗々たる話ぶりで。やたらと堂に入った、異様に慣れたような語り口でもって始まった。


 ことの真相を全てつまびらかに明かさんとする、いわば終局の幕開けが。


「固有というかこの地域特有の物に絞ると、まず『果ての二十日』についてはまあ許容範囲だろう。日本全国、かなり広い範囲で行われてる風習だし、地域によって差があるのも分かる。問題は『クエビコ様』だ」


 そこまで言い切って君月は一息入れる。

 この村には生まれてこの方、一度も外に出たことのないという者も多い。よって全国各地などと言われても、そのほとんどが半分も理解できていない顔をしていたが、最後の一言に限っては別だった。


 問題とまで言い切ったのだ。一体何にケチをつけようというのかと、顔を歪めた彼らは期せずして耳を傾ける羽目になり、


「旅先にもちゃんと資料を持ってくる優秀な職員がいて助かったよ。古事記こじきを確認してみたところ、案の定だった」


「……乞食?」


 丹羽が思わずといった様子で呟いた。しかし、君月のその迂遠な言い回しに首をかしげていたのは彼だけではない。──そこにいる多くが、そのコジキという単語に一切の聞き覚えがなかったのだ。


 しかし注釈も付けず、誰もが知っていることかのように口にした割に。君月はそういった聞き手の反応に驚くでもなく「知らないだろうね」と言うと、


「古事記っていうのはむかーしあった神話、もしくは歴史書。『変な諍いの種になる』っていうんで、結構前に発禁処分受けた本だから」


 そう、自身に動揺がなかった理由をこともなげに開示してみせた。


「ともかく、言いたいのは『元ネタがある』ってこと。大丈夫そう? ここまで着いてこれてる?」


 律儀にも確認を促すように、唯一自由に動く首を半分ほど傾けてみせる姿に。近くにいる者から遠く離れた者まで、気づけばその場にいる誰もが彼から耳を、目を離せなくなっていた。


 寒空の下、罪人とされた彼が身に纏うのは数日前と同じ喪服の一枚のみ。暴行を受けた形跡はないが、身なりを整えられる時間は与えられていなかったのであろう、髪は乱れ、服装には皴が目立つ。その格好は薄汚れていかにもみすぼらしい。


 後ろ手に回され、しっかりと手首を束ねて縛られた腕では凍える体も掻き抱けないだろう。見ているだけでも寒々しい光景だった。


 けれど彼の声に、あるはずの震えはない。固唾をのんだままの聴衆を前に、「ま、大丈夫そうで何より」と分かりきった軽口をたたく余裕すらある。


 ──形容するならば恐れ知らず、もしくは空気の読めない。

 彼の最初の一言に始まった、大方の感想は正しかった。ただし、今や度が過ぎていたといえる。


 度が過ぎればそれはもはや、人間離れした異様さの証明に他ならなかったのだから。


案山子かかしの神。動けないがこの世の全てを知っている知恵の神。それが、古くに語られていた久延毘古クエビコだ」


 本来こんなのもったいつけて言うことでもないんだけどね、と君月はひとりごちる。そして改めて顔を正面に向けると、心の底からおかしそうに付け足した。


「──見た目の違いもさることながら。罪を裁いて罪を与えるなんて大嘘、一体誰に吹き込まれたんだい?」


 道筋を整え終えて小さく嘆息する、かの涜神者の企みがようやく明かされるというときに。


 群衆が感じ取っていたのは、長く崇め奉った彼らの神、それを包んでいたベールがたった一人の手によって剥がされていく予感。そして、限りなく背徳に近しい結論に導かれている予兆。


 背筋が粟立つ。生唾を呑む。重ねた両手を強く握る。村人が見せる反応は多種多様であれど、一様に彼を止めるすべはないことを理解していて、止めようとする者も既にいない。


 ただそこに座しているだけの、それも手足を戒められた何の力も持たない青年に、彼らはまるで魅入られたかのように次の言葉を待ち構えた。


 続きを、と誰かが口にした。


「じゃ、そろそろ結論いこうか」


 それに応えるように、君月はこれがとどめとばかりににんまりと笑い、


「──ここの『神』は、外来種だ」


 そう、高らかに謳いあげた。



 ◆



 ──全然しんどい。


 それがいかにも平気そうな顔をして、『神』を貶めようとする冒涜者の仮面を被った君月が、その一枚裏で考えていたことだった。


 じんじんと冷えていた手足もとうに痺れ、数分前からは縛られているという感覚もなくなってきている。震えがないのはもはやその段階を通り越したからかもしれない。

 痩せ我慢にも限界があるとぼやきたくなる君月だったが、今はまだ堪えなくてはならないと、人知れず少し目を瞑るだけに留めた。──ここが、正念場なのだから。


「ことの始まりは三十五年前。君たちもよーくご存じ、そこにいる丹羽にわ氏のお父上が亡くなった事件」


 肺を刺す空気をめいっぱいに吸い込んで、スイッチを入れ直した君月がちらりと視線を向ける。その先で、丹羽がわずかに狼狽したような動きを見せたのが分かった。

 別にとって食いやしない──というか物理的に何もできないのに、と君月は少し愉快な気持ちになりつつ、


「許してくれと叫び、無残にも脳を一滴残らず吸い尽くされて亡くなった哀れな被害者。それを目にしたときに、ここの『神』は思ったことだろうね──これは使えるって」


 まるでその場面の再現のように君月が悪どい表情を作ってみせれば、村人が一斉に引き気味になったのが分かる。冒涜されたと感じたのだろう、至極真っ当な反応だ。


 確信をもっているかのような振舞いの君月だが、その実、発言の内訳は憶測の占める割合が半分ほど。被害者の発言をもとにした想像だった。


 ここの『神』と対面したことなどないし、その正体も未だ手がかりが少ないために今一つ確証には至らない程度。

 けれどそれも全て、悟らせなければ勝ちなのだ。

 ある意味では、その確証を得るためのこの場ということもある。


「伝承に違和感を覚えたことはあるかい? この村のそれは三十五年前を境に大きく違っている。最初に聞いたのはこう──」


 君月は美曙みあけらに任せた、あの日の聞き込みの結果を思い起こす。確か、江戸あたりから伝わっている話だとか言っていた気がする。


 ──かつて山には暴れ猪だか熊だか、定かではないが化け物と呼ばれた一つ目一つ足の獣がいた、という話だ。

 それをある流れの修験者が封じ、獣はクエビコという鬼神へとその身を変えた。そうして神は現在に至るまで、修験者の流れをくむ家──丹羽家をはじめとし、稗多ひえだ村を守っている。


 そういう、何の変哲もない村の成立譚。


「これ自体は、以前なんかは各地で見られていた民間伝承の一種と言っていい。野山を荒らす害獣を化け物に見立て、それを退治した者を祭り上げるといったね。ついでに後々その家が栄え、それが祖先の偉業に起因するとされたのなら『憑き物筋』の誕生だ」


 数日前に丹羽に言ったことを繰り返し、よくあるよくある、と君月は頷く。凝り固まっていたのか、少し骨の鳴る音がした。


「おかしいのは後半、近年生まれた方。守り神が人の悪行を機に荒神へと変貌する、筋は通っているが『罪』のくだりはやはり唐突感がある。言ってしまえば作為的なのさ」


 一人の村人が山に立ち入ったことをきっかけに、神は人の罪を裁くようになったのだと。

 そもそも、村は罪人により築かれていた。この村に生まれたものは生涯に渡り、神に懺悔し続けないといけない。神が罪人がいると告げれば必ずそれを探し出し、捧げなければならない。


 山には『罪を裁く神』が封じられているのだから。


「前後で明らかに食い違いが起きている」


 最初は存在しなかったはずの嘘の口伝。たった一人が死に際に口走った言葉を発端として、この村の歴史は外来の存在によって歪められた。

 まるで、最初からそうだったかのように。


「奇妙な風習も、全ては生き残りに嘘の歴史を刷り込み、自らの支配下に置くため。──『神』が土着のものでないとすれば、全てに筋が通るのさ」


 したり顔を浮かべた君月は考える。もちろん異を唱える者もいただろう、と。

 しかしそこは、全てを仕組んだ『神』が己に都合よくあつらえたであろう『罪人』制度だ。それ・・が村人を利用し、自らに反対する人物のみを排除したことは想像に難くない。


 従って、なぜこの少し考えれば分かる程度の改ざんが長年そのままにされてきたのか。

 その答えは、この村では思考を上手く停止できた者しか生き残れなかったから──ということになる。


「……そ、んな」


「名前も特徴も嘘っぱち。となると当然、残る疑惑はあと一つ」


 わなわなと零された声は誰のものか。


 あちこちから漏れ聞こえる驚愕の声を耳の端に留め、君月はこの村に来た、そもそもの始まりを振り返る。

『神の復活を止めてほしい』という、あの大層な文言の載ったメールを。


「『神』は封印されてなどいない。君たちは上書きされた神を崇め、捏造された罪に怯え、存在しない封印を解こうとしていたのさ」


 彗星が来訪し、村を滅ぼす。そのために生贄を捧げ、神の封印を解く。

 罪を許してもらい、神に守ってもらう。


「──あれ、誰が言い始めたのか覚えてないだろう?」


 あれは仮宿に人が押し寄せ、その思惑に則って君月が囚われの身となったときだった。


 人の群れの中に、いかにも人畜無害という言葉が似合いそうな一人の男性がいた。姓は山田やまだだったか田山たやまだったか、村に来てから一番に協力して──させたというべきか、ともかく関わりの多かった人物。確か、『裁判』の原告でもあった。

 ひとつ声でもかけようかと君月はその顔を見やって、気づく。


 彼が、ひどく嬉しそうにしていたことに。安堵のため息をつき、穏やかに肩の力を抜いて、彼は無造作に手を縄で束ねられた君月の護送に加わっていた。

 だから、君月は彼に聞いたのだ──「これで村が救われるんだっけ? よかったじゃないか」と。


 男性が自分に聞かれていると理解するまで数秒。目が合ったとき、彼は呆気に取られ、何のことか分からないといった表情をしていた。


「え? ……ぁ、ああ。はは、そう、ですねえ」


 我に返った男性の、失態を取り繕おうという焦りと罪悪感が入り混じり、結果的には媚びへつらうようになった肯定。そのとき、君月はようやく事の発端を──ひいては村人の行動原理を理解した。


「『罪人に許しを請うことは許されていない』、だったか」


 ──彼らはこの、毎年人を捧げ続けるなんていう異常にただ理由をつけたかっただけなのだと。


 封印があるのなら解いてしまえばいい。そうすれば、もしかしたら許されるかもしれない。覚えのない罪から逃れて、こんな因習を守る必要などなくなってくれるかもしれない。


 ただそのためには建前が必要で、それならばきっとなんだってよかったのだ。


「──けど、見たんだ」


 その声に、記憶の方に沈んでいた思考が現実へと引き戻される。そろそろ感覚のなくなってきた首を回し、君月が億劫そうに目を向ける。


「全部、嘘……なら、あれは」

「目玉が、」

「赤い目がこっちを見てくるんです」

「罪を償えと」

「見て、じっと、ずっと見て」

「真っ赤な、まるい」

「罪人がのうのうと生きている」

「見ているから、見られている、だから代わりをつくって、」

「あのとき見たものは、一体──」


 一つ二つ、ぽつりと落とされる独白めいた呟き。それは次第に速度を上げて増えていき、うねりとなって君月を中心に渦を巻く。

 彼らは口々に己が感じた恐怖を、自分たちが何をもって縛られてきたのかを訴える。あれは確かに、真実だったのだと。


「──。僕の知ってる限り、やつらばけもののほとんどは大した力を持たない。ただ、『っぽく』見せることに長けているだけ」


 それに半ば上の空で返しつつ、何か裏付けになるものをと脳内に引っ張り出したのはあの少女──ユユの証言。

 気づいたら『山』に足を踏み入れており、嘘のようにどこまでも緑の広がる『山』で、懺悔を迫る大勢の声と、真っ赤な一つの巨大な目玉を目撃したと。分かりやすく怯えた少女の、臨場感あふれる語り口が薄っすら君月の脳裏によみがえる。


 もう一つは君月が丹羽家に押し入ったとき、丹羽の見せた異様な挙動。

 突如窓の外を凝視し始め、明らかに『何か』に怯えていた壮年の姿。何かを視界に留めていたのは確かだが、君月の瞳にはついぞ、その異形の影は映ることはなかった。


 そして同時に、あれは君月が当初の予定が崩壊したことを悟った瞬間でもある。

 適当に果ての二十日とやらがくるまで待って、話によると一つ目の獣に近いという『神』を不意打ちで討ち取る。その手はずだったのだが、あれを目撃したことによって、『封印自体が嘘』という可能性に思い当たってしまった。


 そしてそれをきっかけに、この盛大な欺瞞に気が付いた。

 なぜならここの『神』は恐怖という、彼らにとってはオヤツ、もしくは非常食程度のものを主食にしていたから。


「だから……土台、無理な話なんだよ」


 白い息を吐く。一つひとつ証拠を積み重ねて、導き出されたものが答えだ。


「錯覚、虚像──実体のないただの幻覚。それが、『神』が稗田村を支配するために使った手段だ」


 気力と虚勢を振り絞って、同時に微かな生気が抜けるように唇の隙間から零れ落ちる。君月の推理がついに大詰めを迎えるという、その間際に。


 アタリだとでもいうように、生暖かい吐息が顔にかかる。


「……来ると思ったよ」


 君月は目を伏せ笑う。ちょうど人肌くらいだろうか、周囲の気温が心なしか上昇した気がする。

 明らかに質感の変わった、湿り気と少しのぬめりを含んだ空気が肌にぴたりと張り付いてくる感覚。吐息と言ったのは、そのゆったりと流れる風に独特の生臭さを感じとったから。


 瞬きをすると、いつの間にかそこは辺り一面、まるで夏の川のような真っ白い霧に覆われていた。

 ──取り込まれた、と直感する。

 変わらず音は、声は耳に届いている。聴覚までは支配されていなかったようで、それゆえに君月は、あの自身を囲んでいた人々も今は同じものを見ているのだろうと理解できた。


 視界どころか全身を包む薄膜の向こうに、君月は大きな大きな、赤い瞳を幻視していた。



 ◆



 ぎょろりとした赤い瞳。瞳だけの怪物──否、幻影。

 そこだけでも人の全長の半分はあろうかという大きさの、マーカーで塗りつぶしたように鮮やかな赤の虹彩は、人間味はおろか自然の産物にも到底見えない発色の良さ。死人のそれのように散大しきった瞳孔は反対に暗く、緑や茶の混じったどんよりと濁った色合いをしている。


 それが、見ている。じっと、ただひたすらに、瞬きもせず。食い入るように。


「……なるほど、これか」


 君月は静かに呟いた。これ・・に四六時中見つめられるという──仮にその可能性があるだけにしても、確かに御免こうむりたい話だ。この村の住人が、軒並み精神が参っている状態なのも頷ける。幻覚と分かっていても、息の詰まるような心地だった。


 あとは、聞いた話では『罪を償え』と繰り返し囁かれるとのことだったが──。


「来ないね。僕には、必要ないってことかい」


 一向にその兆候は見られなかったために、殺すのが決定事項となったことを君月が悟る。

 代わりに聞こえているのは、突如降臨した『神』に恐れをなした人々の、意味を成していない、また混ざり合って訳が分からなくなっている言葉の羅列。


 ──やれ、許してください、だの。僕は、私は悪くないだのと。


 懺悔し、告解し、罪人の言葉に耳を傾けてしまったという己の過ちを悔い改め、そうして人々は信仰を取り戻す。

 全て、『神』の思惑通りに。あと一歩で結実していた、君月の計画を台無しにするように。


 させてたまるか、と君月は思う。──思う、だけだった。


 意識がもうろうとしていた。赤い目がちかちかと鬱陶しい。どうやら、衆人環視の中でなくなったことで糸が切れたようだった。

 何か、まだやらなくてはいけないことがあった気がする。『呼び出す』までは成功した。けれどまだ、『神』に──化け物を倒すためには至らない、そのために必要な一手が、確か。


 あと一歩、もう少しだというのに、延々と手前で思考が止まってしまってその先にまで行きつかない。頭が回らない。紫色をした唇を横一文字に引き、くそ、と腹立たしさに言葉が漏れた。


 ──僕は、お前好みの恐怖を提供してやれない。お前の餌にはなってやらない。


 せめて、そういう意思を込めて、対抗するように見開いた目を爛々と光らせる。星が消える瞬間に桁違いの爆発を引き起こすように、まるで今際の際に一矢報いるかといった風貌で。



 ──だとしても、食えないことはないだろう、と。


 そんな声が聞こえた気がして、同時に底冷えのする温風が吹き抜ける。生魚に似た特有の臭いが、むわっと強さを増す。


 影が差した。向かってくるのだと、分かる。

 狙いは、とうとうがくりと首を前に垂らした君月の頭──脳髄。

 ぽっと出の部外者に──それも正攻法では手が出せない相手に村人の抱いていた恐怖の低下を計られ、あわや手塩にかけて作った餌場を失いかけた化け物が、霧にまみれてついに牙を剥く。


 その、瞬間に。


「──『シン』だ」


 君月の背後、かつ頭上。ふいに、少女の声が降ってきた。

 老成したように平たい低音の、それでいて響き自体は芯が甘く若さを残している。まるで外と中とで食い違う存在が併存しているかのような、奇妙に歪さをはらんだ声。

 それを耳にした瞬間、君月の口角がひくりと上がる。はたして嘲笑を向けるべきは、出鼻をくじかれた霧の化け物か、それとも己か。──なんて皮肉なのだろうと、君月は目を閉じたまま小さく鼻を鳴らした。


 君月がいるのは村の端も端、背後にあるのは禁足地とされた山のみ。目測だけでも十五メートルに迫るであろうそそり立つ崖は、常人であれば見下ろすだけで身震いする高さ。

 ましてや飛び降りなど、実行するには単なる勇気以上のものが必要になる。

 常人でなければいいのだ、つまりは。該当するのは人並み超過の身体能力を持つ、もしくは頭のネジが何本か足りない人物──。


「お待たせ」


 白刃をひらめかせて霧を裂き、真っ逆さまに落ちてくる、結城ゆいらぎ美曙という人間がどちらも兼ね備えていることを、君月は十二分に知っていた。


 そのときだった。目の前の、醜悪なる幻想が赤く燃え上がったのは。

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